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2005/04/04

日大全共闘   ( 4-23 )

 全共闘グラフィティ
ri-da-  全共闘がこの闘争を勝ち抜くには、他大学との連携が必要になっていた。 
 11月22日、“東大闘争、日大闘争勝利総決起集会” が講堂前で開かれた。
私も中文学生会の人達と一緒に参加した。 
 文学部は、この闘争過程で、最初から医学部闘争支持を打ち出し、以後も一貫して無期限ストで闘ってきた。 そして今や文学部処分問題をめぐる長期団交で、マスコミの集中砲火を浴びていた。 そのため、こういう集会ではいつも前方中央部の席が与えられていた。 Y全共闘代表や I 全闘医代表の演説も良く聞くことができた。 

 後方至る所から “異議なし” の声が飛び、空気をふるわせて拍手がわき起こる。
 講堂前はビッシリと学生によって埋め尽くされ、正門に続く銀杏並木も人波で埋まっていた。 午後二時頃、到着予定だった日大全共闘は機動隊の規制下、到着が大幅に遅れていた。

 集会が始まった頃、銀杏並木は晩秋の日差しを浴びて黄葉が輝いていた。 しかし三時を過ぎると、日差しはすっかり建物に遮られ、肌寒くなってきた。 一週間程前まで、木全体が黄金色に輝いていたが、ここ数日の風でかなりの葉が地面に降り積もっていた。 まるで遠来の大切な友人を迎えるために、正門から時計台前まで、黄色い絨毯を敷きつめたように見えた。 この日も風が吹くたびに、落葉がヒラヒラと、黄色い蝶のように学生達の頭上に舞い降りてきた。

 やきもきしていた私達の背後から、ワーというどよめきの声がわき起こり、それはあたりを揺るがす拍手に変わった。 日大全共闘が正門から入ってきた。 彼等のために銀杏並木の中央に通路が開かれ、銀色のヘルメットの日大全共闘が力強く講堂めがけて進んできた。 私はこの時ほど “連帯” という言葉の重みを感じたことはなかった。 私達学生が連帯して戦えば、どんな不当な暴力にも勝てると思った。
 私達は全員で肩を組み、“インターナショナル” と “ワルシャワ労働歌” を歌った。
 この二つの歌は、私達の “唯一” の共闘会議の歌となっていた。 

      『 全共闘グラフィティ  増補 』 高沢皓司  新泉社                               以後、全共闘グラフィティ と略 

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コメント

止めれぬ思いで、akikoさんが東大全共闘の代表のような問答。
かつて日大全共闘であった者として、申し訳ない気持ちで一杯です。
36年経って、やっと巡り会えた東大全共闘の同志。
仲間の気持ち、痛いほど分かります。

本郷への進撃のため二昼夜駿河台に待機しました。
助けに行きたい・・・、あの時の気持ちは本当です。
主義も、思想も、何もかも関係なく助けに行きたい気持ち、それだけで待機していました。
1968.11.22、あの日の思いも忘れません。
色んな思いが36年経って、蘇っているのです。

投稿: yamamoto | 2005/06/02 22:04

URLご覧下さい。
東大1969-1記事です。
AKIKOさん、感想お待ちしています。

投稿: 日大全共闘OB | 2005/06/02 06:37

よ太朗さん。
 厳しいご指摘、私個人で答えていいものか迷いました。しかし、東大全共闘としての総括が出ていない現在、私個人の意見として、述べさせていただきます。

 ①何故バリストが必要であったか。
  教官やノンポリ学生の中には、ゼミを強行しようとしたり、ストを無視したりする人もいました。図書館で本を読んだり、研究室で実験を続けたり.....。彼らにとって、東大改革は関係ありませんでした。平常時なら、なんら問題ない行動ですが、ストで強大な東大当局と対峙している時点では、闘争の足を引っ張り、最終局面では、闘争に敵対し、破壊する役割を果たしました。
 具体的には、彼らの要求を守るためという口実で、民青の暴力的介入を招きました。それ以後、当局対学生という構図が、民青対全共闘という構図に置き換わってしまいました。
 バリケードも初期のころは、象徴的なものでしたが、後半は、かなり実戦的なものに変わったと思います。  

②東大生は逃げたのか
 1.18、19の2日間に、東大構内で逮捕された東大生は90名を超えます。日大規模に換算すれば900名を超えると思います。決して少ない人数だと思いません。
 また東大生の場合、特に民青との対立が激化した後半、セクトに加入した人が多かったので、セクトのメンバーとして行動した人が多かったと思います。それが東大全共闘として見えにくくなった一因かと思います。


