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2005/03/30

イイギリの実  ( 4-21 )

 私は激しい議論で上気した頭を休めたかったので、一人皆と別れると、文学部の裏手にある 三四郎池に向かった。 騒々しい構内の中で、そこは別世界のように静かだった。 木々の葉の緑も、何となく疲れたようで精彩を欠き、紅葉した葉も散見された。 黄葉した葉が、かすかな風に吹かれて、池の水面に散っていく。
 目を上げると、イイギリの木に、赤い実が小さなブドウの房のように、あちこちになっていた。 池の上にぽっかり開いた青い空に映えて鮮やかだった。

 私は改めて、この間の事を考えてみた。 新聞では連日、H学部長との団交を“暴力学生”による“監禁”として、激しい非難報道が繰り広げられている。 生命の危険だ、人権蹂躙だ…・というセンセーショナルな言葉の影に、学生が、H学部長に話し合いを求める姿は、すっかり打ち消されていた。

 H学部長に、話し合いを求めるのは不毛なことなのか。 全共闘の七項目要求の中で、医学部処分問題と並んで、文学部処分問題は中心に位置づけられていた。 それは、大学における、学生と教授の力関係に触れる問題だった。 今まで、無権利で、教授会の一方的な判断に委ねられていた学生の権利を主張し、見直しを迫るものだった。

 H学部長は、従来の規則にしたがって行なわれたという一点に固執した。
 私達は、従来の東大の姿勢そのものに疑問を投げかけていた。この四ヶ月半に及ぶ東大闘争の過程の中で判ってきた東大の姿ー権威の上に胡坐をかき、それを守ることのみに汲々とし、他の一切の批判をかたくなに拒否する。
 私達は、その東大の改革の一歩を歩み出したかった。たとえそれが、どんなに小さな一歩であろうとも。

 文学部処分撤回は、文学部学生大会で圧倒的な支持を得ていた。 全共闘は当初、戦う学生の協議機関として成立してきたが、当時は各学部の正式議決機関の代表が結集していた。

 そして七項目要求は全面的支持を得ていた。 正確に言えば、民青系の執行部が握る教育学部だけは全共闘に結集していなかったが、文学部処分撤回は支持していた。 東大全学生の正式な支持を得ていた要求を、文学部学友会が、教授会に話し合いによる解決を求めていたのだ。
 偶然とはいえ実現した話し合いの場を、生かそうとしないH学部長の姿からは、誠意は少しも感じられなかった。

 H学部長がその気になれば、機動隊はいつでも出動する機会をうかがっていた。そのように権力に守られている立場の人間が、学生との対話を拒否するのが“言論の自由”を守ることなのか。 権威による“無視”の暴力の前に、東大の学生の総意は、かくも軽く、無価値なものでしかないのか。 

 しかし、“暴力学生”の言は聞く耳を持たないとの強硬姿勢は、マスコミの論調に受けたとみえ、当時、H教授はマスコミの英雄となった。

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2005/03/28

文学部ー長期団交(4-20)

 11月に入って文学部では、また文学部独自の問題が起こった。 七項目要求の一つとして入っているNさんの処分問題は、私が本郷に進学してくる前に起こったことなので、詳しい経緯は知らなかった。 要するに教官に“非礼”な振る舞いがあったNさんを停学処分にしたというものだった。 この事件も、学生との話し合いを拒否して立ち去ろうとした教官のネクタイをNさんがつかんだという事で、事件の発生原因は何ら考慮されず、Nさんの行為のみが取り上げられていた。

 自分たちに都合悪くなると逃げて、納得して引き下がらない学生は強権で押さえるという、医学部と共通した姿が見えていた。 これは大学の本質に関わっていた。
 事実を追求し、真実を極める学問の府ではなく、権威を強権の支えで学生に押しつけるやり方に思われた。 新執行部に選ばれたH教授は、その姿勢が更に一貫していた。 学生との話し合いは、始めから念頭になかった。 

