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2006/04/28

雑木林は花盛り

 Konara
 少し前まで、東京近郊の雑木林はクヌギとコナラの花が咲き乱れ、沸き立つようだった。花といっても黄緑色で、一般には余り注目されない、通(?)好みの花といえようか。注意してみると、クヌギの花は黄味が強く、コナラは白味がかっているので、この時期だけは遠目にも両者が区別できる

ここ数日は雑木林に入ると、何処からともなく爽やかな、なぜか懐かしい香りが漂ってくる。しばらく歩くと、全体に白い花をつけた木に出会う。これが、いま時点での林の主役、ウワミズ桜だ。Uwamizuzakura

 一見したところ、桜らしくない。学校の理科の時間で使った、試験管ブラシにそっくりである。よくみると直径6ミリ位の可愛らしい花の集まりだが、やはり桜のイメージとは異なる。しかし植物図鑑を見ると、バラ科サクラ属とあり、れっきとした桜の仲間なのだ。植物分類は主として花の構造で類別されるので、花の作り自体は似ているのだろう。

 未熟の果実は塩漬にし、熟して赤や黒になった頃は、果実酒に利用されるという。この近縁にシウリ(アイヌ語で苦い木)桜というのが在り、日本では本州(中部以北)、北海道で見られるが、中国東北地方にも自生していて、胃痛の特効薬として用いられているという。

 何はともあれ、このウワミズ桜を連休中に一見し、香りを胸いっぱい吸い込んでみる事をお勧めしたい。

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2006/04/24

8.おばあちゃんとにわとり 続

 その頃、私は鶏の言葉がわかりました。おなかがすいた時は、抑えた低音でいつまでもククッと鳴き続けますが、食べ物が目の前に置かれると、とたんに嬉しくてたまらないという感じの、せっかちで、甲高い声に変わります。怒っている時は、低く沈み何かうったえるようでもあり、時には興奮して威嚇しているようでもあります。なかでも私が一番待ち望んでいたのが、卵を産む“予告”でした。母鳥の苦しそうなうめき声を聞くと、私は大喜びで鶏小屋の前に駆けつけると、じっとしゃがみこんで待ち続けます。そうして生み出されるや否や、未だ体温が残って暖かく、殻も柔らかな卵をそっと拾いました。

 家で鶏を飼うというのは、ペットを飼うのとは訳が違います。祖母の家の台所は、そんなに広くなかったので鶏小屋が大半を占めてしまい、祖母が料理していると、小屋から首を伸ばした鶏に、ズボンの裾を突つかれて困っていました。

 狭いのも閉口しましたが、もっと厄介だったのは、糞の始末です。毎朝、家族に朝食を食べさせた後、祖母の最初の仕事が鶏小屋の掃除でした。大きなシャベルで、一日分の糞を掻き出します。この匂いが一種独特で、私にとっては、慣れ親しんだせいか、今では大好きだった祖母の家の懐かしさと分かちがたく結びついています。

 祖母は毎日新鮮な卵をゆでてくれましたが、これは当時としてはとても贅沢な事でした。私が家の前で、石に腰掛けゆっくりとゆで卵の皮を剥いていると、匂いと、私のいかにもおいしそうに食べている様子に引かれて近所の子が集まってきます。

“おいしい?”

“もちろんおいしいよ!”

私は、得意の絶頂です。

“ほんとに?どんな味なの?”みんな熱心に聴きます。

ところが味の描写は、当時四、五歳の私には難しすぎました。でも美味しいと自慢した手前、証明しなければなりません。仕方なく、気前いい振りをして少し割ってあげます。

“味見したら分かるよ!”その子は食べ終わると、おおげさに

“うん、ほんとにおいしいね!”といいます。

 二日目、私は例のとうり、みんなの前でゆで卵を食べ、みんなも私を取り巻いて“無邪気”に聞きます。“どんな味?”・・・・・・・・・以下同文。これが毎日続きました。

 祖母は、いつも私のそばで笑いながら見ていましたが、時には

“お前はお馬鹿さんだね!”といいました。今考えると、確かに私は“お馬鹿さん”だったようです。



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    大田和美さん、おめでとうございます。

 政治家は、選ばれてからが本当の勝負だと思います。若さにはエネルギーがあります。各方面の経験と知恵を取り入れ、有権者の期待を裏切ることなく、がんばって下さい。

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2006/04/21

8.おばあちゃんとにわとり

父は退役後、直ぐにある工場の警備関連の仕事に就きました。父の気持ちとしては、余り満足のいくものではなかったようでしたが、なんと言っても国営企業です。給料はあまりよくなかったのですが、工場の収益に関係なく、安定した収入が保証されていた点に魅力を感じていたようでした。

