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2005/05/30

ダービー観てきました

 昨日は、ダービー観てきました。久しぶりに、体中で感動しました。
 私は、昔から広い草原を馬に乗って駆け回るのが夢でした。昨年公開された映画、「シービスケット」の中の紅葉の林を疾走する場面などたまりません。といっても、私自身は、大島での三原山めぐりで乗った観光用乗馬しか経験ありません。そのため、競馬に時々行って、馬の走る姿を見て楽しんでいます。
 昨日は、混雑が予想されたので、ダービー観戦だけに絞り、昼食を家ですましてから、自転車で、多摩川遊歩道を東京競馬場に向かいました。爽やかな風に吹かれ、川岸の新緑を楽しみながら、3時ごろ到着しました。
 いつもですとパドックでこれぞと思った馬の馬券を買うのですが、昨日は前もって買っておきました。ワイドで200円。いつもこんなものです。参加料と思っています。でもこれって、観戦を楽しくする隠し調味料みたいで、お勧めです。

JRA racing program2005.5.29

第65回皐月賞でのディ-プインパクトと武豊

deep-impact  一番人気、ディープインパクト。私の選定基準、走る気度は200点。こんなにパドックで逸る馬を見たことが無かった。少し心配になった。途中で騎手を振り落とすかもしれない。あるいは、最初飛ばして、途中で息切れしてしまうのでは。
 疾走開始。何だこれは。ターフビジョン(大型映像ディスプレイ装置)にぜんぜん出てこない。出てきたと思ったら、最後尾に近い。少し落胆しているうちに直線コースにかかった。スタンド全体からどよめきが。一頭後方から、ぐんぐん飛び出してきた。見る見るうちに先頭を抜き、なおも力強く私達の目の前を駆け抜けた。観客席全体が”一等賞!一等賞!”のシュプレヒコールに変わった。地鳴りのような拍手と歓声の中、ダービーは終わった。

追記 蛇足ですが、私の買った馬券、当たりました。ワイド5-7。しかし換金しても270円X2=540円なので、換金せず、記念にとっておくことにしました。

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2005/05/27

革命現代京劇  ( 4-39 )

中国は当時、文化大革命の真っ最中だった。 私達中国語を学ぶ者は、“ 白毛女 ”や“ 東方紅 ”の歌を聞き“ 革命現代京劇 ”の映画を通して、中国の文芸に触れていた。

私は修士論文のテーマに“京劇”を取り上げ、それを通して中国の文芸を理解したいと思った。 中国の歴史を通じて、“ 京劇 ”のような歌舞劇は、民衆の圧倒的支持を得ていた。 各地、各時代に様々な様式が発展していた。

民衆の文芸を研究することで、今まで、とかく支配階級の好みに合わせられていた中国文学研究の新しい局面を開きたいと思っていた。 もう一つ私が修士論文でやりたかったことがある。 当時私は、人文科学系の論文に、“ある”空虚さを感じていた。 それらの多くは、事実を踏まえない、頭の中の空虚な理論のもてあそびに感じられた。 時には、結論が先にあり、事実を適当にあてはめていた。 謙虚に事実を見つめることから出発しない科学なんてありえない。

私はあえて、自分の論文を“ 事実 ”だけに語らせたかった。 “ 事実 ”の中から、物事の本質を浮かび上がらせたかった。 自分の論文の資料として、概論や、解説書などを極力排除した。 しかし、当時手に入る資料は限られていた。 その中で私は“人民日報”の中に現れる京劇の姿を丹念に拾っていった。 他に可能な限りの民間書籍も参考にした。“人民日報”は中国政府の機関誌であるため、政治主導的な面はある。 が、幸い、文革以前の京劇は比較的、政治から自由であった。

中国各地には、特色ある地方歌舞劇が存在した。 日本の宝塚の様に女性だけで演じ られるものもあった。 京劇も元は、地方劇の一つで、各地の要素を取り入れ、北京で人気を博し、“ 北京の劇 ”、即ち“ 京劇 ”と呼ばれるようになる。 しかし、北京は政治の中心でもあったため、種々の圧力も受け、出演者も男性だけに限られ、内容も支配階級好みのものへと変わっていく。 酒に酔った楊貴妃の表情を微に入り細に入り表現する事で、時代の寵児となった俳優もいた。