 H学部長との団交が実現したということで、中文でも急きょ学生会が召集された。
 団交に参加していた人から報告があり、その後様々な意見が出された。文学部教授会との話し合いを続けようとする学友会の姿勢を、冷笑的に見ている人もいた。 
 「あんな化石化した頭の奴らと、話し合いなんて無駄だよ」
 でも大勢としては、話し合いの努力を支持する方向で一致して、私達は散会した。何人かはそのまま、学部長との団交会場に向かった。

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2005/03/25

総長告示   ( 4-19 )

 そんな中で、8月10日付け、総長告示が学生一人一人に郵送された。 今思い出そうとしても、何も思い出せないようなところを見ると、まるで内容のないものだったと思う。 しかも、学生の正式代表機関 "全共闘 " が、何度も正式な話し合いを要求してきたのに、それらは一切黙殺していた。 その一方で、学生一人一人に、しかも夏休み中に、告示を送りつけるというやり方は、学生の分断を策動しているとしか思えなかった。 しかし、これを受けて、学生内部の切り崩しが計られ、医学部の卒業試験強行の意向に沿って医学部 "有志 "の名で、ストライキ終結を宣言する動きが現れた。 マスコミも、スト継続派に対する“暴力学生”キャンペーンを張り出した。

 8月29日、Y新聞記者に対して暴力を振るったという事で、医学部学生Mさんが告発された。 O総長は学生との話し合いにはその頃、決して顔を見せようとしなかったのに、Y新聞社に "病の身" をおして、謝りに出かけた。 
 “警察” は出番が来たとばかりに、暴力学生Mの逮捕に乗り出した。 そして、Mさんは学内で“暴力、傷害”容疑で逮捕された。 

 事実は、学生の自主管理中の建物に入り、挙動不審の行動をしていたY新聞の記者と、その記者を私服刑事と勘違いした学生との間に一悶着あり、その過程で記者の頭に小さなこぶができたという事らしい。 Y新聞はこれを大げさな傷害事件として警察に告訴し、O総長は学生達に何ら事情を聞くこともなく、一方的に新聞社に謝り、Y新聞社の告訴を受けて警察は、大々的捜査網を敷いた。

 「赤門以外の東大のすべての門、塀はもとより、本郷周辺の食堂から本人の下宿、家族、友人の身辺にも、私服、警官、パトカーが配置されて・・・ 」   (稲垣真美 「東大崩壊」 講談社)
 まるで凶悪犯の指名手配のようである。 この事件は、他の新聞、テレビでも競って取り上げられ、"暴力学生"キャンペーンの大波となって、学生の戦いを封殺しようと押し寄せてきた。

 この一連の動きは、私達東大闘争を支持してきた学生にとっては悪夢だった。
10月12日には、法学部も無期限ストライキを決め、全学部無期限ストライキに突入していった。 そして11月1日、O総長は辞任した。

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2005/03/23

全共闘の成立 ( 4-18 )

 7月2日には、全学の統一意志決定機関として、“東大闘争全学共闘会議” (全共闘 ) が結成された。 大学院生と青医連による“全闘連”も加わり、時計台は再び封鎖された。 それは大学当局の強権に対する封鎖であったが、私達にとっては“解放”だった。 時計台は私達学生に解放された。

 私達の意見は、学部として、学科として多くのビラや立看に表現された。 
 この時期、連日のようにクラス討論が行われた。 私達は、討論にしばしば時間を忘れ、遅い昼食をとりに学外に出た。 構内に帰ってくるとき、正門を通る毎に、私は軽い興奮につつまれた。 銀杏並木には、ずっと講堂前まで、数メートルごとに、大小様々な立て看が並んでいた。 立て看の前には、三々五々人が集まり、そこここに、討論の輪が出来ている。