 父も母もとても忙しくなり、私の世話まで手が回らなくなって、私だけまた祖母の家で暮らす事になりました。

 祖母は社会に出て働いた事はありませんでした。しかし、七人の子供を育て上げる一方、夫の世話をし、両家の年寄りの面倒も見なければならず、休むまもなく働き続けました。その中で、孫娘の世話をするのは、祖母にとっては息抜きできる楽しいひと時だったのでしょう、とても私を可愛がってくれました。

 祖母の家で過ごした日々は、楽しい思い出でいっぱいです。祖母はとても温和な人で、他人に対して怒ったのをみた事がありません。私が機嫌悪い時は、何かかにか私の好物を出してなだめてくれました。

 でもその頃は、食べ物は少なく、配給制だったので、たとえお金があったとしても欲しいものが手に入らなかったのです。祖母自身の身体も弱く、真っ先に栄養を取る必要があったのに、いつも“目の中に入れても痛くない”孫娘の私のことを最優先に考えてくれました。

 

 国が貧乏で、国民の生活まで手が回らないなら、“自力更生、豊衣足食”、自分達で何とかするしかありません。祖母はアパートに住んでいましたが、台所の一角に、十数羽の鶏を飼っていました。雄鶏は大きく育てて、お正月のご馳走になりますし、雌鳥は毎日卵を産んでくれます。

 夜が明けると、雄鶏は競い合うように甲高い声で時を告げます。雌鳥も負けじとククッ、ククッと鳴きます。まるで音楽会のようです。

毎日同じ頃夢の中から呼び戻されますが、寝返りを打ち又中断された夢の中に戻っていくのもまた心地よいものでした。大きなベッドには、年の近いおじさんおばさんも一緒に寝ていてみんなも、鶏の声で一斉に目を覚まします。それに連れ、ベッドが上に下に、まるで鶏の合唱に合わせているように揺れるのです。そのたゆたいのなかにいると、親しい人たちに囲まれているという安心感が沸いてきて、私はまた夢の中に戻っていきました。


 今でも時々、その時のなんともいえないぬくもりを思い出します。同じベッドに45人一緒に寝る事も無くなったし、気心を知り尽くした者同士、同じ時、同じようなことをして、同じような気持ちを共有する機会が、それ以後ほとんどなくなったせいかもしれません。

                 ( 続く)

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2006/04/17

7.張作霖のお屋敷  続

 とはいっても、私達が住む事になった部屋は、当然張作霖が使用したものではなく、彼の部下が使用していたものでした。それでも、父にとっては、ずっと自慢の種でした。

“僕が今住んでいるところは、張作霖が東北地方に駐屯していた時住んでいた所なんだ。”と会う人毎に言いました。まるで、あの有名な張作霖に自分自身がなったような気分だったと思います。

 しかし、私が思い出す限り、張作霖の住居はひどくみすぼらしいものでした。何枚かの板を張り合わせて作ったドアは、深緑色に塗られ、板と板の隙間は、母が新聞紙を張り合わせてふさいでいましたが、晩秋の冷たい隙間風は、容赦なく吹き込んできました。

木製のドアを開けると、深緑のペンキが塗られたベニヤ板が置かれているだけのオンドルが部屋の四分の三を占めています。このオンドルはとても広くて長く、上には優に十数人の兵士が楽に寝れたと思います。部屋の床は、土間になっていて、雨でも降った日には外から帰って来ると、垂れる水でどろどろになります。私は、何度もこの上で滑って、泥だらけになりました。

 母はそんな土間の上に大事な家具を置かずに、たんすなどは、皆オンドルの上においていました。そんなわけで私達家族の生活空間は、このダンスでも踊れるくらい広いオンドルの上でした。

 東北地方の寒さは、耳が凍って落ちてしまうくらい厳しいものです。父は退役後もずっと軍用のオーバーに、耳あてのある軍用帽子に、重たいけれど厚い内綿付きの軍用靴を愛用していました。軍用品は一般の民需品に比べ、性能が良く、保温性にも優れていたようです。母も、全身軍用品で固めていたので、一目見ただけで、軍関係者だとわかります。街では、珍しかったのですが、張家の敷地内では普通の光景でした。張家の住居に出入りし軍服を着ていることは、ここの住人にとってはとても誇らしい事だったのです。

 

 私が始めて覚えた字も自分の姓ではなく、“張”でした。

 私の家の向かいに住んでいた人は“張”さんで、私と同い年の男の子が居ました。この子は良く家に遊びにきましたし、父もとても可愛がっていました。ある日、張さんちの男の子が言いました。

“僕、字がかけるよ!”そう言うと、ひどくへたくそに“張”と書きます。男の子が帰った後、父は急に私を抱っこするといいました。

“パパもおまえに字を教えてやろう!”

