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2004/11/30

卒業の頃      ( 2-7 )

 3学期も残り少なくなったある日、朝礼の時間、先生からこんな話があった。
 「昭和基地に残した犬の慰霊碑の除幕式に、S君が子供代表として呼ばれました」
 この年の2月、第二次南極観測隊が、悪天候に阻まれ、越冬隊員と数匹の犬しか救助出来ず、15匹の樺太犬が厳寒の南極に残された。 それを悼んで作られたと言う。
 S君が新聞に犬を救って欲しいと投書したらしい。 そんなこともあったので、翌年タローとジローが生きていたとのニュースに、私達は大喜びした。

 この頃、宇宙への関心も強くなっていた。 前の年の10月、ソ連が人工衛星の打ち上げに成功し、11月には犬が宇宙を飛んだ。 この年の1月にはアメリカも人工衛星打ち上げに成功した。 卒業文集に私は次のような夢を書いた。
 「将来ロケットに乗って、月や火星に行ってみたい」

 そうこうしている内に、小学校卒業となった。 卒業式の父兄代表として父が謝辞を述べた。 これは私の仲良しの友人の父親がPTA会長をしていた縁で、頼まれたものだった。
 「・…右も左も区別できない未熟な子供達を、ここまで育てていただいて・…」
 父の謝辞を聞いていて、私は顔が赤くなるのを感じた。  そうなんだ。 私は本当に右と左の区別が苦手だった。 

 「ご飯茶碗を持つのが左手、お箸を持つのが右手よ」
 母は何度も、繰り返し言ってくれたが、しばらくすると忘れてしまった。 東西南北を憶えるのも苦労した。
 ある時など、理科で方位を習った後のプリント練習で0点近い成績を取ってしまった。
母に見せるのがとても恥ずかしかったのを覚えている。
 九九の暗記も苦手だった。 家で何度も何度も練習していると、下の姉にまだ覚えられないのとからかわれた。 

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2004/11/28

赤胴鈴之助    ( 2-6 )

 当時、ラジオでは 『赤胴鈴之助』 が放送されていた。 私は、この六時台に放送される連続時代劇シリーズが好きだった。 以前には、NHKで 『新諸国物語』 が放送されていた。 「ヒャラーリ、ヒャラリコ…」 笛吹童子の笛の音に乗って、私の心は、はるか昔の時代劇の世界に引き込まれた。 
 遊び疲れて、家に帰ってきて、この放送劇シリーズを聞いて、それから夕食というのが、私の生活パターンだった。

 「剣をとっては日本一に、夢は大きな少年剣士… 」
 この放送劇に端役で出演していたYさんは、私の友人の幼友達だった。 私達より一年先輩で、中学時代、夏期の林間学校の時、地域別グループで一緒になった。
 仕事が忙しいとかで、遅れて参加し、早く帰ってしまった。広いつばの赤い帽子と、パステルカラーのワンピース姿は、まるでファッション雑誌から抜け出てきたように見えた。 気楽にYさんと話す友人が 私にはちょっとうらやましかった。
 「どこの誰かは知らないけれど、誰もがみんな知っている… 」
 少し後になるが、この歌詞で始まる 『月光仮面』 も好きな番組だった。

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2004/11/27

サイクリング    ( 2-5 )

 渋谷区といっても我が家の近辺には未だ所々に自然が残っていた。 幡ヶ谷駅近くの玉川上水には、水も少量流れていて、夏ともなるとホタルも飛んでいた。
 か細げな光が、闇の中をスーと飛び交っていた。 近所を小一時間も歩くと、何ヶ所か畑が残っていて、季節の野菜が植えられていた。 畑の隅には大抵、桑やサンショ、桃やミカンなどの木が数本植わっていた。

 自転車にもよく乗った。 一番よく行ったのは、八幡神社(代々木八幡神社)の境内に寄り、明治神宮に行くコースだった。 神社は、こんもりとした木々に囲まれた、小高いところにあり、境内には、日本史の教科書にも載ったことのある、復元された竪穴式住居があった。 秋には、結構盛大な祭りがあった。 入り口の石段を登ると、露店がぎっしり並び、ゆかた姿の人で賑わった。

 神社を過ぎて、小田急線の踏切を渡ると、広い道に出る。 向こう側にはワシントンハイツが現れる。 アメリカ軍用住宅で、以前は陸軍練兵場だったという。
 後に、日本に返還されて、オリンピック選手村に使われ、今では、代々木公園と青少年総合センターになっている所だ。 ワシントンハイツの高い金網に沿って、しばらく行くと、明治神宮の参宮橋門につく。 そこに自転車をおいて、中に入る。

 昼でも薄暗い、大木に覆われた砂利道をしばらく進むと、前方が明るくなり、広いなだらかに起伏した芝生に出る。私達はそこで鬼ごっこをしたり、ボール投げをして、思いっきり駆け回った。 体中汗をかき、疲れると、広い芝生の上に寝転がって、空を行く雲を眺める。

 ある時は、広い牧場でのんびり草をはんでいる羊の群だったり、又ある時は、天の羽衣をなびかせ、天空を舞う天女の姿だったりした。 時には、走馬燈のように、次々と場面が変化した。 親子連れのアヒルの後から、これ又親子連れの象が来たと思うと、サバンナの動物達が大挙して押し掛けてきて、その後を、一匹の巨大なゴジラが、口から炎を吹き出しながら追いかけてきたりした。青い大きなキャンパス、白い雲の絵の具。 私達は、想像の絵筆を自由自在に走らせた。

 時には、結構遠出をした。 友達四、五人と甲州街道沿いに芦花公園や多摩川べりまでサイクリングしたこともある。ある時、友人の一人が車道と歩道の間に積んであった砂に車輪をとられ、歩道側に転倒した。 その直ぐ横を、ダンプカーが排気ガスを黒く噴出して飛ばしていった。 もし、車道側に倒れていたらと思うと、私達はゾッとした。

        

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2004/11/26

代々木上原    ( 2-4 )

