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2005/11/30

アッテンボローさんへの返事

 コメントをいただいてから、ずいぶん返事が遅れてしまいました。

 “ 管制塔 ”の検索で見つけたた貴ブログへトラックバックを送ったときは、こんにちはの挨拶程度のごく軽い気持ちでした。コメントを返していただき、改めて色々と、読んでみました。
 そして “ 組合活動ではそこそこ有名で 「中核派の兄ちゃん」 で通っていました。尤も現在は思想的腐敗が原因で除名されたので関係していません。・・・” と自己紹介されている文章に出会って以来、私の中に長年、それこそ40年近くにわたって頭のどこかで考え続けてきた問題に、しっかりと向き合わなければいけない時が来たと感じました。

 中核派という言葉と私が出会ったのは、大学2年の羽田闘争の時でした。当時の首相の南ベトナム訪問を阻止するため羽田に集結した、学生を中心とした勢力と機動隊が激しくぶつかっている姿が、TVから迫ってきました。
 以前、私が中学生の頃あった、安保闘争の頃も、反対派と警察のぶつかり合う姿は、私にとってショックでした。いつも、デモ隊が警棒でぼこぼこにされて一件落着みたいな流れでした。お上に逆らうとこんな目に会う、と無言の威圧感に押しつぶされていたような気がします。
 そんなお決まりを破って、彼らは手に角材を持ち、文字通り身体を張って自分達の反対の意思を主張していました。仲間から一人の犠牲者も出ました。それでも彼らはひるみませんでした。この時の一連の動きは、その後の青年達の行動に大きな影響を与えたと思います。
 
 東大闘争があれだけの大きな変革運動として盛り上がったのも、これと無関係ではないと思います。
 普通なら、大学と学生自治会の馴れ合いの改良闘争で終わっていたかもしれない問題が、全大学を巻き込んだ、“ 大学とは ”、“ 学問とは ” の根源にせまる巨大な闘争になっていったのも、表面的妥協を排し、根源的解決を求めたからだと思います。

 これらは正の側面です。しかしその後の様々な運動の流れ、収束状況を見ると少なくとも表面的には余り大きな成果が見られませんでした。

 中核派、および他の新左翼、のその後を見ても、学生達が社会に出て行き、それぞれの職場で生活を守るため社会と戦い始めた時、彼らと共に戦いの最前線に居たかというとそうではなかった気がします。

 新左翼の多くは、学生時代の成功体験に安住し、当時の戦術に固執したように見えます。
 潮が引き、海岸線が後退したのに気付かず、灼熱の砂浜に取り残され呆然として暴走したように見えました。特に、内ゲバは陰湿で、私のような心情的シンパでさえ顔を背けたくなり、シンパで居た気持ちさえ萎えさせるに十分でした。
 人民の海の中でこそ、ゲリラはゲリラたりえ、戦士は戦士たり得るのだと思います。

                                ( 次回に続く )

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2005/11/26

けんちゃんへの返事 続

 前回のけんちゃんへの返事で、私の今時点でのブログ観を書きました。インターネットのなかで、一般人が気楽に使えるツールという意味で、掲示板なども含めました。まだ始めてから一年余の新参者の分際で、というお叱りはあるかもしれませんが、逆に、まだ新鮮な視点が錆びていないという長所もあるかなと、あえて書いてみました。

 今回は、けんちゃんブログで印象に残った、二点目について書きたいと思います。

 昨年の「安田純平さんイラク現地報告会」は、11月6日に開催されました。僅か1年前のことですが、随分昔のように思われます。日本全体がなにやら大きく変わったように思います。イラクのことも遠い話になりました。

 これはけんちゃん氏の感想ですが、私自身も同感です。これは “熱しやすくさめやすい” といわれる日本人の性質から一部は来るものかもしれません。しかし多くは、関心が自分のことに集中し、他人の不幸にきわめて鈍感になっている今の日本人の反映なのかもしれません。