 

投稿: あきこ | 2005/05/31 11:39

初めて書き込みをさせていただきます。
東大闘争で不思議に思うこと。
①なぜ、バリストの必要があったのか?
 もし日大が、せめて六大学程度の規制であれば、あんな大騒 ぎにはならなかったと思います。
 結局、党派間の主導権争いから発生した。
②東大逃げちゃった。
 1.18/1.19。安田城には、東大生の篭城組みはほんのわず  か。しかも、遊撃隊は駿河台のどこかに潜み、何もしなかっ た。 エリート意識がそうさせたのか?
元日大全共闘 農獣医学部闘争委員会 一兵卒 天野屋りへい
 
 

投稿: よ太朗 | 2005/05/29 12:25

 生駒志紀男さん。
 "殺すな!”これは最も基本的なことだと思います。このことは他殺に限らず、自殺にも言えると思います。年間3万人を超える人が、自らの命を絶っているという事実が、日常性のなかに埋没しているということ自体が、悲しいことですね。
 政治の貧困ここに極まれり!という感じです。

投稿: あきこ | 2005/05/06 08:48

然り、AKIKOさんご明察です。
街路にさまよい出ましょう。
なにかしら見つかる筈です。
当方その途上にあります。
いつか路上でお会いできるかもしれませんね。
その時はお互い車椅子かもしれない。
催涙弾や投石はないかもしれない。
でもその時はお互い、路上で叫んでいようね。

今の当方の個人的スローガンは「連帯を求めて、一人から反戦運動をやる!殺すな。」という古風なものです。
ちょっとおバカかも知れない。でも、マジです。

投稿: 生駒志紀男 | 2005/05/03 05:15

生駒志紀男さん。
 "吾、君に望みを抱き続け、闘い続けることを期待する。
さー、今からすぐに街頭に出よう。"
 読んでしばらくの間、どんな返事を書けばいいのか迷いました。   ....闘い、街頭、デモ、機動隊、衝突、....かっての激しい情景が頭の中を駆け巡りました。しかし考えているうちに、はっと気がつきました。
 "あなたへのEメール"を私が書き始めた時の気持ちと同じだということに。
 かって、絶望的な条件の中で、実現できなかった夢を再現し、閉塞感に包まれた日本の現状を打開し、人類の未来に貢献できる国に再生させたいですね。

投稿: あきこ | 2005/05/02 09:18

AKIKOさんへ
私たちは奴隷の平和を拒否して、破滅へと突き進んだ。
その結果、破滅どころか失った全てが戻ってきた。
天は私たちの真摯さを見捨てなかった。
人々もまた然りであった。
この人間社会、真剣に事を成せば、本気で望めば全て成る、ということを知った。
齢60をまもなく迎える。
吾、君に望みを抱き続け、闘い続けることを期待する。
さー、今からすぐに街頭に出よう。

投稿: 生駒志紀男 | 2005/05/01 04:49

 生駒志紀男さん。 この時期、みんな悩んだと思います。
 私達が、激しく抗議すればするほど、獄中の仲間の拘留期限は恣意的に延ばされ、司法の独立も空文化していました。
 極端に言えば、奴隷の平和か、破滅への突撃の選択を迫られている状況に思われました。学生にできることはやり尽くしたという感じでした。
 といって、社会変革を叫ぶには、私は、まったく自信がありませんでした。社会を、人間を、日本を、世界を......何も解っていない。
 そんな中で、当時私は、早く社会の一員になって、そこから又自分なりの戦いを始めたいと思っていました。

投稿: あきこ | 2005/04/30 12:48

大学は次第に正常化されていった。
日大全共斗の活動家は学外に締め出されていった。
このままでは押し潰されてしまう。
どうしたらいいのか。
この日本をひっくり返してやろう。
革命派でもないのにそう考えた。
マルクスもレーニンも毛沢東も知らないのにそう思い至った。
あとは実行あるのみ…
街路で叫びつづけた。
次第に人が集まってくる。
学生運動最盛期のあとの労働者の決起の時代の時だった。
人々は学生の純粋な運動をしっかりと見ていた。
次は俺たちの番だ。
次々と職場から決起していった。
不思議な時代の始まりである。
その後、あの大衆反乱の時代が続いた。
それは関西から燃え拡がった燎原の火だったと記憶する。
無党派労働者反乱の時代である。
その成果はその後、セクトが簒奪していった。
だが、その無党派労働者の後嗣は関西の各所に今もはっきりと残っている。