  1955年9月 父の退官にともなって、官舎を出なければならず、転居先を探した。
私も父と母に連れられて何軒かを見て回った。 本郷近辺や、小田急線の柿生周辺も見た。 最終的に西原の家に決まった。 代々木上原で下車、歩いて10分位の所にあり、京王線幡ヶ谷駅にも近かった。 敷地50坪の二階家だった。 5Kという間取りが父の気に入ったらしい。
 部屋数が多いので子供部屋がたくさん取れるからだ。 築20年で、借地権付き戸建てということで割安なため、父の退職金で手が届くという事も決めた大きな要因だったようだ。

 引っ越しの翌日、私は母に連れられて近所の小学校に行った。 私にとって四つ目の小学校だった。 学校は歩いて10分位の所にあり、校庭はコンクリートで覆われ、木造校舎はかなり傷んでいた。 事実、6年生の時、同級の女子が職員室の前を歩いている時、廊下の板が割れて足が中に挟まった。 どうしても抜けず、先生が鋸で板を切って救い出すという騒ぎもあった。 可愛そうに当分の間その女子生徒は、男子生徒から “デブ ” と呼ばれることになってしまった。

 当時ベビーブームとかの影響で、児童数が学年を追って増えていた。 教室が足りない為、校庭の隅にプレハブの校舎が建てられ、私達のクラスもすし詰めだった。 机と机の間は、横にならないと通れないし、一番後ろの席の人は、後ろの壁に寄りかかれた。
 校庭でも、激しい動きの遊びは禁止された。

 この時期、私は読書に多くの時間を割くようになっていた。 家にあった日本文学全集を片っ端から読み、学校図書館では名作といわれる本を手当たり次第に借りては読みふけった。 その内に私は、シャーロックホームズに夢中になり、シリーズを全部読みきると、次は怪盗ルパンシリーズにあたった。 それを読みきると世界推理小説選と、図書館のその手のめぼしい本は読み尽くしてしまった。

                 kouteinite
                      休み時間

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2004/11/24

お化けごっこ    ( 2-3 )

 私と康子ちゃんの一番のお気に入りの遊びは “おばけごっこ” だった。 夏休みになると、私達は何日もかけて、お化け屋敷造りに熱中した。 
 官舎の裏手はがけになっていて、笹や雑木が生えていた。 そこをよじ登ると、寺院の墓地に出た。 私と康子ちゃんは、そのがけで沢山の笹をとり、お化けの隠れる場所を作った。 それから、色々なお化けのお面を作り、ボロ傘を集め、衣装を整えた。

 準備が整うと、夕方近所の人を招待して、お化け屋敷大会を開いた。 二人は一生懸命、色々なお化けを演じ、母や姉も大いに怖がってくれた。
 ただじっと隠れている間、蚊に刺されるのには閉口した。 翌年からは、ブタの蚊取り線香を側に置くことにした。

 当時学校ではドッジボールがはやっていた。 休み時間だけでは飽き足らず、放課後誰かの家に集まっては、家の前の道で夕方まで続けた。 私はバレーボールは直ぐ突き指してしまうので苦手だったが、ドッジボールは好きだった。 最後まで逃げ延びて、生き残るスリルはたまらなかった。 手の力は無かったが、逃げ回るのは、野山を駆け回って育ったおかげで敏捷だった。 その頃、私達の間ではやっていた遊びには、ほかに缶けり、石けり、島オニ、ゴムだん、縄跳び、花いちもんめ、などがあった。
 何しろ、いつも外で遊んでいた。 家の中は狭かったし、おもちゃも無かったせいもあったかもしれない。

 家から10分位の所に、自然教育園があった。 武蔵野の自然が残されていて、中にはいると、鬱蒼とした樹木に圧倒される。 どんどん歩いていくと、奥深い池に出る。シーンと静まり返った水面を、水鳥がスーッと泳いでいく。
 なおも歩いていくと、突然視界が開け、明るい湿地に出る。 四季折々の野草が、美しい花を見せてくれる。 家族の誰かが行くとき、私はたいていついていったので、私には庭のような感じだった。 夏休みの絵の宿題は、ここでの写生に決めていた。

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2004/11/22

自転車       ( 2-2 )

  この時期に私は自転車に乗れるようになった。 康子ちゃんがおじいさんに買ってもらったとかで、ピカピカの子供自転車を手に入れた。 私達は毎日、夢中になってその1台で自転車乗りをけいこした。 順番が回ってくるのが待ち遠しかった。
 早い、遅いの差は少しはあったが、ある時期には皆マスターして、皆それぞれ自前の自転車を調達した。 私は兄の大きな黒い自転車を横こぎで乗れるようになっていた。私達は、近所の道という道を、我が物顔になって乗り回した。

 その内に、家の近くの坂道をブレーキをかけないで猛スピードで降りてくるスリルに私たちはとりこになった。 その坂は車の通行は滅多になく、人通りも稀だったし、結構広々としていた。 降りきった所を右手に曲がると、私達の家の前の道になる。
 ある時、私はハンドルを切りそこなった。 角の家のコンクリート塀に思いっきりぶつかって倒れた。 ものすごく痛かったが、ひざ小僧をすりむいただけで済んだ。
 その後もその急坂は、私達のお気に入りのスポットだった。

        

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2004/11/20

少女時代    ー東京へー     ( 2-1 )

           転校
 1953年2月 東京、品川区小山台に転居。適当な官舎の空きが無いとのことで、とりあえず入居した家だが、2Kの平屋だった。 今考えるとどうやって寝ていたのかと思うが、私には狭いとか、不便だったとかの記憶はない。 子供は何でも現実を受容するのだろう。

 新しい学校の帰り道、私は毎日、商店街のはずれにある、今で言うペットショップに寄り道した。 小鳥、犬、ネコ、ウサギから始まって、は虫類や魚など、色々な種類の動物が、所狭しとおかれ、私はいつまでも飽きずに眺めていた。
 また、家の裏手に隣接していた、林業試験場 (今は林試の森公園) によく行った。 苗木や実験林の間にいると、何となく気持ちが休まった。