 そんな中で、解放後は一般民衆の好みに合う、もっと健康的な人物を登場させようという試みが、何度か繰り返された。

1964年6,7月に北京で開催された“京劇現代劇コンクール”には、全国18省市自治区から29劇団、2千人が参加し、京劇史上最大の盛大さであった。

ここで1964年6月、人民日報に載った二つの記事を見てみたい。

前者は、朝早くから、現代京劇の切符を手に入れるため、従来にないあらゆる層の人々が切符売り場に押しかけたことを紹介している。

後者には、従来の京劇にそっぽを向いていた青年層が、現代京劇を見て以来、熱心な愛好者に代わったことが紹介されている。

ticketuriba


wakamono  歴史的に見れば、文化大革命の中における“ 京劇革命 ”もその流れの一環として位置づけられた。

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2005/05/23

大学院進学   ( 4-38 )

中国から帰ると、そこには相変わらずの重苦しい現実が待っていた。 大学側は正常化を急いでいた。 二年分の授業を数ヶ月の形ばかりの講義で取り繕い、6月卒業という段取りになっていた。 中文の全共闘を支持していた人の多くは授業に出ていなかった。 今まで対立していた人と机を並べるのは精神的苦痛だった。 でも私には妥協するしか無いように思われた。 私は東大に踏み止まって、自分の思想を表現していくしかない。 形ばかりの卒論も提出し、私は大学院に進学した。

本郷進学以来、ご無沙汰していた駒場のK先生のゼミもあり、研究室を訪ねる機会も増えた。 二年になると修士論文の準備を始めた。 そんなある日、K先生が言った。 

 「山川君、助手になって駒場に来てくれないか」

私は一瞬、黙って先生を見つめた。 以前から、何となくそうなると思っていた。でもK先生の口から、はっきりとその言葉を聞いてうれしかった。 研究室の奥の書棚では、後輩のM君も聞いているようだった。

「はっきり言ってくれればやります」

「今、はっきり言ってるじゃないか」

  私はこれで、卒業後の進路が決まったと思った。 後はいい論文を書けばいいのだ。

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2005/05/20

北京見学    ( 4-37 )

熱烈歓迎

taiko   北京では、実に様々な所を見学した。 天安門広場、頤和園、景山公園なども見たが、私にはやはり、人民公社、解放軍の見学の方が興味があった。

中国共産党は、解放地区では大地主の土地を、実際に耕作している農民に分ける政策を実施していた。 中華人民共和国成立以降は、それを全国規模で実施した結果、全国におびただしい零細農家が出現した。小さな土地で資金もなく、肥料も農機具も買えない。

そういう現状を打破するために、自然発生的に、何軒もの農家が協力し て、集団農場化する試みがなされた。 それを国の方針として取り上げ、全国規模に押し進めたのが人民公社運動だったという。 農民達は、各自の提供した農地の広さ、家畜や農機具と、実際の労働量を総合して、全体の収益から分配を受けるというものだった。実際の農家の見学もさせてもらった。 日本とどうしても比較してしまうので、家具も衣服も質素に感じられた。

                                                                              人民公社

jinminkousha

しかし、解放以前、地主に殆どの収穫を持っていかれ、毎日の食べ物にも事欠いた生活に比べて、どんなに今の生活が恵まれているか、おばあさんは目に涙を浮かべて話してくれた。

この人民公社は、結成から何年も経過していた。 単位当たりの収穫の増大、家畜の増加、栽培作物の多様化など、様々な成果が上がっていた。 今後の課題として、機械化の推進に力を入れたいと話してくれた。

人民解放軍       jinminkaihougun 人民解放軍は、軍隊というイメージからは異質のものを感じた。 自分達で使う衣服や食料まで、自給するために、工場や農場を経営していた。 これは国民党との内戦の中で培われた人民のものには “針一本、糸一本” 手をつけないという精神を受け継いでいるという。 解放軍になるのは、農村では青年達の憧れであり、競争率も高いという。 制服も上下間の差別はなく、赤い襟章と帽子の赤い星が、人民の軍隊の誇りを示していた。

精華大学の見学では、学生が意外に少ないので驚いた。 聞くと、多くが下放で、農村や工場に行っているという。

中国でも解放後、20年が経過し、安定した生活が続く中で、革命を担ってきた幹部の中にも革命精神を忘れ、堕落し、権力の上にあぐらをかく者が見られるようになってきたという。 青少年の間にも、安易な生活に慣れ、苦労を避け、卒業後も都市に留まることを望む傾向が強くなり、農村部や辺境に行くのを嫌がる風潮が目立ってきていた。 そんな中で、“下放” 制度が、大規模に取り上げられ、学生の意識改革が図られているという。 革命の成果を次代に引き継いでもらうという事で、“接班人” (後継者)という言葉をしばしば聞いた。

