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2005/02/28

広島        ( 4-8 )

 広島では原爆ドームを見た。 幼い日の記憶がかすかによみがえって来た。
 宮島ではこの記憶がより強く、私の体を揺さぶった。 幼い日、休日に良く父が連れてきてくれた。 船着き場、紅葉の木、紅葉饅頭、厳島神社…・私は自分ながら不思議な気持ちだった。見るもの皆、昔から良く知っている懐かしさに包まれていた。

 江田島に行ったのは、自分なりに考えがあったからだ。 今から見ると“無謀”とも思える戦争へ、なぜ当時の若きエリート達は突き進んでいったのか。
 私は少しでも真実を知りたいと思っていた。
 江田島の港に着くと、しばらく近所を散策した。 当時の私には、ここは来てはいけない所、見てはいけない場所というような漠然とした気持ちがあった。 いわば、タブー破りのような、緊張感があった。

 私は自分の気持ちを静めるため、近くの神社の階段を登った。 急な階段を登り詰めると、突然視界が開け、瀬戸内の穏やかな海の景色が広がっていた。
 陽光をキラキラと反射させている波間に船が行き交い、青空には入道雲がひしめいていた。 真夏の日差しは、朝とはいえギラギラと照りつけ、神社の周囲のうっそうとした常緑樹の葉の濃い緑と、樹間の陰影が鮮やかなコントラストを描いていた。蝉時雨が耳を圧した。

 私はしばらく神社の縁側で休んだ後、“旧海軍兵学校”の見学に出発した。
 赤レンガの建物、練習船などを案内された後、建物内部の一室に通された。 そこには特攻隊員の遺書が展示されていた。 私は、一つ一つ丁寧に読んでいった。 “お国のために”、“天皇のために”という文字が仰々しく並ぶ文面の奥から、自分達の愛する人達を守るために、自分の命を捧げた、彼らの気持ちが痛いほど伝わってきた。 私は戦争のむごさを感じた。 なぜ、日本はあの時期、戦争を避けられなかったのだろう。

 よく“歴史の必然”という言葉を聞く。 でも私は、それを信じない。
 いつの時代、いつの時点でも、いくつかの選択肢があったに違いない。 その選択の点の集まりが後から見ると、一つの流れとなって見えてくる。 歴史は必然と偶然と、そしてその時代の人間の意志の複雑な絡まりによって、織りなされるのではないだろうか。

 下関では、父方の親戚のおじさんが、寿司屋に連れていってくれた。ぜひ食べさせたいと言って注文してくれた、ウニの握りの美味しかったこと。以来、その味を越えるウニにはまだ遭遇していない。
 翌日は、免許を取って間もないというその家の娘さんが、青海島までドライブに連れていってくれた。 どこまでも続く、白く乾いた国道を、猛スピードで飛ばす運転ぶりに少々冷や汗もかいたが、窓の外に拡がる海沿いの風景は、それなりに楽しかった。

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2005/02/25

中国 ・九州旅行 ( 4-7 )

 駒場生活に入って、最初の夏休み、始めの一週間位は、中国語の補講で過ぎ、その後の一週間は那須合宿に、半強制的に参加させられ、瞬く間に過ぎた。
 しかし、残りはまったくの自由だった。 私は中国、九州地方の周遊券を手に入れると早速旅に出た。 リュックサックにスカート。 一寸ちぐはぐな格好だが、当時の私は服装にはすごく保守的だった。 スラックスなんてはいた事がなかった。

 私だけでなく、一般的にもこの傾向はあった。中国語クラスこそ、一人だったが、英語の授業には、数人の女子学生がいた。
 ある日、その中の一人Fさんがノースリーブのワンピースを着てきた。 これは、私達には革命的に映った。
 「どうしたの。何か心境の変化でもあったの」
 私達は寄ってたかってFさんを冷やかした。しかし数年後、一番Fさんを冷やかしていたTさんが、ミニスカートをビシッと決めて、私達の度肝を抜いた。

 私は、ガイドブック片手に、気の向くままに、広島、江田島、下関、阿蘇…と訪れた。 宿は、父が岡山県出身だったので、各地にいた親戚の家を利用させてもらった。 ユースホステルも利用した。 ユースホステルは、当時、夕方急に行っても、どっかに寝る場所を確保してくれた。 夜行の乗り継ぎを待つため、駅のプラットホームのベンチで仮眠をとった事もある。 当時、学生の一人旅がはやっていた。社会も学生に優しかった。

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2005/02/23

駒場祭      ( 4-6 )

 夏休みが過ぎ、9月ともなると、私達は駒場祭の準備に追われた。 配役、演出を決め練習にとりかかる。 東大の女子として、劇に出演した方がいいという意見も多かったが、私は舞台で皆に注目されると思っただけで、恥ずかしかった。 そこで裏方の仕事を引き受けた。