 立て看の外観、内容とも、それぞれ個性的で、以前のセクトのアジ調の文章とは違っていた。 学生達の主張が、生き生きと伝わってきた。 ビラの数も驚異的に増えていた。 教室に着く頃には、両手いっぱいになり、それらに目を通すのも楽しかった。 個々人の率直な主張が、紙面に脈打っていた。 私達は、皆競って自分達の主張を、何らかの形で発信したがっていた。

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 銀杏並木は信じられないほど、生き生きとしていた。 それぞれの主張は、集まり、大きな流れとなり、時計台へと集約していった。 強い夏の日差しも、銀杏の濃い緑の葉が、幾重にも重なり、遮って、涼しい樹影をつくり出してくれていた。
 「封鎖!それは連帯のしるし。時計台封鎖を全学バリケード・ストライキの突破口とせよ」 (全闘連)
 
 7月5日、講堂内で全学集会が開かれ、総長と教授会に大衆団交を要求することを決めた。 その後、7月15日、全共闘代表者会議で “七項目要求” が起草された。

   一、医学部処分撤回。
   二、機動隊導入を自己批判し、表明を撤回せよ。
   三、青医連を公認し、当局との協約団体として認めよ。
   四、文学部不当処分撤回。
   五、一切の捜査協力を拒否せよ。
   六、1月29日より全学の事態に関する一切の処分は行うな。
   七、以上を大衆団交の場に於いて文章をもって確約し、責任者は責任をとって辞職せよ。

  我々は以上の要求を確認し、本部封鎖に結集して全学無期限スト、全学封鎖で闘い抜くことを宣言する。

              七月十六日   東大闘争全学共闘会議
 バリケード
bari 大学側は無視の態度をとり続けた。
 7月に入ると教養学部のEクラスでは、例年通り那須合宿が行われた。 毎年、上級生は、あるいは劇の脚本の翻訳の手伝いに、あるいは中国関係の色々な問題についてのチューターとしてゼミを指導した。 しかし、この年の那須合宿では、私達上級生には、もう一つの任務が増えた。 ともすれば“本郷”の問題として、東大闘争に関して、駒場の学生の関心はそう高くなかった。 この際、医学部問題から見えてきた、東大の体質を駒場の学生にもじっくりと考えて欲しかった。

 私達の中文からも何人か参加した。 例年の那須合宿はレクリエーション的意味合いも濃く、単純に楽しかった。でもこの年、私達は真剣に話し合った。 私達が東大生としての存在の意義についても、厳しく自己点検をせまられた。 昨年までは何のこだわりもなく話してきた民青系の人達と、何となくちぐはぐな隔たりを感じ始めていた。 民青系の人達は、東大闘争を従来の彼ら達のやり方の延長で、条件闘争ととらえていた。 この際、大学から、一つ二つ大学自治の言質をとれば十分だと考えているように見えた。

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2005/03/21

全学無期限ストへ( 4-17 )

 この日、私達は心の底から、大学当局のやり方に怒りを感じた。 それは、今後私達が東大生として、また東大卒の人間として、社会の中で胸を張って生きられるかどうかの根幹に関わる問題だった。 その日、正門前に出された都市工学大学院の立看は、私達のその時の気持ちを良く代弁してくれている。
 「弾劾さるべき者は誰か? 弾劾さるべき者は、まず何よりも闘いを放棄していたわれわれ自身に他ならない…」
 「医学部全学闘は、彼らを孤立化させた我々自身-彼らの闘争の破壊者、彼らに対する学内共犯者であった我々自身を挑発的かつ例示的に告発したのだ。…」

 その日、私達中文学科の学生は研究室に集まり、今後の私達の行動を話し合った。
まだ進学したての私達三年生から大学院生までを含めて“中文学生会”を創設した。
第一回会長に大学院生のUさんを選出した。 私達は緊急アピールを出し、今後は中文学生会としてまとまって、医学部の戦いを支持していくことを決めた。