 学校では、空き時間に、担任の先生が本を読んでくれた。
 お姫様が死ぬとき、四方八方に飛び散った八個の数珠玉の行方を探し求めるという話だった。 二つ三つと玉が現れる度に、私はどきどきした。 いつも次の空き時間を心待ちにしていた。
 また引っ越しが決まったときは、残りの玉の行方を知らないままに、その学校を去るのが何とも心残りだった。

 1953年5月 少し広い官舎が空いたということで、品川区上大崎に移る。
といっても3Kの家だった。 私には三つ目の小学校だった。 私はこの時期、初めて同年代の友達と遊びまわる楽しさを知った。
 三軒同じ様な官舎が並び、我が家の隣には同い年の康子ちゃんがいた。 官舎の北側に接して、広い芝生に囲まれた洋風の家が二軒あり、アメリカ人の家族が住んでいた。
父親は大学の先生だという話しだった。 そこの子供達も私達の遊び仲間だった。

 官舎内の境界は竹垣だったし、アメリカ人の家のフエンスは低かった。 私達は正規の門を通って行き来することは稀だった。 総てが一続きの庭だった。
 アメリカ人の子供の一番のお姉さん、メアリーは私と康子ちゃんと同い年だった。
メアリーの家には時々遊びに行った。 広いダイニングキッチンは南側に面していて、広くて、窓が大きく、とても明るい感じがした。 冷蔵庫がすごく大きく、中には見たこともない食べ物がギッシリと詰まっていた。 メアリーのお母さんは時々私達にクッキーを作ってくれた。 ミルクとバターの味がするおいしいものだった。

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2004/11/18

小学校入学   ( 1-15 )

  私が瀬戸内の豊かな自然の中で元気に遊びまわっている内に、二年近く過ぎ、小学校入学の年になった。 父と母は私をどこの小学校に入れようか迷っている風だった。 姉や兄は電車に乗って遠くの学校に通っていた。 しかし、小学一年生になる小さな私に電車通学は無理だと考えていたようだ。 しかし、地元の小学校は、漁村の子供が多く、私が入学して“いじめ”に会わないか心配しているようだった。
 私も以前のアサリの件もあり、父母の心配が伝わってきた。 色々考えた末に、下の兄が在学中の遠い小学校に私は通学することになった。

 私は“寄留”してその学校に入学する為、試験を受けに、その学校に連れて行かれた。
 「数を数えてごらん」 私は1から10までスラスラ言った。 
 もう少し先まで言えると思ったが、自信が無かったのでやめた。 次は三角形や丸、四角を見せられて、他の絵の中から同じ形を探すように言われた。 これは簡単だった。 帰りの道々、私は入学できるかどうか一寸心配だった 頑張って11、12、13まで言った方が良かったように思えた。 

 数日後、その小学校の入学許可の通知が来て、四月、私は、小学校の入学式を迎えた。 学校は私の家からは、宮島線に乗って二つ目にあり、後ろに山を控えた小高い所にあった。 校門を入ると大きな桜の木があり、入学式の日は、満開の花が私達を迎えてくれた。 校庭を入った右手奥に、竹で出来た登り棒があり、私は良く上まで登って遊んだのを覚えている。 下の兄は始業時間にすれすれ間に合うように家を出たが、私は遅れたくなかったので、兄よりいつも30分位早く一人で登校していた。 定期を持って電車に一人で乗り降りする時、何だか自分が一人前になった様で嬉しかった。

                  kyuushoku
                      給食の時間

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2004/11/17

西洋人形    ( 1-14 )

seiyouningyou この飲み会には高橋さんという人が来ていた。 高橋さんは「満州」で奥さんと娘さんを亡くしたという。 その亡くなった娘さんが、私と同じ年頃だというので、高橋さんは私のことをとても可愛がってくれた。  といっても当時の私は、恥ずかしがり屋で、家族以外の人の前に滅多に出ていかなかった。 母がなだめすかして高橋さんのそばに連れて行くと、高橋さんは、ある時は真っ赤なスカートをはいた西洋人形、又あるときはピンクの可愛らしいバックをプレゼントしてくれた。 前にデパートで見たことはあったが、高価そうで私には縁の無いものだと思っていた。
                                               
  ずっと後になって知ったことだが、高橋さんはとても悲しいニュースをその時母に告げていた。 母には妹が二人いた。 信子おばさんと鶴子おばさんだ。 信子おばさんは、「満州」の地方官吏をしている人と結婚し、「満州」に渡った。 パッチリとした目をしたおばさんそっくりの八郎ちゃんや、その他の従兄弟が写っている家族写真を見たことがある。 戦後、鶴子おばさんは、どうにか引き上げてきたが、信子おばさんの消息は分からず、母はずっと心を痛めていたようだ。 その母に高橋さんの口から伝えられた事実は、かなりつらいものだったと思う。

 敗戦濃厚の「満州」に、突如ソ連軍が国境を越えて攻めてきた。 国境近い町に住んでいた信子おばさん一家は、町の人達と共に、避難を開始した。しかし数日後にはソ連軍に追いつかれ、大多数の人が命を落とす中、おじさんは、信子おばさんと子供達の命を絶ち、直ちに自刃して後を追ったという。

 私がこの話を知ったのは、その後三十年経ってからだった。 日中国交が回復し、残留孤児の帰国が始まろうとしていた。 ある日、母と上の姉が、テレビを見ながら話していた。 
 「八郎ちゃん達、ひょっとして残留孤児の中に入っていないかしら」
 姉の言葉に、母は力無く首を振った。
 「最後を見た人が、報告してくれたんだから無理よ」
 そう言いつつ、母の目はテレビに次々と映し出される孤児の顔を、食い入るように見つめていた。


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2004/11/15

さつまいも    ( 1-13 )

  その頃のおやつでもう一つ印象に残っているのは“爆弾あられ”だ。 定期的に“爆弾あられ製造機”を積んだ小型トラックが回ってきた。 母はお米とザラメを持って、決まった場所に出かけて行き、帰りにはバケツ一杯に膨らんだ爆弾あられを持って帰ってきた。 それは米ビツに移され、毎日のおやつの時間にコップ一杯づつもらえた。私は今でも、似たお菓子をスーパーなどの店頭に見かけると言い知れぬ郷愁に満たされる。

