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2005/06/27

卒業     ( 4-45 )

その翌日、駒場のK先生を研究室に訪ねた。 何回か行ったが、先生は留守だった。 数日後、校門の近くで、ばったりとK先生に会った。 卒業後の私の仕事の話を先生の口から聞きたかった。 先生の下で、どんな仕事をすればいいのか。

 「山川君、僕は君を避けていた訳じゃないんだ」

 先生は言い訳がましく口を開いた。 

 「でも、大学に、君を置く場所がないんだ」私は一瞬ポカンと先生を見つめた。 先生の顔は気が弱そうにうつむき加減だった。

  先生は疲れているようだった。 

 「山川君、国文科を無給で手伝ってみる気はないか。もしその気があるなら、話をしてあげてもいい」

 K先生の言葉が終わるか、終わらない内に、私は

 「忙しいので、今日はこれで失礼します」と言って、校門の方へ足早に歩き出した。 急に目からあふれ出てきた涙をK先生に見られたくなかったのだ。

別に東大に未練がある訳じゃない。 ただ、職場として東大に残るつもりだったんだ。 私を一人前として扱ってくれない東大なんかにもう用はない。私はその後、K先生の研究室へ二度と行かなかった。

 次の日から、私には職探しの日々が始まった。

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2005/06/24

修士論文   ( 4-44 )

どっと疲れが出てきたような感じがした。 しかし、そうも言っていられなかった。 時間は待ってくれない。 修士論文を完成させなくては。

しかも、K先生にも満足してもらえるような立派なものにしなくては。

 私はまた、毎日、図書館や研究室に行って、資料集めをし、論文の構想を練りだした。そろそろ、まとめることも考えなくてはならなっかた。

修士論文審査の口頭諮問の日、教授達の私の論文への意見は、冷たかった。

 「資料は良く集めているが、自分の意見がない。 もっと自分の頭で考えたことを書かなくてはだめだ」 

 私は、悔しかった。私の意図を少しも理解してくれていなかった。 今後どうするか聞かれたとき、私は思わず言っていた。 

 「この大学で学ぶことは、もう何もありません」

 私は、その場で泣いていた。 本当にもう、この場に私のいる余地は無いという事を感じていた。 研究室を出ながら、私は気を取り直した。 本郷の先生が皆、私のことを少しも理解してくれなくても、私にはK先生がいる。 K先生の元で研究を続けよう。

それから数週間後、修士論文審査の発表があり、私も合格していた。

あんなに酷評されていたのに、良く受かったなと思った。 

 「何ら思索の跡が認められない劣悪なものだが、“東大全共闘”の残党は早いこと卒業させるに限る」

 多分、教授会はこんな事を考えて、私に合格点をつけたのだろう。

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2005/06/20

パンダの来日 ( 4-43 )

その年の9月、日中国交正常化が実現した。 10月には友好のシンボルとして中国からパンダが送られてきた。 テレビには、連日長い行列が出来ている上野動物園が映し出された。 私はしばらく様子を見ていたが、ある日上野に出かけた。

 上野動物園は、大学からも近かったので、以前にも何度か行ったことがあった。疲れていたときなど、猿山なんか見ているだけで心が和んだ。

その日は、入り口を入ると直ぐ、長い行列が目に飛び込んできた。案内の人が

「パンダを見る人はここに並んで下さい」と誘導している。 私もその列に並んで待つこと一時間あまり、やっとパンダ舎に入れた。 室内は薄暗く、パンダのいる室だけが明るく浮き出していた。 

「押さないで歩いて下さい。立ち止まってはダメ、ダメ。サッサ歩いて、歩いて」 警備員の声だけがやたらとうるさい。

 パンダの方を見たが、なかなか見つからない。 その内、やっと丸くなって寝ているランランとカンカンが目に入った。 と思う間もなく、私は、パンダ舎の外へ押し出されていた。

 こんなに沢山の人が、日中友好を支えていると思うと心強く感じた。

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2005/06/17

神戸見学   ( 4-42 )

 神戸では、港の埋め立てと六甲山の住宅造成現場を視察した。 延々と見渡す限り続く造成地の中で、何台ものブルドーザーがうなり、将来の団地の基礎造りをしていた。 神戸の地形は、海と山が迫り、その間に挟まれたせまい平野部は、当時でも既に飽和状態で、新しい住宅の大量の供給が望まれていた。 その為に、山を切り開き、その土で海を埋め立て、山と海の両方に、新しい住宅団地を造るという計画だった。

 山の残土をダンプカーで運ぶとき、市街地の交通体系を壊すというので、山の上から海岸線までベルトコンベヤーが作られていた。 しかも、市街地部分は地下を通すというものだった。 この雄大、かつ綿密な計画を構想し、押し進めた前市長原口さんに私は敬服した。 この市長を選んだ神戸市民は賢明だとつくづく感じた。 “技術屋”魂を体現したような原口さんは、また本四架橋にも並々ならぬ情熱を注いでいた。