 6月20日に行われた文学部学生大会は、いつもはひっそりとしている大教室が満員になり、私達は圧倒的多数で一日ストライキを支持した。 他学部も同様だったとみえ、法学部を除く、9学部が一日ストライキを行った。 その日の午後、講堂前で開かれた集会にはそれぞれの学科や学部がまとまって参加したので、ビックリする位の人数が集まった。 講堂前は埋め尽くされた。 私達は、ビラや新聞紙をアスファルトに敷いて、その上に座って、各派、各学部、各学科の医学部闘争支持の演説に、熱い拍手を送った。 その日、一万余の学生、教職員が集まり、総長団交を決議した。

 6.20
yasudakoudou_2 それは今考えると、学生達の東大当局に対する最後のエールだったかもしれない。
 「私達皆が後押しするから、先生達がんばって、古くさい医学部教授会を、説得してください」そんな気持ちが私の心の底にはあったように思う。この私達の叫びは無視された。

 6月26日、文学部の学生大会で、無期限ストライキが、やはり圧倒的多数で支持された。 大学院生も“全闘連”という組織を新たに結成し、無期限ストを呼びかけた。
  この時期、大学院生や助手の動きも活発だった。 医学部の前近代的なギルド制と同様のひずみを感じていた彼らにとって、医学部問題は、自分たちの問題として真剣に受けとめられていた。

 私達は待っていた。 大学の良識を、東大生としての誇りを取り戻せる一瞬を。
 そして28日、安田講堂で、総長との学生側で言う“団交”、大学当局で言う“会見”が行われた。 講堂内は満員で、通路も壇上も、ビッシリと学生で埋め尽くされた。 私達は総長の口から“大学の良心”が語られるのを待った。 
 そこで私達が見せられたもの、それは主治医に付き添われ、手首に心電図計をはめ、意図的とも見える弱々しさで登場した、総長の姿だった。
 「機動隊導入は、自分一人でやったこと、誤認処分の件は医学部教授会に差し戻す」
 総長の発言に私達はあきれた。

   6.28 他
6.28 dankou 機動隊の導入を誰がしたかを聞いているのではなかった。 学外暴力装置の導入によって学生の主張を押しつぶす態度を糾弾しているのだった。 誤認処分問題が医学部教授会で何ら解決できないから、医学部の学生達は、全学へ問題提起してきたのではなかったのか。 私達と総長は違う空気を吸っていた。 違う言葉を話しているような気さえした。 この後、いくつかの学部の大学院がストを宣言し、7月に入ると、工学部と教養学部でも学生大会が開かれ、それぞれ無期限ストが決定された。

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2005/03/18

医学部問題   ( 4-16 )

 そんな訳で、医学部問題も大まかな事は知っていたが、余り興味はなかった。
 だいたい医学部というところは、封建的徒弟制度のもと、言いたい事もいえず、ひたすら耐え忍んでいるというイメージが従来からあった。 教授の回診時の光景は“大名行列”とか“金魚のフン”とか呼ばれているのも聞いた事があった。
 そんな医学部で、医局長に“無礼”な行為があったとかで、17名の学生が処分された。 しかもその場にいない学生まで含まれていたという。

 当時、医学部では、医師研修制度や、登録医制度という医学生の将来に関わる重要な改革が、学生たちの意見を聞く事もなく、進められようとしていた。 話し合いを求める学生と逃げ回る教授会との間でのいざこざに、教授会が、問答無用の強権を発揮したのだった。 医学部学生が怒るのはもっともだと思えた。 いくら医学部教授会でも、誤認処分は、その内訂正するだろうと思っていた。
 過ちは正す。 それは、研究者、いや人間として、最低限のモラルの一つに思えた。

 本郷に進学した頃、ビラや立看、各セクトのアジ演説から、医学部問題が何ら解決していないのを知って、正直言ってあきれてしまった。 医学部の教授会はどうなっているんだろう。
 ある日、私がいつもの通学コースから時計台を見上げると、赤旗がひるがえっていた。近づくと安田講堂の前に大きな、医学部全学闘の立看があり、医学部問題を全学にアピールしていた。 前では、何人かがマイクで、それぞれの主張を、同時進行的にしゃべっているので、何を言っているのか余り聞き取れなかった。