投稿: 生駒志紀男 | 2005/04/29 19:07

 文理\(^o^)/学科 さん。
 素敵なお嬢さんですね。今の時代自分の意見をはっきり行動で示すのは、とても勇気がいることだと思います。
 私には息子がいますが、私にとって一番厳しい批判者です。ママ達は若い頃は社会を変革しようとしたのに、その後は何にもしてないじゃない。その付けがみんな僕達にしわ寄せされているんだ。
 この文章を書こうと思ったのも、息子へ弁解したかったからかもしれません。でも書き進むうちに私の中で何かが変化しました。私達がやりたかったこと、それをこれからやっても遅くは無い。そう、これからやればいいんだ。
 全共闘が世代共闘に発展できれば、未来の展望も開けるかも知れませんね。

投稿: あきこ | 2005/04/09 22:07

ピッピー!闘争勝利!ピッピー!民青粉砕!
あの時代何が起こり、私たちは何を目指し、何に怒り、運動をしていたのか。
団塊の世代とレッテルを貼られ、私たちの運動を歴史の屑篭に捨てて良いのでしょうか。日大と東大、ある意味時代の象徴見たいな感じですが、根の部分は通底していたのではないかと思うのです。

私の友人に東大全共闘文学部史学科の方がいますが、今なお連帯感があるように思えます。彼も自分の位置で現在も闘争しています。30年以上もの闘争を継続しているのです。

私は生活に疲れてしまい、イラク反戦デモにも出なくなっていますがakikoさんのプログを見てこのままではいけない!と思っています。もうひとふんばりしてみよう、と思います。あの日、あの時の感激が胸にこみ上げてきます。

私の娘がいます。高校3年生です。彼女は自分で考えてこの前卒業式と入学式の「君・日の」に起立しませんでした。学年で起立しなかったのは2名だったとか。娘は私を見ています。過去の感激だけの人生ではなく、今も闘いを継続しなければ。。。。

投稿: 文理\(^o^)/学科 | 2005/04/09 01:18

 けいとうい@さん。
 東大闘争の中で、ともすれば不安に駆られる中、時々ニュースでみる日大闘争は、私にとっては心強い支えになっていたように思います。よく二つの大学の闘争は、故意に対照的に扱われる傾向がありますが、実はとても似ていたのかもしれませんね。

投稿: あきこ | 2005/04/07 18:36

貴ブログ読みました。
東大との関係は深いものがあります。山本議長とも、日大経済学部のバリの中でしばらくともにすごさせていただきました。
セクトと全共斗の関係、ご指摘通り難しいものがありました。
深くは書けませんが確かにご指摘のとおりです。
残念でならないのは、1-18/19で貴大キャンパスになぜ突入しなかったかです。
あの時、安田にもし、全学連各派の宣伝旗ばかりがたなびく事がなく、東大全共闘の主力の方々が立てこもっていたのなら、セクトの玉砕の方針もなく、日大全共斗は、東大構内になだれ込んでいたかもしれない…そう思うと、いまさらながらホゾを噛む思いです。
今となっては、はるかな昔話になりました。
でも、お互い今しばらく、語りつづけましょう。
東大闘争・日大斗争の本当の姿を……
今後もご交流よろしくお願いします。
http://www.geocities.jp/keitoy2002/
     日大全共斗経済OB

投稿: けいとうい@ | 2005/04/06 22:59

 yamamotoさん。
 御茶ノ水に待機していたこと、翌朝、安田講堂に駆けつけ、全共闘の旗を掲げたことなど、しみじみと読ませていただきました。
 文学部の女の子の話、当時の全共闘を支持していた私達の気持ちを、彼女は率直に表現してくれたのだと思います。
 セクトと全共闘の関係は、難しい問題でした。
セクトを制御できなかったことが、全共闘運動の一つの反省点かも知れません。