サツマイモのふかしたのも私の大好物だった。 というより私は、生まれてこの方、食べ物に関しては好き嫌いがない。 何でもおいしく食べられる。
 これは戦後の何もないときに生まれ、五人兄弟の末っ子として育ったという環境によるところが大きいと思うが・…。私は食べ物に対する自分のこの適応性をあり難いと思っている。 私が成長して色々なところに行ったとき、その地に違和感を感じない要因の一つだと思うからだ。

 さて、サツマイモの話しに戻る。 私はある時、自分でサツマイモを作りたいと思った。 母に相談すると、農家の人に苗を分けてもらうといいと教えてくれた。
 私は早速、線路を越えて直ぐの所にある農家に行って、おじさんに頼んだ。 この農家には以前にもちょくちょく遊びに来たことがあった。 脱穀の時など、箱の中に稲の束を入れて、面白いように米と藁を別々にしていく。 

 農家の庭には家畜小屋があり、そこで馬や牛を見るのも楽しかった。 その頃は、牛は水田や畑を耕す時、活躍していたし、馬車は郊外では主要な運搬手段だったように思う。 道には、いたる所に牛や馬の糞が落ちていた。 誰かに“牛の糞を踏むと背は伸びないが、馬の糞を踏むと背が高くなる”と聞いたことがあったので牛の糞は注意深くよけて通り、馬の糞は乾燥したのを確かめてからおもむろに踏んだ。 

 おじさんは快く一握りほどのサツマイモの苗をくれた。 私は家に帰ると門の横にあった空き地にシャベルで一つ一つ苗を丁寧に植え付けた。 水をやり、雑草を抜き、一生懸命世話をした。 ある日苗の上に古新聞のかけらがついていた。 この光景はその頃の畑では良く見かけられた。 農家では当時人糞を肥料にしていた。 我が家にも定期的に農家の人が汲み取りに来て、その代わりに野菜をくれた。 その農家の人が私のサツマイモ畑にもちゃんと肥やしをまいてくれたのだ。
 そんなこんなで、収穫のとき、私の小さな畑から、バケツ一杯のサツマイモが採れた時は本当にうれしかった。 母がふかしてくれたそのサツマイモは、少し細めだったけど、今まで食べたどのサツマイモよりもおいしく感じられた。

 “ごちそう”といえば、私の誕生日に母が作ってくれる“おはぎ”と“あんみつ”も私の楽しみの一つだった。 私は今でもあんこといえば、あっさりした味の粒餡が大好きだ。 それは、母の味だった。
 とっておきのごちそうは、年に何回か、父の部下が家に来て飲み会をやる時に出された。 母がいつも用意するものに、チーズの薄切りとコンビーフがあった。 私は母の用意する傍らにつきっきりで、チーズの切れ端とか缶に残ったコンビーフをつついた。 まさにこの世の珍味だと思った。

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2004/11/14

女中さん     ( 1-12 )

 当時の母の労働は大変なものがあったと思う。 三度の食事はすべて、かまどを使う。 枯れ枝や新聞紙にマッチで火をつけ、薪に燃え移らせるのがまず一苦労だった。
火吹き竹で風を送り、随分時間をかけて、火の準備をする。
それから、研いだ米を釜に入れご飯を炊く一方で、味噌汁や煮つけを作る。

 洗濯ももちろん手で洗う。波形のついた洗濯板でゴシゴシと汚れた部分をこする。
天気の良い日、庭先の井戸水を使ってやっていた。 何やかやと、育ち盛りの五人の子供の世話で当時の母は体調を崩してしまったらしい。
 そんな訳で、家にお手伝いさんが来ることになった。 当時は“女中さん”と呼んでいた。 最初の女中さんは近所の農家の人でとても怖かった。 私が便所から出て、手を洗うのをサボったりしたら、すぐにしかられた。

 次に来てくれた女中さんはとても優しかった。 お人形さんを作ってくれて、その洋服も色々と作ってくれたので、着せ替え遊びが出来た。 買い物に行くときは、必ず連れていってくれた。 帰りには決まって“よろず屋さん”に寄り、キャラメル一箱を買ってくれた。 そのキャラメルにはおまけがついていた。 おまけの小さな箱を開ける瞬間、私はワクワクした。 どんな物が出てきても私には宝物だった。 空き箱にきれいに並べて大切にしまっておいた。 その後、我が家は何回か引越しを繰り返したが、その宝物はずっと私と一緒だった。

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広島の街     ( 1-11 )

 ずっと後になって解ったことだが、和雄ちゃんのお母さんは、被爆者だった。
家の縁側で“ピカドン”(広島の人達は原爆のことをこう呼んでいた)を直接目撃したらしい。 その為に被爆後に生まれた和雄ちゃんと良子ちゃんにどのような影響が出てくるのかを、追跡調査していたらしい。

 でも当時の私には、ピカドンはあまり意味を持っていなかった。市内に母の買い物についていったとき見た原爆ドームは、錆びた鉄骨で屋根を作った変な建物だと思ったし、石の上についた、人の座った跡も、石の上にポッと黒っぽい円形の跡があると思っただけだった。

 街で大きなケロイドのある人を初めて見たときは、さすがびっくりした。 顔に伸ばした風船を張りつけたのかと思った。 でもそういう人は、街の中にも、デパートにも、電車にも沢山いたので、そのうち慣れてしまった。 それより私にとっては、市内はもっと面白いことがいっぱいあった。 デパートには色々な珍しい物が沢山あったし、買い物の終わった後、母がご馳走してくれるあんみつや夏の氷あずきは、何よりの楽しみだった。

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2004/11/12

チョコレート    ( 1-10 )

