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2006/02/27

2.初めての迷子 (浩さんの物語)

この話はどこまでが私自身の記憶なのか、どこからが母が後に話してくれたことなのか実際のところ判りません。

私が生まれてまもなく、父の部隊は、南方へ移動になり数年戻って来ませんでした。当時は、仕事をすべてに優先させる風潮が強かったため、夫にあうために休暇をとるなど、もってのほかでした。私は長い間、父の顔も知らなかったのです。

母によると、1歳半ごろ父の写真を見ながら“パパ”と習うと、以後、男の人を見るとだれかれ構わず“パパ”と呼びかけるので、母はそのたびに顔を赤らめて

「パパじゃないでしょ。おじさんでしょ」と訂正したそうです。

 

 父に初めて会ったのは、私が3,4歳の頃でした。父の所属する部隊は、家族との対面を図ってくれました。ママはすぐに、私を連れて、南方行きの列車に乗りました。しかし父の駐屯地までは二日半は優にかかります。これは本当に長い旅でした。

 

 私達の乗った車両は軍関係者専用で、乗客の多くは、母と同じように久しぶりに夫に会う人で、みんなうきうきしていました。話しが弾んで、しばらくするとみんなまるで姉妹のように分け隔て無くなりました。其の内の何人かとは、今でも母は親しく付き合っています。

 表題の件は丁度この日に起きました。

女の人たちは、各自持ってきた好物を出し合い、みんなで分け合ったり、夫との馴れ初めを披露したり、大いに盛り上がりました。お正月以外には絶対に食べられないようなご馳走とかが行きかい、みんなの楽しそうな笑いが絶え間なく起こります。

 私はそんな中で、どれが誰のかもわからぬまま、夢中で口にほおばり続けました。そんなこんなで、母が私の道中用に準備していたものも、父の大好物の故郷の特産品もいつの間にかみんなで一緒に食べ尽くしていました。

 

 夕方、とある大きな駅に付きました。車掌さんによると、車両整備のため、この駅で三時間停車するという事でした。母はさっそく、私を車内に残し、仲良くなった友達二人と、町の見物も兼ねて、父へのお土産補充にでかけました。

 当時、家にテレビは無く、ラジオを聴くこともめったに無かったので、住んでいるところ以外の世界は母には本当に新鮮に感じられました。三人はおのぼりさんそのままに、ドキドキ,ワクワクたっぷり三時間の買い物を楽しんで、両手いっぱいの買い物を抱えて駅に帰ってきました。

 ところが、汽車はすでに出ていました。駅員の話によると、車両整備が早く済んだため予定より二時間早く出発してしまったというのです。母はそれまでの興奮がいっぺんに冷え切ってしまいました。                               ( 続く )

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2006/02/24

涙が出ました

 銀盤の妖精・・・。

伸びやかに、優雅に、軽やかに銀盤の上を滑る荒川選手とともに私も、銀盤を滑っていました。

途中から涙がひと筋、ふた筋とほおを伝わってきます。

フィギュアがこんなに素晴らしいものだったのかと再認識しました。

荒川静香選手、やってくれました。

終わりを待たずに、日本にやっと金メダルをもってきてくれたと確信できました。

表彰台での、静香選手の笑顔は素敵でした。

そして私達みんなに、心からの笑顔をくれました。

 ありがとう!!

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2006/02/20

1.雪の夜    続

 母は町で生まれ育ちました。

家庭も比較的恵まれていたので、学業に専心できました。成績も非常に良く、学校の中では評判だったそうです。母の当時の希望は大学を卒業して、教師になる事でした。

 しかし高校に在学中、“文化大革命”が始まりました。多くの学校が閉鎖され、“知識分子”(旧社会の価値観を次代に植えつけるとされた)の教師達は、あるいは批判にさらされ、あるいは農村に行き自己の思想変革を促されます。昨日まで、浪々と教科書を読む声が響いていた学校は、一転して蜂の巣をつついたような大騒ぎになり、今まで尊敬するよう教えられた教師達を批判し、ありがたがってきた古い文物に批判の刃を向けました。母も当然、腕に紅小兵の腕章を巻き、“文化大革命”とは何か良くわからないながら、“造反有理”を叫び、階級の敵と戦います。ただ教師を殴ったり、学校のガラスを割るような行動には参加しなかったと母は言っています。