 当日は、皆の熱演により、まずまずの成功だった。 客観的には文Ⅰによる解放軍の戦記物の方が、動作がキビキビしていて分りやすく、人の入りも良かったという。 私達の劇は、革命の中で、揺れ動くインテリ像みたいなのが主題で、いきおいせりふが長く、見せ場も余りなかった。

 それでも終った時の達成感は大きかった。 何しろ中国語を習ってまだ半年の私達が、本邦初演の中国劇を、私達の力だけで上演したのだ。私達は打ち上げコンパで、ビールを飲み、すき焼きをつつき、歌を歌った。 私達の青春はバラ色に輝いていた。

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2005/02/21

那須合宿     ( 4-5 )

 K先生は毎年夏休み那須合宿というのを行なっていた。 出るも出ないも自由だけど、出ない人には前期の単位をあげる保証はないという、半ば強制的なものだった。 私はもともと山が好きだったし、その電気もガスもない山の中の三斗小屋温泉での生活にわくわくしていた。 米、ミソから始まって、野菜、飲み物など、当地での必要品は、全部皆で手分けして運んだ。 山道は結構険しかったけれど、山登りに慣れていた私は、先頭グループで山小屋に着いた。
もっとも私は、自分の荷物だけで良く、男子学生は、米とか食料を分けて運ぶというハンデイはあったが。

 K先生は刺激のある都会、即ち“俗世間”から離れたところで、学生達に自分の考えを理解してもらおうと目ろんでいるようだった。
 しかし多くの学生は、午前中のK先生の授業中は、アクビをしたり、居眠りをしたりした。度胸のある人は、抜け出して、近所の山の探索に出かけたりした。 何しろ回りは深い山だった。 私もしばしば、脱出の誘惑にかられた。 そんな私の心を見透かしてか、先生はしばしば私に質問をぶつけて、脱出の機会を封じた。

 昼食は当番学生の作ったメニューを食べた。 何を食べたか覚えていないが、健啖家の私には、とてもおいしく感じられた。 この食事当番は、K先生の講義に出席しなくていいので、皆に結構人気があった。 他大学の女子学生も招待していたので、私は彼女たちとおしゃべりするのも楽しみだった。

 午後の時間は、駒場祭に上演する劇の翻訳に当てられていた。 入学して間もない頃、この話は上級生から聞かされていた。 自分達で一つの脚本を選び、それを翻訳して、駒場祭で上演しろという話だった。 上級生も手伝ってくれるという事だったが、私達には気の遠くなるような話だった。 合宿前に、何とか一冊に絞ってあった脚本を何等分かにして、いくつかのグループ毎に責任を持って訳さなくてはいけない。
 私達は、辞書を片手に一語一語訳していった。 “解体新書”の翻訳もかくやと思われるほど遅々とした進行状況であった。 それでも何となく筋が浮かび上がり、全体で持ち寄り、一貫したストーリーが見えてきた。

 そんな合宿も、瞬く間に一週間過ぎ、最後の日は那須縦走のスケジュールが組込まれていた。 東大の学生、特に文学部の学生には体のひ弱な人も結構いた。 そんな学生がフウフウへばっている中、私は那須岳の山並みを楽しんだ。
 この那須合宿は、その後何回か参加した。 二回目以降は、上級生として下級生の面倒を見る役だった。

 何回目の合宿でだったか忘れたが、この山歩きの途中、山頂付近で大雨に遭った。 用意してあったヤッケをかぶり、私達はほうほうの体で下山した。 雷も遠く近く鳴り響いていた。 駅の近くには、公営温泉があり、そこでびしょ濡れになった洋服を着替えサッパリとした。次の年だったか、その山頂付近に落雷があり、死者が出たと新聞に出ていた。 ヒヤッとした。

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2005/02/18

K先生と文法   ( 4-4 )

 K先生は中国語の文法を教えなかった。 文法と称して、文章をいじる事は、結構時間をかけたが、私達には、先生が何をいわんとしているか良く解らなかった。 その時の説明と以前の説明が矛盾している事もあった。
 先生は、日本において、中国語文法研究は形成過程にあるから、皆で考えて作り上げようとしていたのかもしれないし、そもそも文法なんてどうでもいいと考えていたのかもしれない。
 「東大生は、文法から入って一つの言語を理解したつもりになる」
 先生は良く嘆いていた。 言語は実体なので、一つ一つの単語の正確な理解から、実体にせまっていく以外に、中国語の真の理解は得られないと言いたいようだった。

 教材は一年生の頃は、中国の小学一年生の国語教科書をプリントしたものだった。
 「我把椅子。 山川君、どういう意味かね」
 「私はイスを持つです」
 「どんな風に持つのかな」
 「握って持つのです」
 「どういう風に握るのかな」
 私はしょうがなく机の上の筆箱を握ってさし出す真似をした。