北京から、また深圳に戻り、香港に入った。 男子学生の中には、やっぱり香港の方が気楽でいいといって、酒を飲みまくる人もいた。 私は、別れ際に紅衛兵の王さんからもらった 『毛沢東語録』 を開いてみた。

  世界是你們的、也是我們的。但是帰根結蒂、是你們的!                世界は君たちのもの

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2005/05/16

上海      ( 4-36 )

友誼万歳

kangei そんな私達のために、上海では “冷や奴” が用意された。 皆、これには感激した。上海といえば水のまずさに閉口した。 ポットに “開水” といって一度沸騰させた水がいれてある。 そのまま飲むと、“どぶ水” もかくやというような味がした。

その時、私は中国で “茶” が発達した理由が解った様な気がした。

上海での見学地は、病院と学校と農場だった。 病院では “針麻酔” に代表されるように、中国医学と西洋医学の融合が試みられていた。 昔からの伝統技術の中からも良いものは積極的に取り入れ、また発展させていくという事だった。

 “赤脚医生”(裸足の医者)の話も紹介された。 中国の農村部では、未だ人々が裸足で生活している所も多く、そういう地域の医療活動を支える医者を、自前で養成するという制度だ。 

当時の中国では、医学校で学んだ若者は、都市部の大病院勤務を望み、農村のいたる所に “無医村” 状態が見られたらしい。 農村地域で普通に見られる、病気やけがを治療できる医者を大量に養成する必要に迫られていたという。

自分達の中から選んだ若者を、国の集中訓練施設に送り、終了後、また自分達の地域に戻って、医療活動に従事してもらうという制度だった。


 大学にて        
daigaku 学校教育でも、新しい試みがなされていた。 今までは “読書做 官” といって、勉強して出世するという考え方が支配的で、勉学環境に恵まれた一部の子弟によって大学が独占され、一般の民衆意識からかけ離れたエリート層養成機関となってしまっていた。 それを打破する試みとして、職場や農村からの推薦者を優先的に入学させるという事も行われていた。 私達の見学させてもらった教室では、髪の薄くなった人や、工事現場からそのまま来たような日焼けして、黒光りしている青年など、種々雑多な人が若い教師から学んでいた。

                                                     noujyou      
   農場見学では、広い試験農場を案内してもらった。 私には地味はやせているように見えた。 休憩時間に出してくれた梨も小ぶりで、味もおせじにも美味しいとは言えなかった。 でも案内途中、技術指導員が日差しを防ぐためにくれた麦わら帽子は、土と汗で汚れていたけれど、私の大事な記念品として今でも押入の奥に大切にしまってある。

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2005/05/13

新中国     ( 4-35 )

そんな予備知識を持っていたので、私は香港から深圳に行く国境で、初めて中国人民解放軍を見たときには心が躍った。 真紅の襟章、帽子につけられた赤い星の徽章、それは書物で見た紅軍の制服そのままであった。 いよいよ、新しい中国に入るのだ。

当時の深圳は、いかにも田舎だった。 水田が続き、レンガで造られた農家が点在していた。 宿舎には竹林があり、竹の子が群生していた。


紅衛兵     koueihei 私達は行く先々で、紅衛兵や、紅小兵の歓迎を受けた。 彼等は皆、胸に毛沢東バッジを付け、手には毛語録を持っていた。 皆、明るく、親切だった。

中国に来る前、私は実は一つ心配事があった。 それは、旅行社から出発間近になって告げられた事だった。 

「中国では、トイレに囲いがありません」

私はこの事を聞いて以来、数回、夢でうなされた。 トイレに行こうとしても、どこも皆、人だかりがして、しかも囲いがない。 次々と違うトイレを探し回るが、人気のないトイレを探せないという様な内容だった。

でも郷に入れば、郷に従え。 行ってしまえば、それなりに適応できた。

その代わり、中国では行水するときでも個室であるという習慣にかえって驚いた。 井岡山に行く途中、宿泊したところは、本当に田舎だったので、シャワーもなく、私達はたらいにお湯を張って行水した。 その時でも、しっかり周囲は板で囲まれた個室になっていた。

                                                     nouson

 井岡山は、中国紅軍の生まれた場所である。 当時圧倒的に優勢な国民党軍を何度も跳ね返したという事から、私は難攻不落の山城のイメージを持っていた。 が、実際は全然違っていた。 二日間、私達は田舎道をバスに揺られた。