 こうした混乱した時代の中で、母の学校生活は終わります。続いて、“学生は、地方に行き、労働する中で意識改革しよう”というスローガンの下、都会生活で身に付いた垢を流しに田舎に行くことになります。幸いといおうか、当時母は高校3年を終えていました。これは当時としては最高の学歴だったので、世間は“老高三”と称して、愛惜をこめて尊重してくれたそうです。

 文化大革命が終わった時、母も町に戻り、工場に配属されます。学校も徐々に再開され、学生も教室に戻りだしました。国は、文化大革命で、進学の夢を絶たれた人たち対象に、工場、役所などを通じて学生の募集を始めます。当然、各職場で推薦された者が優先されます。母の職場で推薦を受けたのは、母だけでした。

 しかし母は本当についていませんでした。母が20歳の時、一番下の弟が生まれ、祖母は身体を壊し、6人の弟妹の世話が母に課せられました。結局、母は大学進学の夢をあきらめざるを得ませんでした。

 母と父は人の紹介で知り合いました。その時、父はすでに軍隊の一兵卒から、小隊長になっていました。父の言葉によると、父は母に一目ぼれし、直ぐにお嫁さんにする決心をしたそうです。

 父は男の子を待望していました。父にとっては、男の子だけが、血統を守ってくれるのでした。母が妊娠したと解るや、生まれて来る息子の為に、ふさわしい名前を考えました。浩は気宇壮大を意味します。男の子は、すべからく志が広大無辺であるべきなのです。

 私が生まれたその日、父はずっと部屋の外で待ち続けました。お産婆さんが、女の子が無事生まれたという吉報を告げた時、父は一瞬凍りつき、しばらく無言で立ち尽していたといいます。しばらくすると、突然大声で泣き出し、その声は部屋の中で寝ていた母まで届いたそうです。

 当然、父には女の子用に、新しい名前を考える熱意は残っていませんでした。私はその男の子用の名前を借用することになったのです。

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2006/02/17

浩(ハオ)さんの物語 

 私の中国人の友人の浩(haoハオ)さんは、現在2児を育てながら、仕事も続けている、頑張り屋の若いお母さんです。時どき話してくれる中国での思い出話はとても面白く、私一人で聞くだけでは、もったいなくなりました。そこで思い切って、ブログに載せて、多くの人が読めるようにしたいとお願いしたら、快く承知してくれました。

 浩さんの幼い日、学生時代、日本に来てからと、なるべく年代順に一まとまりずつ文章にしてもらい、私が日本語に訳す、という形でやろうと思っています。浩さんの話を聞きながら感じた、わくわく感が少しでも皆さんに、お伝えできれば嬉しいのですが・・・。 ただ、浩さんはとても忙しいので、不定期になるかもしれません。その辺は、成り行きに任せようと思います。

 文中の固有名詞は、少し変えさせていただきました。

  

             1.雪の夜

 私の名前は浩(hao ハオ)です。

1973年のある雪の降り続く夜、周囲を囲む人々の、大きなため息の中、誕生しました。

 私の名前を見た人は、この名前の持ち主は、きっと志の大きな男子、少なくともそう期待された男性だと思うでしょう。なぜなら中国では一般に、男の子にしか、こんな気宇壮大な名前をつけないからです。でも、私は志も大して高くない、普通の一人の女なのです。父がこの名前を、生まれてくる我が子のために用意してくれた気持ちはとてもよく理解できるのですが、私が女であるという事実は変えることはできません。

 父は山東省の辺鄙な農村の出身です。その村の人々は、代々農業で生計を立てていました。そのため、労働力となる男の子を持つ事が、生きるための希望だったのです。また“家系”を絶やさないことが最大の親孝行と考えられていました。当然、男の子だけが家系を継ぐ事ができるのでした。

 

 私の父方の祖母は8人の子供を生みましたが、そのうち3人は男の子でした。そのため、祖母は、村の中で鼻が高かったそうです。父は、その中でも、母親のお気に入りの息子で、当時、農業を手伝うために8歳前後で学業を放棄していく男の子の中では珍しく、勉強を続けました。父が持ち帰った“中学卒業証書”を見て、祖母は嬉しさの余り、大泣きしたそうです。その卒業証書を、祖母は、家に来た人の目に付くようにと、門を入った直ぐの壁に貼り付けました。