 医学部の人たちは、そこまで追いつめられているのか、医学部教授会はそこまで頑迷なのか。 私はやりきれなさを感じた。 でも私にはどこかに、まだ大学当局に対する信頼感があった。 医学部教授会が正常な判断能力を喪失していても、東大当局は、それを正すだろう。 もう医学部問題は、全学の学生、教官の周知の事となったのだから。 そんな私、いや私達の期待は完全に裏切られた。 6月17日、早朝、機動隊導入。 大学当局は事もあろうに、真実を主張する学生を弾圧し、医学部教授会の誤りをかばったのだった。

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2005/03/16

ビラについて   ( 4-15 )

 私達が、本郷に進学した頃から、時計台(安田講堂)周辺は騒がしかった。 正門を入って正面突き当たりが安田講堂、向かって右側に法文2号館、すなわち私達文学部の教室や研究室があった。
 大きな銀杏並木と、古めかしいレンガの建物。 建物の中は薄暗くて、研究室前の廊下などを通ると、古い本のかび臭さが充満していた。 それがかえって、学問の府にふさわしいなどと、私は自己満足していた。 世間的華やかさなんか超越していて、研究に打ち込めそうな気がしていた。

 私はお茶の水駅からバスで通学していたので、第二学生食堂の前で降り、時計台を右手に見て、銀杏並木に出るコースで文学部教室に通っていた。 そのため、正門前から来る人に比べると、教室に着くまでに受け取るビラは格段に少ない。 それでも、この頃のビラの数は、驚くほど増えていた。

 駒場の教養学部にいた1、2年生の頃も、ビラは毎日もらっていた。 駅を降り、正門を通りすぎる頃には、片手に数枚握っていた。 片手にカバンを持っていたので、いつもその処理に困っていた。 入学当初は、部活やサークルの勧誘が主だったが、日を追って色々なセクトの政治的アジビラが多くなった。 それらの多くは、乱雑に書きなぐられ、文章もセクト用語で書かれていて、余り読む気が起こらなかった。
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ビラ配り


 

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2005/03/14

中国文学科進学 ( 4-14 )

 二年の後期になると、自分の志望する学科を決めた。 私は将来、駒場でK先生を助け、中国語の教育に尽力するのが目標となっていた。 そのためには中国語も中国文学も、学ばなければならない事は山ほどあった。 本郷からT先生やM先生が、出講という型で教えに来た。 T先生は、漢字の研究家として著名であり、M先生は中国文学一般の碩学ということだった。

 いつだったか忘れたが、K先生に聞かれた事がある。
 「T先生は当時の徴兵試験で、日本の戦争目的に疑問を呈して、軍部の怒りを買い、一兵卒として派遣された。 M先生は自分の立場を受け入れ、下士官として戦地に赴いた。 当時は一兵卒として戦うより、下士官として行く方が戦死する確率は、はるかに高かったんだ。 山川君はどっちが男らしいと思うかい」

 私は返答に困った。 戦時中、自分の主張、反戦思想を表明する事がどんなに勇気のいることか、私なりに想像出来た。  それに対してK先生の言葉は、M先生への評価を私の中で、少々引き上げるものだった。それにしても、このような過酷な選択を若者に迫った戦争へ、日本はなぜ突き進んでしまったのだろう。
 
 本郷に進学すると、T先生、M先生の他にも色々な個性豊かな先生の授業に接する事が出来た。 中国人のL先生の軽妙洒脱な講義に一時的に夢中になったり、D先生の新中国文学への新鮮な切込みに共感を感じたり…。
知的好奇心を、私はますます募らせ、研究室の本を読みふけり、神保町の本屋に足繁く通った。
 