行けども行けども、のどかな農村風景が続いていた。

kodomo 山腹の斜面には、段々畑が連なり、平坦地では比較的小さく区分けされた水田が続き、池があり、レンガ造りのの農家が点在する。 子供達は、日本人を珍しがって周りに集まってくる。 到着地では、夕食時によくレセプションが開かれた。 私達もお礼に何か出し物を用意した。 私達の班では、最初の頃は、次のような歌を歌った。

生まれたときが悪いのか、それとも俺が悪いのか…”

その頃の私達の気持ちにぴったりしていた。        

                                                     tanada         
   しかし、旅行の中頃から、私達は “大海航行…”  “東方紅…” を中国の紅衛兵と一緒に歌っていた。 中国の若者達の気持ちが私達にも伝わってきていた。 私達の心も明るくなっていた。

食事について言えば、私達は最初から最後まで、心のこもった、中国料理の精華を食べさせてもらったような気がする。 初めの頃は、一皿出るごとに、皆、目を輝かせ、回転して皿が自分の前に回ってくるのがもどかしかった。 次から次へと出される料理を全部食べ尽くし、いつも満腹だった。 でも毎日の飽食で、少々疲れが出てきたのか、皆の食欲も落ちだした。 男子学生の中には、日本から持参したふりかけや梅干しを、お粥と一緒に食べるだけという人も現れた。

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2005/05/09

2.28事件  ( 4-34 )

しかし、中国国内では、そこから更なる悲劇が始まった。 1946年、蒋介石は共産党地区への攻撃を開始し、全面的内戦に突入する。 蒋介石の支配地区内では、白色テロが再開される。 その流れの一環として、1947年台湾で起こった、2.28事件も理解できる。 

 1947年2月27日、台北市を流れる淡水河ぞいの商店街で起きたいざこざに端を発した台湾人による抵抗運動は、国民党の陳儀長官が蒋介石総統に援軍を要請した時から悲劇的な様相を呈することとなる。 

 同年3月8日に基隆港から上陸した約1万3千名の増援部隊は、台湾人の殺戮を開始すると共に、指導者層を次々と逮捕していった。逮捕と殺戮の対象は広範囲に及び、ことに国民党に対立する可能性があると見られた知識人は、ほとんど無差別に弾圧の対象となったといってよい。

 おそらくあの時の台湾における「白色テロ」による犠牲者は三万人を下らないだろう。 
                                          李登輝 「台湾の主張」より                                              

 しかし、蒋介石の大陸での勝敗は、1949年解放軍(紅軍は抗日戦争当時は八路軍、新四軍と呼ばれ、後1947年に中国人民解放軍と改名)による総追撃によって決着する。 1949年10月1日中華人民共和国が誕生する。

一方、中国大陸から追われた蒋介石は、台湾に恐怖政治 をしき、台湾統治に腐心する。 1949年に施行された戒厳令は1987年まで延々と続行された。

この間の事情を「軒を貸して、母屋を取られた」と、台湾の人達は言っている。

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2005/05/06

中国革命    ( 4-33 )

中国は清朝末期、列強の侵略により、呻吟していた。 その中から、辛亥革命が起こり、1912年には中華民国が成立する。 しかし、軍事力に勝る軍閥に実権を奪われる。 この間の指導者孫文は国民党を組織して対抗する。 1921年上海で生まれた共産党と手を携え、北方に割拠していた軍閥政権の打倒に乗り出す。 その矢先、孫文は病没するが、北伐の歩みは力強く踏み出される。

中国統一を目前に控えた1927年、当時孫文なき後、軍事力を背景に国民党の主導権を握っていた蒋介石が突如、白色テロを断行し、革命的な労働者、大衆の大虐殺に乗り出した。

ある統計によれば、1928年~30年の3年間に60万人の命が奪われたという。

 
  労働者の内、少しでも闘争の経験を持つものは、八割までが殺されたり、工場を追われた。 革命の高揚期に労働者がたたかいとった経済上の利益や民主的な権利はすべて剥奪された。反動派は労働者の賃金を引き下げ、労働時間を再び11時間以上に延長し、更に休日をなくしたばかりか、工場には私服、巡査、軍隊を差し向けて労働者を監視した。    
「中国紅軍物語」より


その白色テロの嵐の中から、毛沢東、周恩来、朱徳などが、南方各地で武装蜂起して、井岡山で合流し、中国紅軍が誕生する。

            紅と赤について  ● 

ここで余談だが、中国における、紅と赤についての語感を述べてみたい。

 “紅” は中国においては喜びを表現する色である。 “紅事をなす” といえば結婚式などの目出度い行事をさす。 以前は花嫁さんと言えば文字通り “真紅” の衣装に身を包んだ。 今でも旧正月など、真紅の装飾に中国全体がおおわれる。