 工事現場を案内してくれた技師は、
 「自然を破壊すると批判される面もあるのは承知していますが…」と弁解するように言った。
 「家の無い人に、家を提供するのは、立派な仕事だと思います」
私は原口さんの肩を持ちたかった。 その技師はヘルメットの奥で、にっこり笑った。 きっと、彼も同じ考えを持っていたのだろう。

日中土木技術交流協会 会報第7.8号

名古屋.大阪にて       nagoya この仕事は、最初から最後までずっと楽しかった。 私の日本認識を改めてくれた。中国の団員の方には“視察”だったが、私にとっては“見学”であった。

 私は随行していた時、白いブラウスに紺のスラックスだった。 そんな私に、時々日本側スタッフが話しかけた。 

                                   視察行程表(5/26~6/30 ) kengakutizu  

 「日本語お上手ですね」私は困った。嘘をつけず、  

 「私は日本人なんです」

 するとその人は、ひどくばつの悪そうな顔をした。 そこで私は以後、次のように答えることにした。

 「ええ、まあー 、 あの急いでますので」と言って、団員の中に紛れ込むのである。 こんな私を見ていて、旅行社から派遣されていた随行員がからかった。

 「山川さんは、まるで富士山みたいですね」

 「え? どうして?」

 「だって、恥ずかしがって、直ぐ雲の中に隠れてしまうじゃないですか」

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2005/06/13

鹿島コンビナート ( 4-41 )

 もう一つ、私の張りつめた緊張を解きほぐしてくれた要因がある。 それは二人のメイン通訳の存在だった。
その内の一人Sさんは、数年前、母親と共に中国から帰ってきた中国生まれ、中国育ちの日本人だった。

 Sさんにとって中国語はいわば、母国語だった。 その上、帰国後の数年間の必死の努力により、日本語の力は立派と言うほかなかった。 ただ、最初に日本語を習った先生が、東北なまりのあるドイツ人宣教師という事で、少々アクセントにおかしなところがあった。 しかし、訳語の正確さと、訳している内容の把握力に私はしばしば舌を巻いた。 私は、中国語を少し解る添乗員でいいという、自分の役割にやっと気がついた。 

 最初の視察地は鹿島コンビナートだった。 昼間の日程は、日本側技術者による説明、Sさん達の通訳、そして見学と続いた。 私も皆と同じヘルメットをかぶり、喜々として日本の工業の最先端を見て回った。 私には全く新しい世界だった。
 その夜、私は初めての大仕事の初日という事もあり、なかなか寝付けなかった。
 私はカーテンを開け、外に目をやった。 ホテルの窓からはコンビナート全景が見渡せた。 黒々と広がる鹿島灘を背景に、眼下に星空が広がっていた。 少なくとも一瞬私にはそう見えた。 それは、コンビナートに点在する光だった。 しかし、私にはハッとするくらい美しく見えた。

 二つ目の目的地は、青函トンネル工事現場だった。 しかし、私はこの日程から外された。「トンネル工事現場は、女人禁制なんでね」
 深谷さんの言葉に、私は一寸驚いた。 最先端の技術とトンネルの神様の共存はいかにもチグハグに見えたが、わざわざ神様を怒らせてまで、見学したいとも思わなかった。 これ以後の視察には、ずっと同行させてもらえた。

日中土木交流協会 会報第7.8号

 nagasaki
長崎、荒尾、津など、当時世界に冠たる日本の造船所は、活気に満ちていた。何十万トンという巨大タンカーの建設現場では、人はいかにも小さく見えた。 しかし、逆に私は人間の力の大きさを感じた。 私は物造りの凄さに圧倒された。

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2005/06/10

中国土木工程技術代表団  ( 4-40 )

 修士論文のテーマが決まり、資料集めに忙しく過ごしていた。 そんなある日、
 「僕の友人の深谷君が日中友好のプランを企画しているんだけど、手伝ってみないか」と父から言われた。 深谷さんは、日本と中国の友好促進のために、日中の土木技術者の交流を計画していた。 悠久の歴史と広大な国土の中で、数々の大土木工事の伝統を持つ中国。 万里の長城 、黄河の治水、南北をつなぐ大運河の建設、...。 解放後は、自力更生のシンボルとも言われる紅旗渠南京大橋などが知られていた。 日本もこの頃、 新幹線の開業、青函トンネルの建設と数々の大事業が押し進められていた。

 深谷さんは建設省OBであったため、各地に知り合いも多く、皆快くこの計画に協力してくれたという。 後で知ったことだが、深谷さんはこの計画にかかった全費用を、保有していたゴルフ会員権を売却することでまかなったという。 

最初、通訳として手伝ってくれないかという話だった。 私は斉了会で中国旅行に行ったとき、三週間余り、毎日中国語の中にいたので、かなり聞き取れるようになっていた。 しかし、話す機会は少なかった。 以前も日常会話を習ったことは殆ど無かった。 「ニイハオ!」がしゃべれて、短波から聞こえる毛沢東語録が聞き取れるというのが正直言って当時の私の会話能力だった。