 それは、後に母が初めて父に連れられて、訪ねた時も、10数年の風雪に耐えしっかりと貼り付いていたそうです。

 父が故郷を離れたのは、たぶん18歳の時でした。人民解放軍が村に来て、兵隊を募集したので、父は直ぐに応募したそうです。父が家を離れる日、祖母が泣いたかどうか、私は知りません。父もそれに触れた事はありません。ただその日、祖母が何度も繰り返し次の言葉を父に言ったそうです。“何処に行こうとも、早くいい嫁を見つけてくれよ。私がまだ元気なうちに、孫をこの目でしっかりと見たいのだよ。”

 父は、祖母の願いにたがわず、美しいお嫁さんを見つけました。

                                                                ( 続く )

 

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2006/02/13

ハンノキの花

 北風が少し和らぎ、暖かな日が数日続くと家の近くの法面のハンノキが一斉に花を開く。花といってもジミである。初めて私がその存在に気が付いたのは、道にゴミのように散らかっている、その雄花の花穂を見つけた時だった。思わず上を見上げると、法面から伸びだした枝に、まるでベビーサラミみたいな雄花がいっぱいぶら下がっていた。こんなに寒い時期なのに。私は、少々の感動を持ってその花を見上げた。

 それにしてもジミである。花というイメージに少しもそぐわない。後に樹木の知識が増えるにつれ、ハンノキの様な花は、決して珍しくないという事を知るが、当時の私は、花にはある種の華やかさが絶対に必要だと考えていた。

hanoki  それでも以後、毎年この時期になると、何となくこの花の開花を心のどこかで待ち望んでいるのは、備前焼に対する愛着に似ている。父の故郷、岡山特産という理由もあり備前焼には何とは無い郷愁に似たものを感じているのだ。ハンノキの花、特に雄花の蕾の雰囲気は備前焼にとても似ている。

 今年も、ここ数日、咲き出した。いつもながらジミで、道行く人誰一人として気付いていないようなのに、そんな事は我関せずと、しっかりと季節を告げてくれている。

 ハンノキについてこの際、色々調べてみた。以下、私の感想も混ぜながら、簡単に紹介したい。

 ハンノキはそもそも湿地を好む樹種という。里山の水田の近くとか、公園でも湿地に良く見られる。我が家の近くで見られるのは、宅地造成の時、それ以前の地形を法面に残したため生き残ったのであろうか。
 昔は日本中、いたるところで見られたらしい。根に根粒菌を持ち、空中の窒素を栄養として取り込めるという。そのため地味のやせたところでも良く生長でき、湿地に樹木が入っていく時のパイオニア的役割を持っていたという。
 
 ハンノキは古くハリノキと呼ばれていたが、それはハリ(墾)の木の意味で、水田を開く時、ハンノキの生えているところを、開墾の目安にしたという。そこには必ず豊かな水脈があったからだ。
   
 豊葦原瑞穂の国である。豊かにが生い茂り、稲穂がたわわに実った水田がところどころに見渡せる。これから一生懸命働けば、水田は更に広がり、豊かな生活が待っている。
 戦乱の大陸から、平和な新天地を求めて渡来した人たち、又その人たちに稲作を教わり手を携えて開墾に立ち向かおうとしていた人たち、すなわち私達の祖先にとって、それは希望の土地であり、輝かしい未来へ続く風景だったと思われる。

 時代は移り、自然も変化した。かっての湿原は、水田となり、最近は工業地帯となり、マンションが群立するようになった。それに従いハンノキの生息地も激減していったのだろう。

 とはいっても、今でも全国各地の山地や寒冷地に、ハンノキの生えている湿原や湿地は残っているようだ。その最大のものは釧路湿原だろう。山手線内の面積のおよそ3倍もあるという広大な湿原が広がり、葦が生い茂り、ハンノキが点在しているという。日本に稲作文化が発祥した当時は、全国いたるところ、特に平野部ではごくありふれた情景だったのだろう。一度釧路湿原に行ってみたい。太古の息吹に触れて、私達の祖先の胸の高まりを是非、追体験してみたいと思う。

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2006/02/10

闘病記

 タイトルが立派過ぎる。そもそも闘病といえるほどの代物か。病名が貧弱すぎる。期間が短すぎる。・・・いちいちごもっともなのですが、私にとっては、久しぶりの、全身全霊をかけた闘いだったので、記録しておきたかったのです。