 私は当然“李”という字を教えてくれるのかと思いました。自分の苗字を書く事から始めるのが字を覚える普通のやり方だったのに、父が書き辛い“張”から始めたのでちょっと面食らいました。父は大真面目に言いました。

“お前に、張作霖が住んだことのある住居に住んだことを忘れて欲しくないんだよ”

 今では当時の、父の気持ちが良く解ります。張作霖は軍人であった父の理想だったのでしょう。

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2006/04/14

7.張作霖のお屋敷

楽しかった軍隊での生活も瞬く間に終わってしまいました。あるおだやかな朝、母は重い荷物を抱え、部隊の宿舎を出ました。

それから間も無く、父が退役するという連絡がありました。母はうれしくてたまらないようでした。

“パパがもうじき帰ってくるのよ。もうパパと離れ離れの生活をしなくていいのよ!”

このニュースを聞いても、私は戸惑いこそすれ、ちっとも嬉しくありませんでした。

私は、生まれて以来、あの半年の軍隊生活を除けば、ずっとおばあちゃん子でした。祖母に抱っこされ、祖母に添い寝してもらって眠りに入る毎日だったので、父が帰ってきてこれらの生活がガラッと変わってしまうなんて考えただけで不安になりました。

父がついに帰ってきました。

秋も深まったある日、母の手作りの、真っ赤な地に、ピンクの小さな花柄模様のある綿入れを着て、父を迎えに駅に行きました。駅は、寝具からなべ釜まで背負った出稼ぎの人たちでごった返していて、小さな私は、ともすれば弾き飛ばされそうになります。

急に母が手を挙げ大声で叫びました。

“ここよ、ここに居るわよ!”


父が出稼ぎの人と同じように大きな荷物を担ぎ、私達の方へ大またで急いで歩いてくるのが見えました。この時私には、何人もの兵士を引き連れオートバイで迎えに来てくれた初めてあった時のかっこいい父の姿が浮かんできました。でもあの時の父と、今、目の前に居る父はどこか違います。同じ軍服を着ているのですが、良く見ると、帽子のあのキラキラ輝いていた赤い星がありません。星の跡が付いているだけです。肩章も無くなっていて、たくましい肩がなんだか寂しげです。

父は大きな両手で、以前と同じように私を引き寄せ

“パパだよ!早くパパって呼んでくれ!”といいますが、私には、軍人だった父と、今の父が何だか違う人のような気がして、どうしてもパパと呼べませんでした。

父が居ない時期、私と母は、母方の祖母の家に住んでいましたが、父が退役後、家が見つかるまで、臨時に軍人宿舎に住むことになりました。父はこの住居を後々までとても誇らしく思っていたようです。これは並みの宿舎ではなくて、張作霖が東北地方に駐屯していた時、住んでいた、由緒在る宿営地だという事でした。

                                                 (  続く )

  追記  題名は浩さんの原文では “張作霖的大院” となっています。はじめ大院を旧居と訳したのですが、屋敷の方がより適切な気がしたので修正しました。

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2006/04/10

花をたくさん咲かせるには 続

前回では、花をたくさん咲かせる、プロの技を紹介したが、今回は少し視点を変えて、早く咲かす技について述べてみたい。

ここ数日桜の花も、がくの赤みが目立ってきて何かとあわただしかった花見の季節も、東京ではそろそろピークを越え、園芸好きにとっての次のステップが始まる。樹木の剪定作業の開始だ。梅は少し遅れたな、百日紅はこれ以上遅くなっては手遅れになる、梅は小枝の選定だけにとどめよう・・・。園芸も深みにはまると、花を愛でる時間より、義務の作業ばかり増えてしまう。といって、息子の言うように根元から切ってさっぱりする気にはならないし、本職に任せる気もしない。これがマニアというものなんだろう。

剪定初心者のころは、切った枝をそのまま捨てるにしのびず、その多くを挿し木にしてみた。連翹、沈丁花、芙蓉、百日紅など、面白いように根を出し幼木に育った。梅、桃も何本か育った。しかし、この私の一見“人道的”処置は、私に更なる苦悩をもたらした。(自分の庭の狭さを自覚していなかった!)ご近所の人も、それなりに一家言ある園芸好きである。ありふれた花木なぞにはあまり興味を示してくれない。お付き合いに幾つか引き取ってくれるだけだ。人の良いお隣さんの庭の何割かは、気の毒に我が家の植物の植民地になってしまった。それでも残った苗は、捨てるわけにもいかずプランターの中で盆栽化する運命にある。