  隣の和雄ちゃんの家の庭には大きな池があった。 中には緋鯉が何匹も泳いでいた。私が遊びに行くと、おばさんは池の水辺で食用カエルをさばいている事がよくあった。
そのカエルは池に住んでいて、時々池の縁で見かけることがあった。 私が目を凝らしてみているうちに、少しバタバタしていたカエルは、あれよあれよという間に、半透明のプチプチした刺身のようになった。
 私が和雄ちゃんのお母さんのすることで、目を見張った事がもう一つある。
 おばさんは、家の中の大きなビンにいつもメダカをいっぱい飼っていた。 時々、ガラスのコップに5、6匹移すと水と一緒に一気に飲み込んでしまう。その度に私はキョトンとしておばさんを見つめていた。 私なら、もしメダカをもらったら、飲まないで大切に飼ってあげるのにといつも思っていた。

 和雄ちゃんの家は私にとって行くたびに新鮮な驚きに満ちていた。 おばさんは時々、押入れから大きなチョコレートを取り出して、それを割って私にくれた。 そんな大きなチョコレートの塊が次々と出てくる押入れは魔法の部屋のように思えた。
 時々、和雄ちゃんの家には、黒塗りの大きな自動車が横付けになり、正装したおばさん、和雄ちゃん、良子ちゃんがいそいそと乗り込んで、どこかに出かけた。そんな日は、前日から和雄ちゃんは、「明日は自動車に乗れるんだ」とうきうきしていた。 
 そんな和雄ちゃん達の話しを聞いて、父が、
 「GHQは、あの人達から、自分達の実験の資料を集めているようだ」
と苦々しく母に言うのを聞いたことがある。

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2004/11/10

汽車ポッポ    ( 1-9 )

  当時のお気に入りの遊び場の一つに線路があった。 家の目の前にあって、汽車が時々やってきて、また行ってしまう。 そこは何かワクワクする場所だった。
 汽車はしょっちゅう行き来するわけでもないし、陽子ちゃんには線路に耳をつけて、汽車の遠近を知る方法も教えてもらっていた。 それに何よりももくもくと煙突から白い煙を出し、ポッポーと汽笛を鳴らしながら走る汽車は、随分遠くからでも解った。だから線路で遊ぶのが怖いなんて一度も思ってもみなかった。

 線路ではツクシ摘みや石炭拾いをした。 何にするという目的もなかったが、私と和雄ちゃんは、何か宝物探しのようなウキウキした気分で線路の周りの石炭を缶一杯になるまで拾った。

 汽車にまつわる想い出といえば、貨物列車の貨車の数を数えるのも当時の遊びになっていた。 後で知ったことだが、その頃朝鮮戦争が勃発し、山陽本線は軍需物資の輸送に追われていたらしい。 家の前を列車が通ると、その騒音で話し声も聞こえなくなり、私は手で耳をふさぎ、通り過ぎるのを待った。

 その待ち時間がすごく長い列車がだんだん増えていた。
 家の海側の縁側からは、列車の通過が良く見えた。 姉や兄は1台、2台とその連結車両を数え、その長さを競っていた。
 「今度のは32両も連結していたよ」
 「すごい、今までの新記録!」
 こんな会話を耳にして、私も一生懸命、貨車の通る毎に車両を数えた。
一、二、三、四・…、でも私の数は十を越えると怪しくなり、とても姉や兄の32まで数えられなかった。 後で兄に聞いた話だが、当時は時には50両を越えて連結されていたという。

 その貨車には、貨車の長さと同じ位の、一見コンクリートの棒のようなものが、無造作に積まれていた。 両側に数本の支えの棒があり、紐が上に掛けられていた。
母は「事故でもあったらどうなるのかしら…・」といつも浮かぬ顔で見ていた。
 その棒は爆弾というもので、遠くの方の戦争で使われているらしいということは家族の会話から解ったが、それがどういう事かは、全然見当もつかなかった。

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2004/11/09

あさり       ( 1-8 )

 ある日、私と和雄ちゃんは随分遠出をしてしまった。 浜辺をいつもと逆の左手にどんどん歩いていくとアサリが砂から所々で顔を出していた。 少し手で掘ってみるとザクザクと面白いように出てくる。 二人は、近くに落ちていた木箱を拾い、中に一杯になるまで夢中で掘った。 ふと気がつくと、周りに見知らない子供たちが立っていた。
 「それはうちらのアサリだ。取ったらいかん」

 私はびっくりして立ちあがった。 だって海は皆の物でしょう。 私は理解に苦しんだ。 この子供達きっと意地悪して嘘言っているんだ。 私は納得出来なかった。
でも相手は多人数だし、強そうだった。 私と和雄ちゃんはせっかく一生懸命採ったアサリをそこに置くとスゴスゴと家に帰った。 家に帰るとすぐ私は、母に今日いやな目に会ったことを話した。 慰めて欲しかった。 あの子達は嘘つきで、悪い子だと言って欲しかった。 でも母は困ったような顔をしていた。

 夕食のとき、父と母は話していた。
 「きっと漁業権か何か、あのあたりの浜辺にはあるのね」 
私にはやはり理解できなかった。海辺に持ち主がいるの? 海は皆のものではないの?

海辺にて

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2004/11/07

砂浜       ( 1-7 )

 海辺は少し遠かったので毎日の遊び場ではなかった。 それでも週1、2回は行ったと思う。 砂浜には色々なものが打ち上げられていた。 海草、流木、貝殻、時として犬や猫の死骸もあった。 海が荒れた日の翌日は、その量がぐっと増えた。
 いつもは砂浜に出ると右手の方角で遊んだ。 流木の上に登ったり、飛び降りたり、下の隙間をくぐったり…・。 海辺ではヒトデやフジツボやクラゲを棒でつっついたりしながら、のんびりと歩いていく。

 途中、砂とそっくりな模様のある小さなカニが、無数に砂浜を歩き回っている。
私達が近づくと、あっと言う間に小さな穴に入ってしまってシーンとしてしまう。
どんなにそっと近づいてもダメだった。 私達が少し遠ざかると、又穴からぞろぞろと出てきて、何もなかったように歩き回る。 私達はしばらく知らん顔をして、次の瞬間素早く走り寄る。 カニはさっとまた穴に潜る。 カニは私達と鬼ごっこをしているみたいだった。