 先生はきっと、イスの背を握って運ぶ動作までしないと、その時の小学生の気持ちを本当に理解できないと 言いたかったのかもしれない。 授業はこんな調子で、表面的にはダラダラしたものだったが、私は何となく引きつけられていった。
 実際の中国語学習は自分でやればいいんだ。 私は神保町の中国専門書店に行き最新の本を買ったり、短波放送を聞いたり、人民日報を読んだりした。
 K先生はある時、ポツリと言った。
 「山川君が男だったらなあ。 女は結婚するとクルッと変わってしまうからなあ」
 きっとK先生は、過去に苦い経験があるのだろう。 期待した女子学生が結婚と同時に学問を止めて家庭に入ってしまったとか…・。

 私は、高校のある先生の言葉を思い出していた。
 「あなた達は将来、二者択一を迫られる時が来るかもしれません。結婚するか、研究者として進むか。その時は迷うことなく結婚を選びなさい」
 この言葉はその時のショックもさる事ながら、時にふれ私の頭の中に重く響いた。
その都度、私は、ますます反対の意志を強めたのだが。
 「私は研究者として一生歩み続ける。結婚するかしないかは、副次的な問題だ」
私の頭の中では、結婚と、親しい友人を持つ事の間に大した差はなかった。 高校時代、何人かの女の友人との心の葛藤に苦しんだ私には、男の友人との付き合いの方が、気楽じゃないかとういう期待さえあった。

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2005/02/14

杭州        ( 4-3 )

 四月上旬の杭州は、芽吹き始めたしだれ柳と、今を盛りと咲き誇るカイドウの中で、どこか日本の早春と重なる華やかさがあった。 私達はガイドさんと、柳がゆれ、白、ピンクと咲き匂う桃の花の中を、春風にふかれて白堤の上を散策していた。 柳の木の周辺は、薄紫色の諸葛菜が一面に咲き乱れ、遠く近く凧が空を泳いでいた。 ガイドの張さんが西湖の案内をしてくれたが、とても博識で面白かった。 張さんが急に思い出したように言った。
 「西施の名前のいわれを知っていますか?」
 「いえ、知りません」
 「西の方に住む施さんという意味なんですよ」

 私は今まで特に考えた事がなかったが、言われてみれば、なるほどと納得した。 天下の美女の名も案外単純なんだなと思った。
 「以前、ガイドした事のある日本のお客さんに、この事を説明したら、ひどく感心されました。 その方は高校で漢文を教えていらしたのですが、『今の今迄、西施は姓が西で、名が施だとばかり思い、生徒にもそう説明してきた。私は何十年もの間、間違った事を言ってきたことになります。今、目からウロコがとれました』とおしゃってました」

 目からウロコがとれたと言えば、私もこの旅行でもう一つの経験がある。
 上海博物館を見学したとき、ある階に“編鐘”と言われる、中国の古代の打楽器が、フロアの大部分を占めるほど、たくさん展示されていた。
 中国において、紀元前の昔、貴族の食事時のバックミュージックを奏でる楽器だったという。 貴族の地位によって、一方向、二方向と増え、最も高位の貴族は、四方向にこの編鐘を配して、食事の間、妙なる音楽を愛でたという。

 私は、その時、以前日本の博物館で見たことのある“銅鐸”を思い出した。
それらはいかにも似ていた。 日本では、古代の祭祀に用いたと考えられているが、その源流に遭遇したと思われた。
 はるかな昔、日本に渡来した人達が、故郷を懐かしんで作ったのかも知れない。または、海の彼方の文化にあこがれた人達が、模倣して作ったのだろうか。
 私達の祖先の息吹が伝わってくる感じがした。

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2005/02/11

K先生のこと    ( 4-2 )

 K先生との最初の出会いは最悪だった。 中国語の主任教授というので、ひそかな期待と好奇心で、私はその最初の授業にのぞんだ。 始業時間をかなり過ぎた頃、教室に入って来たのは、どこか柳家金五楼を思わせる風貌だが、もっとギラついた、ドロ臭いおやじ風の、小柄な男だった。 その日、何をK先生が言ったかは憶えていない。 ただその後のK先生の授業は、私の失望を増すだけだった。 K先生は“漢文”をこき下ろした。 西洋文明、特に日本の知識人に影響の強かったドイツ観念論を罵倒した。 最後に鉾先は、私達自身に及んだ。
 「東大生は頭でっかちでだめだ」