 それでも私はこの機会を逃したくなかった。 直接、新中国から来た人と話せる機会は殆どなかった。 自分の中国語の練習のためにというのが、この仕事を引き受けた動機の半分を占めていた。


日中土木技術交流協会 会報第9号

daihyoudan 中国代表団の到着後、幾つかの歓迎レセプションがもたれた。 私も代表団と同じテーブルで食事をした。  そこで私は、全然代表団の人達の話が聞き取れないことが解り当惑した。 団員は、中国各地から選ばれて来ていた。 皆標準語を話していても、 各地のなまり   が強かった。 私はそれまで、ラジオの短波などでアナウンサーの声を聞いてヒヤリングの練習をしていた。

私には団員の言葉が別の国の言葉の様に聞こえた。

「どちらからいらっしゃいましたか」 

「ご家族は」 

「日本に来てどんな印象をお持ちですか」 等々のやりとりをなんとかかんとか苦労して交わしてしまうと、後は、

「どうぞ召し上がって下さい」

「とても美味しいです」の繰り返しだった。

でも、団員の方は皆、土木技術者特有の、率直で、大らかな人達の集まりなので、何となく楽しく、打ち解けた気分になれた。

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2005/06/06

東大闘争私的総括試案ー続

 前稿で少し触れた、その後の日本への影響を考えてみたいと、思います。
 結論から言えば、東大闘争の終結は、考えられる最悪の形だったと思います。戦後民主主義教育を最も体現して育った世代の、最も優秀な若者(これには異論、反論も当然あると思いますが、論を単純化します)が、最も正義感に燃えて身体を張って守ろうとした理念を、国家の暴力装置で踏みにじったのです。しかも、それを実行させたのが、戦後民主主義を守ることを標榜していた政党と、戦後民主主義の総本山であったはずの、最高学府東大当局だったのです。

 以後の歴史は、当時の権力勢力と全共闘世代の、絶対的不信感により綴られてきたように思われます。

 ①政治的影響  全共闘世代が形式的民主主義にしらけ、政治的関心を失う。
 →後継世代の支持を期待できなくなった政権党は、既成支持層の歓心維持にのみ腐心する。
 →医療、年金など高齢者に手厚く、若年者に冷たい政策となる。
 →国内支持基盤が脆弱なため、圧力団体、宗教団体、外圧に極めて左右され易くなる。
 →政治を担う人材も、伝統芸能化、いわゆる世襲化が蔓延し、新しい人材が払底した。

 ②文化的影響  建設的、開放的、人類愛的発想が後退し、守勢、保守、利己主義的思想傾向が強まる。
 →近隣諸国との友好発展を望まず、無意味に反感をあおり、夜郎自大におちいる。
 →個人の生活にのみ関心が集中し、他国の不幸に極めて冷淡。

 ③経済的影響  理念喪失により、金がすべての価値基準になる。
 →土地バブルに翻弄された。
 → I Tバブルに翻弄される。要するに信念が欠如している。

          IT ( Information Tecnology ) はバブル(泡)ではなく、大事な道具(Important Tool ) だと思います。

 以上思いつくまま、書いてみました。皆さんの、たたき台にしていただきたいと思います。また、歴史に“IF...”は禁物どころか、大いに必要だと思います。その作業を通じて初めて、より好ましい未来の建設が、より確かにできるのではないでしょうか。
 
 

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2005/06/03

東大闘争私的総括試案

 日大全共闘OBさんへの返事をかねて。
 この間、多くの日大全共闘の方々との対話の中で、私が当時から、漠然と感じていたことが、少しずつですが、輪郭を現してきました。簡単に言えば、“東大全共闘は、連帯する相手を間違えたのではないか ”少なくとも、最も大事にすべき、相手を間違えたのではないか、ということです。
 文学部、長期団交以降、敵対に転じた民青に対抗するため、全共闘は、セクトへの傾斜を強めて行きました。これは、当時の左翼の中にあった、日本共産党に対する、不信感に根ざした部分もあったと思います。
 しかしこのことは、東大闘争の持っていた大きな可能性を幾つかの点でつぶしていったと思います。

 ①東大をどのように改革していくかが、いかに民青に対抗するかという問題に力点が置かれすぎ、目的が矮小化された。
 
 ②東大改革は、一日にして成らず。それが、全てか、無かに単純化された。
  安田講堂攻防戦は、ある意味、いたちごっこ化して百回繰り返すという選択もあったと思います。

 ③大学改革に政治闘争が持ち込まれ、闘争目的が見えにくくなった。

 他にも、反省点は色々あると思いますが、私の考えとしては、東大全共闘が日大全共闘を代表とする、各大学に根ざした全共闘勢力ともっと強い連帯を築き、地道な闘争を構築できていたならば、現在山積みしている、日本の抱える諸問題の多くは、発生しなかったか、発生しても早い段階で、適切な手が打てていたような気がします。


 

 

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