   “赤” はその点少し暗い色彩をイメージしている。 赤小豆(あずき)、赤血球などと使われている。 赤壁などもこの系列だろう。 また、赤貧、赤裸々などのように何も無いことを強調する時にも使用される。まじりけがないという意味が強調されて、赤心、赤誠などとも使われるのだろう。

さて本題に戻る。 中国の白色テロの中から生まれてきた紅軍とは、中国の人々にとって、喜びを持って迎えられた自分たちの軍隊だったのである。このような時期、日本は軍部主導で、満州国建国、華北への進軍と中国植民地化の歩みを進めていた。

蒋介石は、日本軍と妥協する一方で、国内の反対勢力一掃に狂奔する。

井岡山に四回にわたる包囲攻撃をかけ、第五回の包囲攻撃には、何と百万人の兵力を投入した。 1934年10月、蒋介石の包囲を脱して、紅軍は 長征 の途につく。

その翌年、1935年1月、毛沢東の指導が紅軍の中で確立する。

そしてその年の10月陝西省にたどりつき、延安を中心に中国革命の強固な根拠地を作っていく。 その間、11の省を通り、2万5千華里(12,500KM)を踏破した。 

 12ヶ月の間、空では毎日何十機という飛行機が偵察し、爆撃し、地上では何十万の大軍が包囲し、追撃し、行く手を遮り、途中では言葉で言い尽くすことの出来ない困難と障害に出会った。    毛沢東 「中国紅軍物語」より


この時期に、紅軍がピラカンサを食料にしたというエピソードを何かで読んだことがある。 小鳥に喜ばれる木の実だが、人間が食べて美味しそうには見えない。

その後、日本軍の侵略は中国内部に及び、抗日を求める運動が、中国全土に拡がったにもかかわらず、蒋介石は相変わらず紅軍の攻撃に勢力を集中するため、日本軍と妥協を続けた。 それに対し、国民党内部からも反対が強まり、西安事件が起こる。張学良が、西安で蒋介石を監禁し、反共内戦を止め、一致して抗日救国に向かうよう迫った。 1936年12月の事である。

ここに、十年にわたる内戦が終わり、中国は全力を挙げて、抗日戦に立ち上がった。それから更に8年余の闘いの後、1945年、日本の無条件降伏により、中国と日本の戦いは終わった。

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2005/05/02

斉了会での訪中 ( 4-32 )

新中国を知りたいとき、私はよく神保町の本屋に行った。 中国関係の書籍を専門に扱う本屋が2、3軒あり、大体ハシゴした。 店頭に並べられた、中国で出版された本やパンフを通して、その当時、中国で何が起こっているか知りたかった。“文化大革命”、日本では“文革”と略されて、様々な評論がマスコミをにぎわせていた。 その多くが間接資料による憶測の域を出なかった。 私は、直接中国に行って、自分の目で見たかった。 中国は何を行っているんだろう。

 ある日、私は、中国書専門店の店頭で 「日中友好学生参観団募集」 のチラシを見かけた。

 8月7日から8月30日まで、中国各地を訪問して、日中友好を深めようという内容で、100名程募集されていた。

 当時、日中の国交はなかった。 日本政府は台湾に追い出された、国民党蒋介石を、中国全土の正当政府として、新中国を無視していた。 中国に行くには、中国政府が招待してくれるという形で、極めて細々と続いていた機会を利用するしかなかった。私は直ぐに応募した。 しばらくして、斉了会という主催団体から、連絡があり、指定された会場に行くと、学生で溢れかえっていた。

100名募集のところが、数倍の応募があり、どうやって選考するか困っているようだった。 真の日中友好を考えていくという主旨のもと、何回にもわたってグループに分かれて、討論会が行われた。 その過程で脱落していく人もいた。 そして最後に主催者が発表した人選に異議を唱える人は余りいなかった。 そんな訳で、私達は行く前から、かなり真剣に日本と中国の関わりを深く考えていた。

8月7日、私達は羽田空港に集合し、ルフトハンザ機で香港に飛びたった。 当時、中国に行くには、このルートしかなかった。私は海外に行くのが初めてでもあり、しかもあこがれの中国に行けるのでわくわくしていた。

そもそも、私が中国語を学ぼうと思ったのは 「中国の赤い星」 に描かれた延安における、毛沢東、周恩来、朱徳に代表される中国革命のリーダーに強く惹かれた事が出発点だった。

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