 昨今、大手を振って使われる “国益” にしても、本当に、深く、広く、長期にわたって考えられて使われているとは思えません。“長いものには巻かれろ” 的、スネ夫流 処世術に過ぎないように感じられます。

 イラク 人質問題の時も、ビックリするような人質非難の大合唱がインターネットを駆け巡りました。結果としては “安宅の関” 的幸運で、3人は無事戻れたのですが、3人の心の傷は未だ残っているのではないでしょうか。

 私の個人的意見としては、当時の戦火の未だ残るイラクに、何の罪もないのに傷つけられた多くの人々に何かしてあげられないかという、やむにやまれぬ気持ちで飛び込んで行った若者の存在に、救われた思いがしました。諸手を上げて応援したいと思いました。

 しかし一方で、彼らに共感するが故に、彼らの命が危険にさらされるのを恐れました。余りに危険な地に、近付かないで!この二つの気持ちの間で揺れ動いていました。

 今、イラクに曲りなりにも平和が訪れつつあります。正当な理由なく他国に軍事行動を仕掛けた側に、加担した国として、イラク復興に何ができるのか、これからが国も、国民も試されるのではないでしょうか。

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2005/11/22

Qちゃんおめでとう!ありがとう!

 20日行われた東京国際女子マラソンで、高橋尚子選手が久々に見せてくれた快挙。試合後のスピーチ。どれをとっても、この数年来、日本を覆っていたスモッグを吹き飛ばすような爽やかさに満ちていた。

 私自身は、当日用事で外出していたので、実況中継 は聞きそびれた。しかしTVで断片的にではあるが、見られたQちゃんの走りっぷりから、生き生きとした彼女らしさが伝わってきた。自分の信じる道を、力いっぱい走る姿そのものが、日本の今の閉塞感を吹き飛ばしてくれる。

 最近は、テレビや新聞を余り見ていない。世界の端っこで馬鹿を演じている政治家と、大勢追従を地で行っているマスコミの論調をみると精神衛生上ひどく悪影響がありそうな気がするからだ。

 それに比べ、高橋尚子さんの優勝インタビューは、感動的だった。私は、その全文をこのエントリーに収録したいと思って、新聞記事を探した。そしてあきれた。一言発するたびに、日本の国益を損ね、世界の笑い物に貶めている政治家の言は細大漏らさず書き留めているのに、Qちゃんの言葉が何処にも無い。ウッソー!!という感じだ。もし掲載している新聞があったら教えて欲しい。来月から、その新聞に替えたいと思う。

 今ブログ検索で見つけました。その言葉。一言一言、人生の裏付けがあるからの説得力なのでしょう。Qちゃんの今後の活躍を応援していきたいと思います。

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2005/11/19

けんちゃんへの返事

 ブログ検索で思いがけず、同世代の方のブログを見つけ、久しぶりに訪れた故郷の小川でめだかを見つけた時のような気持ちがしました。・・・・懐かしいというか、あ!まだ元気でいてくれたというような気持ちでしょうか。
 けんちゃん氏のブログを少しですが読ませていただいて感じた事のうち二点について、私なりの意見を述べさせていただきます。

 <ブログの可能性>

① 初めの頃、インターネットでの議論は、酒の入った宴席上での会話のようなもので盛り上がっているように、少なくとも新参者の私には見えました。○チャンネルに代表されるでしょう。現実社会での鬱積した不平、不満を無礼講的に語り合う、または独白することにより、個々人の精神的解放を得る。
 それはそれで意義あることですし、決して否定されるべき事だとは思いません。ただこの場合は、自由に話せる代償として、ネットの性質上(可能性として世界中の人が覗ける)、話題に上った私人の個人情報、事物の特定を、第三者に許すような表現は避ける、意図的に虚偽情報を流さないなどの、配慮は必要とされると思います。