 先生は、それまで私が何となく価値を認めていた物に、次から次へと容赦ない攻撃を加えてきた。 一体この先生は何なのだ。 こんなに中国語を学びたいと思っている学生に早く中国語を教えてくれればいいのに。 先生の授業は時として一行の文章、時としては一語の解釈で終ることもあった。 出席するだけ時間の無駄だ。 だんだん出席する学生も減ってきた。
 それに気がついた先生は、勉強する気のない男子学生を引きつけると先生が信じていた最後の手段を持ち出した。 きっと先生の長年の経験から得た知恵だったと思う。
 それは、話しを脇道にそらし、しばしばエロチックな方面に広げることだった。 まるで女子学生のいるのをすっかり忘れてしまっているようだった。 私は時に耳を手で覆い、時々教室を出て行きたいと思った。

私は当時、極めて真面目な学生だった。 小学校以来、授業をサボるなんて考えたことがなかった。 私は時々惨めになる気持ちをこらえて、先生の話を理解しようと勉めた。
 慣れるにつれて、先生の奇異な外観は気にならなくなった。 先生の言葉のことさら挑発的な響きは耳をささなくなった。 その内に、私は先生のいわんとしている事が、この間、何となく私の中で生まれ育っている“何か”と驚くほど似ていると気がついた。
 “物事はすべて事実から始まる”
 “学問は事実の体系化であってこそ意味がある”

 日本における中国語は長い間、“漢文”というワクの中に閉じ込められていた。
 先生がある時言った。
 「O女子大のある先生は、“君子曰く女子と小人は養いがたし”と大真面目で女子学生に講義しているんだよ。 山川君はそれでいいのかね」
 漢文で扱う教材は、中国の支配層の教養に限られ、たまに首を出す庶民も、高所からの憐憫の対象でしかなかった。 感性も観念化し、形而上学的理解が尊ばれた。 この点に関しては、本郷に進学した頃お世話になった、T先生も同じ危惧を抱いていた。

 T先生は漢字の持つ、きわめて具体的な側面に私達の目を向けさせようとした。
 ある日の授業で先生は、
 「“鶏口となるとも、牛後となるなかれ”の意味が解るか」
と私達に聞いた。 何を今更という顔で、皆黙って先生の方を見ていた。 先生は重ねて聞いた。
 「鶏口はニワトリの口だな。 じゃ“牛後”とは何か…・」
 私は一瞬いやな予感がした。
「牛後とは牛の肛門だ。このリアルな表現が中国語の持つ面白さだ。それなのに、今までの学校では“牛後”で済ましている。 それ以上は深入りしないで、分かったような顔をしている」

私も以前この格言に接した時、牛後とは牛のシッポの事かなと勝手に納得して、それ以上考えた事がなかった。 これに関連して思い出すのは、最近中国に久しぶりに行き、杭州を訪ねた時の事だ。

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2005/02/07

大学時代ー東大の生活と、闘争とー  ( 4-1 )

             Eクラス
 願書提出の時、私は文科Ⅲ類を選び、第二外国語として中国語を選んでいた。
 当時の第二外国語は、独語を選択する人が圧倒的に多かった。 次に仏語、露語と続き、中国語履修者は微々たるものだった。 文Ⅲだけでは一クラス構成できず、文Ⅱと合せて一クラスの体をなしていた。 あと文Ⅰによる一クラス。 この二つを合せて“Eクラス”と称されていた。
 由来は、英語、独語、仏語、露語、中国語を、それぞれ、A、B、C、D、Eと分類したきわめて事務的な名前であった。このEクラスは駒場では、特殊な存在で、圧倒的少数派だったことによるためか、クラスの団結も強かった。

 入学して数日、上級生によるオリエンテーションが行われ、「なんで中国語なんか選んだのか」の質問攻めにあった。 私は無難に、「中国史に興味があったからです」と答えておいた。
 当初おかしなクラスに入ってしまったとは思ったが、少々土臭く、野暮ったいようなそのクラスの雰囲気が嫌いではなかった。

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2005/02/04

合格        ( 3-8 )

 人間は悲しみはいつまでも覚えているのに、喜びは直ぐ忘れてしまうのだろうか。というか、悲しいことは、無意識のうちに記憶の深部に埋めてしまうので、そこから掘り出されたとき、かえって生々しく感じられるのかもしれない。
 東大合格を知ってどうしたのか、今ではあまり思い出せない。たぶん、母に電話で知らせたと思うがそれさえ定かでない。
 日記帳には、
"合格できて涙が出るほど嬉しかった"
"大学では、しっかり勉強して世の中に役立つ人間に成長したい"
などの言葉が並んでいたと思う。ただこの日記帳は、その後、色々な出来事の中でなくなってしまった。

 合格発表から数日後、父が出張ついでに、名古屋方面の旅行に連れて行ってくれた。父が仕事中は、一人で市内を探索した。
“庶民文化を、発祥の地で体験するのだ”
とかなんとか理由付けして、恐る恐る、パチンコ店に入ってみたりしたのを覚えている。

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