投稿: あきこ | 2005/04/06 10:01

 外狩さん。お便りありがとうございます。
あの頃の空気を、一緒に吸っていたと思うだけで、とても懐かしい気がします。

投稿: あきこ | 2005/04/06 09:05

すみません、訂正です。
寄る年波で細かな記憶が頼りなくて。
安田講堂は69.1.18~19、私が駆け上がったのは20日の早朝の間違いです。

投稿: yamamoto | 2005/04/06 07:22

先日書き込みをしました、元日大全共闘理工学部闘争委員会のyamamoto、56歳です。
経闘委とはホームページ仲間で、経済の仲間を中心に今、日大闘争を記録する作業に取り掛かっています。
東大の方々は、既に山本さんを中心に「東大闘争の記録」を編纂し、国会図書館にマイクロフィルムで収めたと仲間から聞いております。
さすがに東大、やっぱり日大です。
ところで、文学部とのご表明ですが、私には文学部の方に関わる僅かな思い出があります。
安田講堂が陥落した翌日、薄モヤとガスのかかる早朝に日大の仲間と安田講堂まで辿り着きました
私達は21、22日、安田講堂に攻め入るため2日2晩御茶ノ水に待機していましたが、最後まで進撃の指示が出ず、悔しい思いをした事を憶えています。
かつての仲間によると、あれは壮大な政治ショーであり、壮絶に敗北する事が最初からの目的であったのでは。
セクト連合は、単純な日大全共闘の助っ人は必要としなかったと云う方も居ます。
私達は、単純に助けに行きたかったのです、今でも悔しいです。
開けて23日早朝、私等はやっと無残な姿を晒す安田講堂まで辿りつきました。
私は無我夢中で安田講堂に飛び込み、講堂の天辺まで駆け上がりました。
あの今井さんが最後まで訴え続けた天辺です。
陥落後最初に日大全共闘の”黒色旗”を安田講堂の天辺に掲げました。
暫くすると、女の子が駆け上がってきて、同じように旗を掲げました。
天辺にいるのは私とその子の二人。
その女の子に話しかけると、その子は東大文学部と応えてくれました。
たったそれだけの事ですが、私が東大全共闘の方と会話した最初で最後でした。
私のホームページに、佐藤栄作が視察に来た講堂の天辺に私が掲げた旗と、文学部の女の子が掲げた2つの旗がなびく写真があります。
遠い思い出です。

投稿: yamamoto | 2005/04/06 07:14

初めてお便りします。
理工OB氏HP・経闘委HP掲示板にて拝見させて頂きました。なつかしい11.22日大・東大闘争連帯集会のシーンがまざまざと蘇ってきました。ブログも読ませて頂きました。いまブログでは個人史が盛んでそれも興味を引く内容になっています。あの当時の私たちの仲間も少しずつ亡くなってきて、現在行っている当時の出来事を検証する場で、是非聞いておきたい事など、貴重な体験は永遠に塞がれてしまうことなってきています。(仕方がないことなんでしょうけど・・・)
 
それから、あの日11.22集会参加直前の出来事について書かせて頂きたいと思っています。

しかし、当時の事を思い出すと、どうしても涙腺が緩んで前に進まなくなり困ります。(グッとこらえましょう。)

今日はこんなところで・・・

投稿: 外狩 直和 | 2005/04/06 03:25

 日大全共闘経闘委の同志からの連帯の表明に、東大全共闘文学部学友会中文学生会を代表して、熱い感謝の意を表し、更なる連帯の強化を希求するものであります。(少し時代がかりました)
 
 あの時代、受験勉強から解放されてまだ数年の私達の前に、次から次に現れた様々な敵。戦いを選んだ私達は、その都度悩み、傷つきながら夢中で嵐のなかを歩き続けました。
 
 その後長い間、私は当時の思い出をすべて、心の奥に埋めていました。無理解な、心無い中傷に晒したくなかったからです。これらの文章を書きながら、私は何度も涙をぬぐいました。
 
 今、私達は、社会経験も深まり、日本や、世界のこともより理解できるようになって来ました。ここで、私達の青春の原点に立ち返ってみることも必要ではないでしょうか。

投稿: あきこ | 2005/04/05 11:50

始めまして。
日大全共闘経闘委のホームページから飛んで参りました。
まだこのブログ殆ど読んでいませんが、68.11.22の記述を読んで無性に嬉しく、こうして書き込んでいます。
私も2年前、職場のホームページを作らされ、殆どフリーズ状態の頭で、初歩的なHTMLを習得させられました。
ホームページを開設して丁度1年半になります。
これから「あきこ」さんの半年のページゆっくり読ませていただきます。
よければ、私のホームページにもお越し下さい。

投稿: yamamoto | 2005/04/04 20:36

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