② 次に私が注目しているのは、従来のマスコミの欠点を克服した形の、より一般の人の立場に立った情報集約、発信機能の構築です。新聞やテレビのニュースに接した場合、自分の専門分野だったり、住んでいる地域の情報だったりした場合、一寸違うな、だいぶ違うな、ぜんぜん違うなと感じた経験は誰もが一度や二度はあると思います。
 マスコミが すべての情報を、熟知する事は、能力的に無理なのはわかります。又、多くの商業マスコミは広告収入によって成り立っているので、広告主の意向を無視できないという構造的宿命を持っているとも思います。
 これらを克服するものとして、なにかニュースが発生した場合、ソースに近い人が事実を事実として発信し、そのことに詳しい人がわかり易く解説してくれれば、少なくとも誤解や、無理解から来る軋轢はずいぶん解消されると思います。“けんちゃんのどこでもコミュニティ”などは、③ともつながるのですが、地域の情報発信として楽しく読ませていただきました。

③ 三つめ、これはけんちゃん氏のブログが目指されているものだとも思うのですが、地域コミュニティの再構築です。現在日本は、従来の社会機能が無計画に壊されるだけで、新しいコミュニティが形成されていないという非常に不安定な状況にあると思います。今、身の回りに、私達ができる事、やらなければならないことは山積みされています。
 これを克服するためにHNKの “ご近所の底力” や、行政の思いやりが拾い上げてくれるのをひたすら待つのでしょうか。
 けんちゃんがなさっているような事を、多くの人が実践し、手をつないで行けば ( ネットの得意分野 ) 多くのことが好転し、日本の活力再生の一端を担えると思いました。 

                             ( 次回に続く )

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 “あなたへのEメール”出版の再度の遅れ報告。  私が校正段階で色々細かな注文をつけたせいで、またまた延期とのこと。この際、クリスマスまでにできればいいカナとあきらめました。

 

  

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2005/11/16

与太郎さんへの返事

  このページは、管制塔なんて関係ないのですね?

 このコメントに何と答えたら良いのか、しばらく悩みました。初め “あなたへのEメール” を書いてきた、私の気持ちを少しも理解してくれていない、という失望がわきました。次に、この何十年ぶりに再現した全共闘世代の運動の高まりに、私がなんらの反応も示さない事への、善意のお叱りかなと思い直しました。

 事実を言いますと、私自身は三里塚闘争に何らかかわってこなかったので、この段階で何らかの発言をするのが、おこがましいと思って遠慮していました。

 この間の動き、政府による、元被告に対する1億円余の支払い要求、しかも給料差し押さえも辞さないというニュースを聞いた時、何十年ぶりかで、権力の傲慢さと冷ややかさを思い出しました。普通の生活をしている人に対して、それがどんな意味を持つのか、少しでも想像した上での要求だったのでしょうか。

 しかも、三里塚闘争は、権力側に重大な責任があるのです。平和に勤勉に農業を営んでいた農民に、飛行場建設のため一方的に農地明け渡しを迫ったという、権力の傲慢さにより引き起こされました。それを見かね支持した多くの若者。青年特有の直情と情熱、それにたいする機動隊に頼った、力による封殺。当時の多くの大学闘争、政治闘争に共通して見られた政府の対応でした。そうして力の衝突の頂点で大規模な機動隊を出動させ、反対勢力の暴力性だけ際立たせ、闘争の出発点にあった、人々の切実な要求そのものを埋没させてしまう。・・・・・何度見せられた事でしょう。

 そんな中で、私は、左翼勢力の指導方法に疑問を持ち始めました。ただそれは、方法に対する批判であって、弱者の側に立って権力の横暴と戦うという原点に対する支持は少しも変わっていません。

 管制塔の場合も、罪状は器物損壊等々だったと思います。東大闘争の時もそんな罪名だったと思います。それなら私達は、体制側を、農民の生活と人生を破壊した罪、大学当局を、学生の信頼を裏切り人生の理念を踏みにじった罪で訴えたいと思います。
 しかし多くの歴史が語るように、記録は勝利者側に都合がいいように書かれ、敗者の姿は捻じ曲げられていきます。