 なおも歩いていくと、広い松林に出る。 迷路のようで中にはいると迷子になりそうなので、いつもそこが私達の探検の終点だった。 そこからもと来た道を引き返す。
今まで左手に見てきた海が、今度はずっと右手に見える。 ポッポッポッと蒸気船が通り、カモメが流木に止まる。 トンビが空高く舞い、ピーヒョロロと時折鳴く。
寄せては返す波の音。 海がみんなでお喋りしているようだった。
 そんな中で、私は桜貝を探すのが好きだった。 これは上の姉と一緒に来たとき、姉がとても喜んで拾うのを見てまねたものだ。 アサリやハマグリなどの二枚貝、サザエなどの巻き貝に混じって、薄紅色の桜貝の小片でも見つかれば、私は大事に家に持ち帰った。 空になった菓子箱に綿を敷き、その上に丁寧にならべていった。 それは私の大切な宝物であり、現在も捨てがたく、押入れの奥にしまわれている。
                               newimage11

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竹の子      ( 1-6 )

 ある日、裏山の竹林で私と和雄ちゃんは竹の子を折って遊んでいた。 背丈ほど伸びた、子供でも握れるくらいの細目の竹の子だった。 最初一本折ってみたら、ポクリといとも簡単に折れた。 その折れっぷりの良さに、私達はうれしくなった。 そこら中の竹の子をポクリ、サクリ、ポクリ、サクリと折って大はしゃぎだった。 手近な竹の子を皆折ってしまうと、そろそろ飽きてきたので、次の遊びを探しに、山の中に入っていった。

 夕方、和雄ちゃんの家の方から、大声で怒鳴る男の声が聞こえてきた。 私は、いつも和雄ちゃんの家へ行くとき通る生垣の穴からそっと覗いてみると、裏山の農家のおじさんが折れた竹の子を縄でしばってぶら下げて立っていた。 その前で和雄ちゃんのお母さんがさかんに謝っていた。 私にも何となく状況がつかめた。 私と和雄ちゃんは 大変な事をしてしまったらしい。 どうしょう。
私は怖くなって裏庭の木の下にうずくまっていた。 あたりが暗くなってきた頃、母が探しにきた。 
 「こんなところにいたの。心配しなくていいのよ」
母はやさしく言ってくれた。

 私は母に連れられ、すごすご家の中に入った。 食卓には夕食が既に用意されていて、兄や姉はもう座っていた。 食事中、母が父に言った。
 「それにしても子供のやったことに、あんなにむきになって怒らなくてもいいのに」
私はやっとほっとして食事を食べる気になった。 私は確かに悪いことをしてしまったらしい。 でもそんなにひどく悪くもないみたいだ。 それにしても今度からは竹の子を折るのはやめよう。 それがこの日得た私の一つの教訓だった。

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みかん畑     ( 1-5 )


 私が広島に住んでいたのは5才から7才のころだった。 家の後ろは山あいの小さな水田や竹林を抜けるとみかん畑が続き、それを抜けると中国山地の山並みへと続いていた。 前方、直ぐのところを山陽本線が走り、その踏切を越えて小さな坂を下ると後は、瀬戸内海の砂浜まで水田と畑が続いていた。  砂浜の少し手前には宮島線が通っていた。 家を中心に半径1km位の円を描くと、丁度、当時の私の遊びの世界と重なる。

 私の遊び友達は、隣の和雄ちゃんと妹の良子ちゃん、あと和雄ちゃんちの向こうの家の小学生の陽子ちゃんだった。 裏山の水田では、春にはレンゲで花冠を作ったり、畦に生えるスカンポを食べたりした。 陽子ちゃんは物知りで、色々な事を教えてくれた。 食べられる草も色々知っていた。 みかん畑では、小さ目なのを選んで食べることも教えてくれた。 あまり大きなのを取ると、おじさん達に見つかった時に怒られるということだった。
 みかん畑は日当たりの良い斜面にあり、冬でも天気の良い日はポカポカと暖かかった。
甘酸っぱいミカンを口にほうばりながら、瀬戸内海を眺めると、島々が連なり、小船がのどかに行き交っていた。
  umi

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2004/11/06

ロボット電話   ( 1-4 )

 1950年、広島市の郊外、草津町に移る。 家は山陽本線沿いの山側にあった。 家の中に便所が三ヶ所もある広い家で、いつもは使っていない離れに行くのは、私にとって、一大冒険だった。 離れに行く廊下の途中に一ヶ所、夕日の時だけ、西日に照らされ赤く見える壁があった。 板で出来ているのだが、節がまるで生き物の目のように見えて、何か怪物のように見えた。 

 便所も、私には不思議の世界だった。 当時は、ボットン式で、私はいつも下を覗くたびに深く暗い中に何かが潜んでいるような気がした。 何がいるのか知りたくて、ある日、私は懐中電灯をもって便所に入った。 そして謎が解けると思った時、“ポチャン”、私は懐中電灯を中に落としてしまった。 そして私の謎は謎として残ったままになった。
  当時の電話も面白かった。 私にはそれがロボットの顔に見えた。 大きな目玉が二つあり、突き出した口があり、受話器を置く耳もある。 電話を使っている父や母は、ロボットと話をしているように見えた。

 海側と西側には、長い廊下が続き、その雨戸の開け閉めは兄や姉の仕事だった。 夜など本当に静かで、物音一つしなかった。 いかにも無用心な所で、事実私達が住んでいた時にも一度泥棒に入られ、父の一張羅の背広が盗まれた。 父はその後随分苦労していたみたいだ。
 当時、父の革靴もひどいものだったらしく、何かの宴会で、旅館に行った時、父が一番上席につくはずだったのに、女中さんに一番下の席に案内されたという。

 家の造りはいかにも古く、土間があって、そこのかまどを使って、薪で煮炊きをしていた。 風呂も五右衛門風呂で、浮き蓋を沈めてその上に上手く乗っからないと足が熱くてやけどしそうになる。 私一人ではどうしても上手く入れなかった。 休みの日は、父の薪割りを兄達が手伝っていた。 近所に附属の農地もあり、農家の人に半分貸してあげる代わりに、半分の手入れを頼んでいたみたいだ。 収穫は一家総出で当った。 自然には恵まれていたが、住み勝手は決して良いものではなかったので、父の後任者からは、市内のもっと便利な所に官舎が変わったという。