 そんな私に、医学部ストの話は遠い存在だった。 今まで、校門を入ると立ち並ぶ立看も、何人もの人から手渡されるビラも、私には大して意味のないものだった。
 私は象牙の塔の中で、さなぎになろうとしていた。 いつか羽化して蝶になった時、すなわち社会的にひとかどの人物になった時に、教育についてであれ、政治的発言であれ、自分の意見を発表すればいいと思っていた。 それまで私は、学問に打ち込むのだ。
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( 1971年 東大卒業アルバムより。 以下出所無記載の画像は同書より借用 )

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2005/03/11

アルバイト    ( 4-13 )

 しかし、母の稼ぎだけでは到底足りず、当然私はアルバイトを始めた。
大学の学生課の廊下の壁には、家庭教師求人ボードがあり、そこから適当なのを選ぶと、先方と事務が面接日を設定してくれる。 その家に行くと、母親と当人、または父親も含めて待っている。 ちょっと話した後、たいてい決また。 “たいてい”と書いたのは、一度だけ事務の方へ断りの電話が入った事がある。

 これは、まさに最初の時の事で、その日私は緊張して随分早めに、指定された家の近くまで着いてしまった。 時間つぶしのために、その家の付近をぐるぐると歩き回った。 その時会った買い物帰りのおばさんが、どうもその家のお母さんみたいだった。
 しかも初めてのことで、面接もオドオド、ドキマギしてしまった。 きっとお母さんは、受け答えもしどろもどろ、家の周りをうろうろ物色しているおかしな学生は、“大事な娘”の“家庭教師”としてふさわしくないと判断したのだろう。
 
 しかし、以後の私の家庭教師人生は順調だった。 小学校四年生から見てあげたT君は、私立中学御三家の一つに合格し、中学でも常にトップクラスを保った。 もっともT君によると、小学校のクラスで以前から“数学の神様”と呼ばれていたという事で、本人の資質に寄るところが大きい。

 下町の家具職人の息子N君は、野球の話をさせるといくらでも話が尽きなかった。
が、こと、学業成績となるとサッパリだった。 目は利発そうでキラキラ輝き、頭は良かった。 ただ、関心のありようが違っていたようだ。

 大学は獣医科に進んだS子ちゃんは、こつこつと真面目な頑張りやさんで、成績は中の上を保っていた。 
 この他にも、お医者さんの兄妹とか、心臓の悪い妹を持つM子ちゃんとか、私の生徒は通算すると10人は軽く越えた。

 余談だが、M子ちゃんの妹はその後手術を受け、成功した。 M子ちゃんのお母さんは、万一の場合のショックに耐えられるためにと、もう一人子供を産んでいた。 結果として、M子ちゃんのお母さんは二人の女の子と一人の男の子の幸せな母親となった。

 私は子供を教えることはイヤでなかった。 どっちかというと楽しかった。
それに勉強後、出してくれる夜食が、それぞれ心のこもった家庭料理だったので、それも私の楽しみの一つだった。だから、家庭教師は私にとっては、仕事と言うより、楽しい息抜きの場だった。

 当時の月謝は、大学一年の時が、週二回、月八回で、八千円だった。 最初の月謝でベッドを買ったのを覚えている。 それによって、私は押入で寝る生活から決別した。 次の大きな買い物は、腕時計だった。 当時、最新の自動巻装置のついたもので、それにより毎日のネジ巻きの煩わしさから解放された。
 その後、中国語の短波が聞ける、高品質ラジオを買った。 当時、中国語教材はほとんど手に入らず、直接短波でヒヤリングを学ぶしか道が無かった。
 それに続いて、本箱、石油ストーブ、ステレオ…と私の部屋はだんだんリッチになっていった。 学費や旅行費用、生活費をすべてまかなっても充分やっていけた。
 大学院の頃は、月に二万円、母に食費として渡せるまでになっていた。

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2005/03/09

父の失業     ( 4-12 )