 この管制塔募金において、ネットはとても大きな役割を果たしたと思います。いうなれば弱者のマスコミです。1億円余という大金が、ネットを通じて多くのかっての仲間や、新しい理解者の輪を広げることで数ヶ月という短期間に集められたという事は、今後の大衆運動に大きな示唆を与えてくれると思います。

 ただ今回の勝利は、あくまで追い詰められた闘争での勝利という側面を忘れたくありません。本当の勝利は、権力側が自分達の落ち度を認め、被害者である農民を支持し戦った側からお金を取る、という発想そのものを撤回させる事であり、当時の政治責任を取ってもらう事だと思います。

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2005/11/11

中国文化と日本

 前回紹介した黄河太鼓に、和太鼓の源流を見るのはあまり違和感を感じない。

 私は以前、日本文化への、特に庶民文化への影響は、中国南方の方が強かったのではないかと考えていた。

<南方文化の影響と考えられること>

① 稲作文化

② 日本の言葉に生きていると思える中国南部方言

  例  ○父親の通称 中国南部   ティエ (tie)、 

                        ティエティエ (tietie)

              日本   テテ (tete) 

                    テテ君 ( 父上 ) テテ御 ( 尊父 ) 

           ・・・・・古文に普通に見られる庶民言葉 。

               現在では "テテ親" "テテ無し子" などの俗語にわずかに残る。

              → トト (toto)    トト(toto) さま

              → おトウ (to)   トウ(to) ちゃん  

                おトウ (to) さん ( 現在最も普通に用いる )

    ( テ→トの例 ) ふテえ野郎だ ( 神経がふトい )

               人生テものは ( 人生トは )

               辛くテも    ( 辛くトも )

 これらの例はテよりトの方がより改まった感じがする。そのため父の呼び名テテがトトに変わって行った可能性は十分考えられる。

    ○ 呼び名につける接頭語   あ (阿)→お (御) 

            ・・・・・ 発音の変化の理由は解らない

      中国南部   あQ ( 阿Q正伝 ) あ扁  ( 陳水扁の愛称 ) ・・・・中国南方、特に台湾では、男女いずれにも、愛称として多用されているようだ。

               あ爸 ( お父さん )   あ哥( お兄さん )

               あ媽 ( お母さん、乳母 )

               あ姨 ( おばさん、保母さん )  

      日本      おしん( NHKドラマの主人公 ) 

               出雲のお国 ( 歌舞伎の創始者 )

               お滝さん ( アジサイの学名になる )  

               お菊 ( 番町皿屋敷 )

 ・・・・・・ 日本では、個人名の場合女性に限られていたみたいだ。

               おかあさん  おにいちゃん 

               おばさん  おじいさん

③ 日本各地における銅鐸の出土

 しかし今回、黄河太鼓を見た事で、唐文化の影響を改めて認識した。

<唐の影響と考えられること>  

①漢字の漢音 ( 音読み )

 遣唐使が唐の首都洛陽の標準語を学んで帰国。以後正式な音読みとされる。

 南方 ( 江南地方 ) の方言も、仏教などに伴って伝わるが、現存する数は少ない。

② 太鼓  雅楽と、各地に伝わる太鼓の伝達ルート、時期は異なる気がするが、どうなのだろう。

③ 獅子舞  遠くシルクロードを経てインドから伝わったものが、唐の時代流行したという。日本で一般庶民の間に広まったのは、時代を下って江戸時代という。

④ 東北地方の祭り、竿灯やねぶたなど、日本各地に提灯の祭りが伝わっている。中国では漢時代から見られたというが、唐の時代盛大に行われ現在の中国でも盛んな提灯の祭り “元宵節” の影響があるのかもしれない。

 こうして見てみると、日本における中国の影響は、時代、地域の違いにより幾つもの層を成しているのが解る。

 以上思いつくままに、列挙してみました。中国、日本の各地の伝統芸能や、方言を比較してみるときっと、より具体的な両国の文化交流の歴史が見えてきて面白いでしょう。この方面に詳しい方の、教えを請いたいと思います。また上記の論の運びに無理があれば、ご指摘ください。