 昨日の朝、目が覚めるとおなかが痛かった。そんじょそこらの痛さではない。もう叫びだしたいくらいの、どうにもならない痛さがこれでもか、これでもかと腹部を襲う。今までもおなかが痛くなる事はあった。そういう場合は〇〇丸を飲むことで大抵1時間もするとけろっと痛みは消えた。

 私の身体は、きわめて単純にできているのだ。今回もさっそく服用した。ところが効果あるどころか、胃に到達したころあいを見計らって、猛烈な嘔吐に見舞われ、すべて体外に出されてしまった。こうなると私としては打つ手が無い。ひたすら横になって、痛さと向き合うしかない。痛い痛いと念仏のごとく唱えていると、よくしたもので猛烈な睡魔に襲われ数時間安息できる。次に目覚めた時は、痛さ度は少々低下している。これを何回か繰り返しているうちに夕方になった。それまで、お茶さえ受け付けなかったのが、味噌汁とご飯を少し口にできた。
 
 そして、今日。痛みはうそのように消えと、期待していたが、そうもうまく行かず、腰と背中が少し痛んだ。それでも起きだし、ごそごそしているうちに、大体いつもの調子に戻った。一体、この痛みの原因は何だったのだろう。風邪だろうか。それとも一昨日かなり長い階段を上り下りした筋肉痛が原因だろうか。まあ直ったんだからどうでも良いけれど。

 それにしても、昨日一日はつらかった。もしあの時、人生で最も必要なものは、と聞かれたら、何のためらいもなく“痛みからの解放”と答えていただろう。生きがいとか、思いやりとかの言葉は間違っても出てこなかっただろう。ともあれ、今日、私は痛みから解放された。また生きがいを探しながら、ボチボチやっていこうと思う。

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2006/02/03

青・緑合戦のゆくえ

 今日は節分である。実際には一年のうちで最も寒い時期なのだが、人間とは気分に影響されやすいのか、節分と聞くだけで、なんとなく春の気配を感じてしまう。

 ここ数日の雨にもよるのだろうか、空気もしっとりとして、庭のあちこちに草の元気の良い芽吹きが見られる。菊、キジムシロ、シロヨメナなど、いつのまにか新しい株を作り、生長のスタンバイ完了という風情だし、ヒヤシンスの球根も、しっかりとした芽を土から覗かせている。

 以前 “青は何色?” のエントリーで日本では、長い間、青の概念は、黄緑、黄色さらには灰色まで含んでいた事を、主として、鳥の名前で考えてみた。今読み直してみると、大切な緑について、抜け落ちていた事に気が付いた。

 青葉、アオキ(青木)、アオギリ(青桐)、青々と茂る葉、青物市場、青虫、アオダイショウ(青大将)・・・これらの言葉は、現在でも普通に使われているが、実態は緑である。それに対し “緑” は緑の羽根、公園の緑、など人為的な用例が多い。

 歴史的に見れば、みどりという言葉自体は、かなり以前から在ったらしい。語源としては、芽出る mederu → midori となまったもので、本来、成長力の在る、生き生きした様子を形容する言葉だったようだ。みどり児、みどりの黒髪などの用例にに面影をとどめている。

 しかし、色彩を表す言葉として、社会に認められだしたのは、かなり最近になってからのような気がする。息子達が幼い頃、実際には緑色なのに、青信号と呼ぶよう教えなければならなかった割り切れなさ。子供が、社会と妥協させられた最初の経験かもしれない。青信号が名実共に青色になったのは、本当につい最近のような気がする。青色発光ダイオードのおかげかも知れない。

 一方、地名に限って言えば、都内では“青山”“青葉台”“青戸”・・・・などが散見されるが、新しい住宅地には“緑町”“緑ヶ丘”“緑区”“緑山”など緑が目白押しである。 いつの時代でも、新しい事象が、社会に受け入れられるのは、それを支持する人の存在の有無に大きく左右されるのだろう。 

 とはいっても青と緑は私達にとってかけがえの無い色だ。青い海、青い空、緑の大地、緑の地球・・・両者、それぞれの持ち味を生かして、私達の生活を守って欲しいと思う。

 

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