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前橋時代     ( 1-3 )

 1947年、父が前橋に転勤になり、私達は前橋市の官舎に移った。 その官舎はびっくりするほど広くて、正門を入って玄関まで続く道の両側には、一抱えもあるヒマラヤ杉の大木の並木が続いていた。 庭には小川が流れ、おたまじゃくしや メダカが泳いでいた。 私はメダカを獲ろうとしては、よくこの小川に落ち、ずぶ濡れになって母を困らせたらしい。
 上の兄は玄関前のニレの大木の上に、自分だけの“家”を作っていた。 私はそれがうらやましかったが、そこまで登れなかった。 仕方なく家の中で、椅子を横に倒し、その中に座布団を敷いて、自分の家を作って喜んでいた。

 クリスチャンだった母に連れられて教会にも行っていたらしい。 クリスマス前後、風呂敷きを背中にかけ、羊飼いの真似をして、家族を笑わせていたという。 忙しい母に代わって、私を風呂に入れるのは上の姉の役目だったようだ。 頭を洗うとき、一杯石鹸のついた泡だらけの髪を真ん中に寄せて、
 「ほら、キューピーさんみたい」
といって姉は笑った。 私もキューピーさんになるのが嬉しくて、姉に髪を洗ってもらうのが好きだった。
             kusatuonsen
                  草津温泉にて

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2004/11/05

多摩へ      ( 1-2 )

 終戦を迎え、私達は東京の多摩農林省鳥獣実験場内の宿舎に住むことになった。 父は当時のことを、「また、家族がそろって暮らせるようになり何よりうれしい」と日記に書いている。 当時の食糧事情は最悪だったらしく 
 「その頃の明子ちゃんの頭は、栄養失調のせいで、おできだらけだったわよ」
と下の姉に言われたことがある。 

 父は配給食料だけでは足りないため、母の着物をリュックサックに入れて、八王子まで良く買い出しに出かけた。農家でその着物を、米や野菜と取り替えて又満員電車で帰ってきたという。 玄米で配られる配給米を上の兄が自転車で多摩川を越えたところにある友達の精米所で精白してもらい、上の姉は未だ幼かった私を、いつもおんぶして遊んでくれたという。 
 そんな中、満州(今の中国東北地方)から母の妹、鶴子おばさんが、二人の幼い息子を連れて帰ってきた。 舞鶴まで父が迎えに行ったらしい。 着の身着のままで、憔悴しきって帰国した叔母と二人の幼い子供を、父と母は暖かく、迎え入れてあげたらしい。 叔父は満州で大学の先生をしていたが、終戦と共にソ連に抑留され、帰国したのは、数年後の事だった。

 「良く食べていけたわね」
 私が驚嘆して聞くと母は、
 「当時は、皆お互い助け合うのが当たり前だったのよ。近所の人も色々と食べ物を分けてくれたわ」
と懐かしそうに話していた。
そんな中でも、子供たちは元気に、近所の野山を駆け回って遊んでいたらしい。
昨年、母が亡くなった時、お通夜に来ていた従兄弟が言っていた。
 「あの頃は、楽しかったね。自然も豊かだったし」

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幼年時代  -広島の海と山並みー   ( 1-1 )    

   誕生
fujidana
 1945年9月、群馬県前橋市の郊外のS農園で生まれる。
 父39才、母35才だった。当時東京はBー29の空襲が激しく、母は下の兄を連れて、S農園に疎開していた。 上の兄は学童疎開で群馬の安中に、姉二人は岡山の父方の親戚に預けられていた。 数年前に肋膜炎を発病し、完全に復調していない父を、仕事とはいえ、東京に一人残しておくことは、母にとってはつらかったらしい。
 
 特に、3月の東京大空襲の日には、東京方面の空が一晩中赤々と光っているのが、市内からも見えたという。

 何はともあれ、私は空襲におびえる東京から遠く離れた、平和な群馬の農家で無事生まれることができた。 私自身、当時の記憶は全くないが、S農園は花の季節には人が押しかけるほど見事な藤の大木があり、傍らの池には沢山の鯉が泳いでいたという。  
           

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2004/11/04

日記から     ( 0-2 )

         1999年6月12日(土)
 今日も晴れ。 トーストと紅茶の朝食をとりながら、新聞を見ていた。 夫が横で言った。 
 「今年は空梅雨になるかもしれないね」 
 「エ、ウソッ! これきり雨が降らなかったら夏や秋は水不足で大変じゃない」
 日本も砂漠化現象に巻き込まれてきたのか。 もし、日本から雨、すなわち水の豊かさを取り上げたら、日本の緑の豊かさは一変するだろう。 水の枯れた一本の井戸をめぐって争い合っていた中国映画 『古井戸』 を思い出してしまう。
 雨よ、日本を見捨てないで!

 食事が済むと机に向かい、先日図書館で借りてきた本 『二十歳の原点』 を読み続ける。 これは一週間ほど前、新聞のコラムに引用されていた本だ。今から30年前の6月24日、全国に吹き荒れた大学闘争の中で、自ら命を絶った20才の女子学生の、死の直前までの日記である。

 夫が又声をかける。
 「何を読んでるんだい」
 私が読んでいる本の表紙を見て、あきれたように言う。
 「へえー、今頃読んでいるの。君なんか真っ先に読んでいると思っていた」
 「読んだことあるの? どんな感想持った?」
 夫は答えずに部屋から出ていった。 しばし、邪魔が入ったが、私は又本を読み続けた。涙と鼻水が出てきて、私は何度も鼻をかみながら、読み続けた。

 “進学で考えることをさせずに人間を記憶暗誦する機械にしてしまう現在の高校教育、私が受けてきた教育が 何が真実かを見失わせていたことに対する怒り…・。”
 “敵は強大である。私の武器は真理であり、真実だ。私には精一杯やるという気はあるが、それにビクともせずに  圧殺されてしまったことが口惜しくてみじめであった。”  (高野悦子 『二十歳の原点』 新潮社 )