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2005/11/07

黄河太鼓

 先週金曜日、パルテノン多摩 ( 多摩市 )で、黄河太鼓を聴いてきました。

 和太鼓の源流・・・、1400年の歴史を経て・・・、農民の間に代々受け継がれた・・・、日本初公演・・・等々のキャッチコピーに惹かれ会場に足を運んだ。

 二胡奏者でもある司会の許可さんの説明によると、黄河上流域の農村に戦国時代からあった伝統芸能で、本来は農作業の応援、休憩時の娯楽として発達してきたものだという。< 世間話 >、< ネズミの嫁入り >、< 犬が鴨を追いかける >など、農村の日常生活を題材にユーモラスに描写していて、ほのぼのと楽しめる。< 黄河太鼓の韻律 >など聴いていると、日本の祭りとオーバーラップしてくる。

 私は以前から和太鼓の響きが好きだった。太鼓の響きは胎児が聞く、母親の心音に似ているという説を聞いた事がある。世界各地に脈々と受け継がれている太鼓文化を見ればむべなるかなと思う。私は本能に素直に反応する人間なのかもしれない。しかし今回は、より身近に、歴史の継承を実感した。

 黄河と一口に言っても、下流から上流へさかのぼると流れの様相は一変する。激しく逆巻く激流に抗して、船を遡上させるのは、かっては人力に頼っていた。船につけられた綱を、多くの船曳きが渾身の力で引いたという。黄河太鼓は、その動きを統一し、力付けたという。

 < 黄河の船曳き >は、荒れ狂う黄河の濁流と戦っている、力強い人々の息吹を私達に直接感じさせてくれる。

 唐の事実上の創立者李世民は、軍隊の士気を高め、動きを統一させるためにこの黄河太鼓を活用したという。そのため黄河太鼓は唐の朝廷で洗練された形で儀式の時に演奏された。( それを見た遣唐使が日本に持ち帰り、雅楽として今日に伝わるという )

 < 秦王による兵の招集 >は、力強い大地の鼓動ともいえる当時の闘いの息吹を良く伝え、私達観客は息を呑み、圧倒された。

 終演後会場は、なりやまぬ拍手に包まれた。日本で言えば、中学生、高校生の年代を中心とするという団員の顔も汗と笑顔で輝いていた。1400年の時を経て、心と心が触れ合えた瞬間だった。

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2005/11/04

旧版への感想     8

 前略  先日は著書を御恵贈賜り,誠に有難うございました。

 斉了会は、青春の燃えた時代の重要な一区画を占めており、今でもあの頃を思い出すと、胸が熱くなり ます。

 「大海航行靠舵手」、「我們走在大路上」、「五星紅旗」、「人民義勇軍行進曲」 など口づさむと、炎天下、抓陽木の赤い花、白い半袖の開襟シャツと紺のズボン姿、「鼓足幹筋 力争上遊、 多快好省地建設社会主義!」 (ガンバッテ、速く無駄なく、社会主義国家を建設しよう!)のスローガンとデモ行進等、正に走馬灯の如く、いろいろな場面が思い出され、単なる懐かしさを超えた、行動エネルギーの源流のようなものを感じます。

 山川様もその団員として、当時訪中され、熱い思いをされたことでしょう。貴方の文章から、伝わってきます。

 小生は、その後・・・に入社しましたが、不思議な事に、中国との縁は意外に続いています。・・・時代に度々訪中したこともあり、回数は約40回に及んでいます。

              ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 斉了会には、何か書いてお送りしようと思っています。思いが強すぎて、なかなか筆が執れません。・・・さんたちに宜しくお伝え下さい。

 編集に従事していただく皆様には、本当に感謝しています。

                               再見!!            

      11月2日                     ・・・拝

                       ( 斉了会  OB              第2次 )


 付記  斉了会では当時、第一回訪中から30年を記念して文集作りが進められていた。多くのOBの寄稿と懐かしい写真の提供により、2002年9月 『斉了!ちいら!』 が刊行された。

                          

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