 私が東大に入学して一年ほど経った頃、父が失業した。 当時国家公務員は、かなり若年で退職し、以後 “天下り” して生活するのが普通だった。 
 「この若年退職という慣行が、日本の官僚制度を老害から守ってきた秘訣だ」
 かつて父の友人である高山さんから聞いたことがある。

 しかし、この “天下り” は昨今言われているほど、すべての公務員に保証されているわけではなかった。 特に父のように、母に言わせると「人に頭を下げるのが苦手」な人種にとっては、なかなか大変な事で、しばしば失業という憂き目を見た。
 母はこの苦境の中、保険外交員を始めた。 日曜ごとに行っていた教会の友人に勧められたらしい。 外交員といっても、母のようなズブの素人の“奥様”にはなかなか大変だったみたいだ。 だから実際には、母の知り合いをベテランの人に紹介し、その人が説明、勧誘するというものだったようだ。 

 時には仕事がうまく行って、うれしそうに私達に話すこともあった。
 「今日は、昔の知り合いが会社ごと入ってくれたのよ」
 母は毎日出かけ、疲れていたので、当時の食事の片づけと洗濯は、私が引き受けていたと思う。 私は母に感謝していた。

 そんな折り、下の姉が遊びに行っていた、おじの家から帰るなり言った。
 「おじさんがね、人の情実を利用して契約を取る、今の保険業界のやり方は賛成できないね、だって」
 当時は“社会主義的言説”は、なんとなく光って見えた。 ソ連や朝鮮も輝きを持って語られ、その国の民謡を歌うことは、何となく晴れがましい感じがした。

 そんな中、おじさんの“進歩的”言辞は姉にとって大きな影響力を持っていた。 私も姉を通して、おじさんには尊敬の念を抱いていた。
 でもこの、母を間接的にせよ、批判しているおじの意見に、私は反発を感じた。
 「お母さんは、私達のために慣れない仕事をがんばってくれている」
 私は母を誇らしく思った。

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2005/03/07

大樹と広尾   ( 4-11 )

 次に大樹町に行った。 ここは数年前、冷害で小豆が壊滅的被害を受けた所だった。 それを新聞で見た母が、救援物資を送ったことがあり、その縁で何回か手紙のやりとりをしていた農家があった。 私が北海道旅行を思い立ったときも「是非寄れ」と言ってくれていた。 大樹の駅から車で一時間くらい行った、日高山脈の麓の農家で、私は数日間農作業を手伝った。 干し草を車に積んだり、牛の乳搾りをしたり、麦の刈り入れをしたりと、私は汗まみれになりながらも大満足だった。 これが労働というものだと思った。

 食事はボリューム満点だった。 どんぶりご飯にうどんがおかず。デザートにお汁粉がでた。 秋の刈り入れの時には、昼食のおにぎりはどんぶり二杯を合わせて作ると聞いて、私の頭の中にはドッジボールの様なおにぎりが浮かんだ。
 なにしろ皆良く食べた。 そこは日高の山麓なので、クマも良く出没するらしく、数日前荒らされたというエン麦畑も見せてくれた。

 数日の間、充分農村生活を満喫した後、私は迎えにきてくれた母の知り合いの農家のおじさんのオートバイの後ろに乗り、小豆被害に遭ったという開拓地に向かった。山中を一時間くらい走り続けて、日高山地の尾根沿いの開拓農場に到着した。
 ここは、千島諸島から引き上げてきた人が入植したとの事だが、数年前の小豆の冷害の時には、首をくくった人が何人も出たと淡々と話してくれた。 一時は“赤いダイヤ”ともてはやされ、皆小豆作りに切り替えた矢先のことだったという。 今では離農した人も多く、おじさん自身、先の見通しがつくなら離農したいと話していた。