 チャイムが鳴る。 リフォーム会社の人だ。 この家も築20年。 色々な所でガタがきだした。 といっても先立つものもなし。 丁重に断る。
 今日中に読んでしまおう。 6月19日の記述のところにきた。
 
  “…・目をつぶると、暗闇に小さな体を恥ずかしげに独りで立っている愛しい女の子の姿が浮かぶ。…・寂しがり屋 で甘えん坊の愛しい姿よ。”  ( 前出 )
 私は急に嗚咽の声を上げて、机の上に身を投げ出したくなった。 でも、私は抑えた。 この何十年の年月の経験が私にそうすることを許さなかった。

 もし、激しく泣いてしまうと、その後数日まぶたが腫れあがり、とても人前に出られたものではない。 腫れが直っても、今度は目の周辺に新たな小じわが増加する。私は、大学入学前まで一重まぶただったが、今は二重になってしまった。 それでも吸収しきれないシワは、目の周りに容赦なく集積した。 「ママも、もうババアだね」などと息子に言われて、怒ってみても、事実を認めないわけにはいかない。
 もう、これ以上シワを増やしてなるものか。

 そういう訳で、私はこの本を激しい感情を表に出すことなく読み終えた。
高野悦子さんの青春の最後の一年が、私自身のその時とオーバーラップして感じられた。
 心の中にずっと長いこと抑えこんでいた気持ちが揺り起こされた感じがした。
 私は、以下の文を悦子さんの墓前に随分遅れてしまったが、捧げたい。

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2004/11/03

『あなたへのEメール』   序     ( 0-1 ) 

 ココログへ初めて記事をアップしてから12日たちました。その間、新潟中越地震、香田証生さんの非業の死、そして今日、アメリカ大統領選が行われています。次から次に押し寄せる波の中に翻弄されている中で、時間ばかりたってしまいました。
 ここでもう一度、私がブログを始めようと思った原点に返りたいと思います。自分のそれまでの人生を振り返ってみたい。より良い明日を歩みだせるために.....。書きながら思いました。この文章を多くの人に読んでもらいたい。
そして、読んでくれた人が、又それぞれの人生を振り返ったとき、其の先に生まれてくる私達の歴史は、より明るい方向に向かえるのではないだろうか。
 文章を書くことは、自分一人で、できます。しかし、それを多くの人に読んでもらうにはどうしたらいいか。当時の私には、見当がつきませんでした。そんな中、いつもは、私の批判をするのが生きがいみたいな息子が、インターネットの利用を勧めてくれました。そして適当な小説投稿サイトを見つけてきて、私に代わって連載を続けてくれました。一方で私は、本という形にこだわっていました。一通り纏め上げた段階で、自費出版することにしました。しかし、無名な個人の本が流通ルートに載るのが、如何に大変かの一端を味わいました。  
 一度や二度の失敗で懲りないのが、私の長所でもあり欠点でもあります。
 今度は、双方向の自分自身のホームページを作りたい。その後の事情は "はじめまして" に述べたとうりです。
初めて読んでくれる方も多いと思いますので、最初から再録します。ただ導入の日記部分は、副題の元になった、本文直前の一日分にしておきます。他の日の日記は以前のホームページをご覧ください。  
  

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2004/11/02

香田さんの死を悼みます

  香田さんの死を報ずるニュースに、今回も誤報であってくれれば、と願い続けました。 それを事実として受け入れなければならないと知った時、言い知れぬ悲しみと、憤りに包まれました。 一人の善意の若者の未来を、このような形で奪い去る権利は、誰にもないと思います。
  なかには、香田さんが、戦乱の地イラクへ行ったことを、非難する意見も聞かれますが、それは香田さんの死を惜しむ気持ちの裏返しと取りたいと思います。 もし私が香田証生さんの母親だったら 「証生のバカ!」と泣き叫んだかも知れません。
  香田さんのイラク行きを ”自分探し”の旅と表現する方もいますが、私は、「イラクの人々に自分ができることは何かないか」を、探しに行ったのではないか、という気がします。 きっと居ても立ってもいられなかったのでしょう。 それにつけても、イラクにこのような無法がまかり通る状況、を作り出した責任ある方々の猛省を求めたいと思います。

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2004/11/01

サルに笑われています

  新潟中越地震が発生してから九日、余震の峠も越えて、これからは一日でも早い、復興に向けた取り組みが進められることを祈っています。 私は、ささやかながら義捐金めぐりをしています。 ドラえもん募金、赤十字募金、@niftyの募金、イベント会場での募金........中間集計を聞き、自分のお金も其の中に含まれていると思うと、少しいい気分になります。

  ところで”サル”でもできるという息子の甘言に釣られてはじめたブログでしたが、私にとっては、そんなに簡単ではありませんでした。 まず会員登録で引っかかりました。 IDとパスワードをメモする前に、そのページを消してしまい、あせって新たに登録してしまいました。 その後も、気の向くままに、つまみ食いしているうちに、さっぱり判らなくなりました。 ふと、これがもしかして、ウエブ上にもうアップされているかもしれない。 そう思ったとたんに、体中から冷や汗が出てきました。 そうなると頭は空回りするだけで、完全にお手上げ状態です。
  こういう時は、いつもの手で、外に散歩に出かけました。 夕食の買い物ついでに寄った、駅前の本屋さんで 『ココログでつくるかんたんホームページ』 という本を見つけたときには、”地獄に仏"の心境でした。 翌日、頭がまだ冴えている午前中に、今度は一ページずつ慎重に進みました。 山登りでもそうですが、一歩一歩が大切なのですね。 今度は大体解リました。
  とは言っても、まだまだ、失敗の種はつきません。 数本の指で、苦労して書き上げた文章が、保存するのを忘れたために一瞬のうちに消えてしまった時など、本当に、泣きたくなってしまいます。 これからもきっと、失敗の見本市のような日々が続く、と思いますが、あきらめずに続けようと思います。 

  

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