 その次ぎに行った広尾町では、汽車で隣に座って話を交わしたおじさんの牧場に案内してもらった。 根室に行く途中だったので、名刺だけもらい、帰りに寄ると約束していたのだ。 
 駅を降りて、電話をすると、小型トラックで迎えに来てくれた。 終戦後、樺太から引き上げてきて、未開の原野に入植した。 星の見える早朝から星の瞬く夜中まで、夢中で働き続け、今の牧場を作り上げたという。
 それでも、息子と娘は牧場に興味を示してくれないので、自分の代で終わるかもしれないと寂しそうだった。

 広尾を後に、国鉄バスに乗って襟裳岬に向かった。 補助席も満席の混み具合だった。 私が更に驚いたのは、私が見る限り、乗降客はすべて周遊券のお客さんだった。 当時、私のようなリュックを背に周遊券を持った学生の旅行姿は、夏休みともなると全国各地にあふれていた。

    ( リンクはイメージ映像として張らせていただきました)
 

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2005/03/04

北海道旅行   ( 4-10 )

 二年の夏休みは、北海道を旅した。 やはり周遊券と有り金全部を持って、私は上野から東北本線に乗った。 青森で青函連絡船に乗り、3等船室でごろ寝をして、早朝私は北海道に着いた。 北海道は、母の故郷だったので、宿泊地には困らなかった。 札幌も根室も北見も親戚の家に泊めてもらった。 
 札幌では、月寒牧場でジンギスカン料理をご馳走になった。 広々と続く牧場の緑に、心も広々となる気がした。

 根室は北海道の中でも、東端に当たる。 根室本線の鈍行でごとごと揺られている内に、いつの間にか眠ってしまった。 しばらくして、私は寒気ににブルッと身震いして目が覚めた。 窓から、白く霧が流れ込んでいた。
 外は、今まで見たことのない風景に変わっていた。 エゾ松、トド松の大木からサルオガセが垂れ下がっていた。 魔法にかかった森にでも迷い込んだような気がした。
そこは根釧原野であり、その霧を地元の人は“ガス”と呼んでいた。
 
 私が根室の母の親戚の家を訪ねると、
 「お母さんそっくりだからすぐ分かった」
 「東京からはるばる来た人に、風邪をひかせたら大変だ」
 親戚のおじさんはそう言いながら、ダルマストーブにじゃんじゃん薪をくべてくれた。
赤く燃える火を見ながら、夏にストーブなんてと思ったが、実際に少しも暑すぎると感じなかった。 ガスに包まれた根室はビックリするほど冷えていた。

 根室の次は、摩周湖、阿寒湖と見て、北見に出た。 そこの親戚の家では、緑色のアスパラをフライパンでバターを加え、サッと炒めてくれた。 その頃、アスパラといえば、缶詰めの白いのしか見たことがなかったので、すごく新鮮に感じた。

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2005/03/02

阿蘇山      ( 4-9 )

 阿蘇山は、この旅行でもとっておきの場所だった。 “世界一の大カルデラ”、以前教科書でこの説明を見て以来、私はずっとこの地に来てみたかった。 狭い日本に世界一広い場所があるという事に、何より興味を引かれた。 その全貌をこの目で見、足で確かめたかった。 豊肥本線の車窓から見える風景は、緑豊かな普通の農村と変わらなかった。 阿蘇駅は意外と小さな駅で、そこからバスに乗り、阿蘇の中心部に向かった。 

 しばらく行くと視野が開け、一面の草地が広がり、馬や牛が三々五々、のどかに草をはんでいる。 こんなに広々と続く草原を見るのは、私にとっては初めてだった。 火口を見た帰りは歩くことにした。 草千里を越え、ススキの原を越え、雑木林に入り、深い森を越え、また阿蘇駅の麓に出てきた。 森のはずれで見た大木はカイズカイブキだろうか。 ゴッホの絵で見たことのある糸杉のように、照りつける太陽の下、青空に向かってもくもくとわき上がる入道雲に負けじと、緑の炎が燃え上がっているように見えた。
 この旅行から帰ると、駒場祭が待っていた。

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