そんな中で、八重の白い桃だけは、次の年の挿し木の予約まで来てしまうほど人気があった。我が家の周辺の家々には、この木の子供がすくすくと育って、きれいな花を咲かせている。

桃に限らないが、挿し木苗の花付きは早い。桃の場合は、花が咲き終わった枝を挿すと、次の年から咲き出す。20センチぐらいの小木に直径4センチぐらいの花がいくつも付く。頑張りすぎである。でも花が付いていると皆安心して直ぐもらわれていく。

それに対し、親木の下に実生(種からの)苗が何本か生えているが、これには一向に花が付かない。56年経っただろうか、忘れていたら昨年、数輪の花が咲いた、早速兄のところにもらわれていった。今年は、かなりたくさん花をつけたという。

挿し木苗と実生苗、庭で鑑賞する分には、花の咲く早さで、挿し木苗に軍配が上がりそうである。事実、現在一般に出回っている樹木の苗は殆んどといっていいほど挿し木、または接木苗であるという。

しかしこれが森林の構成樹となった場合どうであろうか。商業目的がはっきりしている樹木の場合は、果樹、庭園木と同様な理由で許容できる。しかし十年、百年、場合によっては千年の単位で生き続け、自然環境を守ってくれる役目を、挿し木苗(クローン)が担えるであろうか。

予知不可能な自然に種の多様性で対応して、生命は生存を維持してきた。目先の効率や、利害でクローンに頼りすぎるのは、非常に危険だと思われる。人間はあくまで自然の一部分だという事を忘れたくない。クローンは用途をはっきり限定し、長期的自然保護の観点からは、実生苗を利用した方がいいのではないだろうか。

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2006/04/07

花をたくさん咲かせるには

園芸好きは一般的に、花をたくさん咲かせたがる。そもそも花を見たいから、育てている場合が多い。私もご多分に漏れず、花が咲かなかったり、少なかったりするとがっかりする。どうしたら、たくさんの花を咲かせられるか、自分なりに工夫して、色々試みる。

 シンビジュウム(洋蘭の一種)の時もそうだった。蘭がスクスク生長しやすいように、買ってきたとき入っていた、窮屈そうな小さ目の鉢から、根を自由に張れる様な大きな鉢に移した。葉はすくすくと伸び株も増えたが、花芽は出なかった。がっかりして、先輩に学ぼうと、色々展覧会などに行ってみると、植物本体に比べて鉢はかなり小さく、窮屈そうで、根もはみ出さんばかりなのに、花は見事に咲いている。その後、色々ハウツー本を読んだりしているうちに、意外な事実を知った。

 花は、植物の生長が一段落したり、何らかの生長阻害要因に直面した時に、次代に生存をバトンタッチするために咲くらしい。花を咲かせ、種子を作り、もっと条件のいいところでの種としての生存を模索しているのだ。 そこで経験豊かな園芸家は、意図的に窮屈な鉢に植える事により個体の生長を諦めさせ、花の開花を促しているわけだ。

 これと極めて似た事を、日本では現在、国を挙げて森林で行っているように見える。狭い場所に、過剰な杉がひしめいている。植林段階では、間伐により適度に調整されるのを前提にして、植えられている。それが、経済的に採算が合わないという、人間の勝手な理由で放置されているため、きわめて過密な、生存しにくい状況に放置され、杉は悲鳴を上げているのだろう。過剰に花を咲かせ、次代に夢をかけているのだろう。

ところが、洋蘭の場合は歓迎される花つきの良さが、杉の場合は花粉症の元凶として怨嗟の的である。

 人間は、本当に自分勝手である。杉の花つきをよくする条件を用意したのは人間なのだから、花を減らしたいなら、それなりの施策をすればいいのである。杉の個体の生長条件を改善してあげればいいのだ。一番手っ取り早くて、実現可能なことは、間伐だと思われる。そこで以下の事を提案したい。

 

 花粉症に悩みたくない人は、1年のうち数日、間伐に参加する。

 参加できない人は、お金、知恵、道具等を提供する。

以上を実行したら、来年の春の花粉症はかなり軽減できると思うのですが・・・。

 (この文章は、44日のTVの報道番組を見て触発されて書きました)

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2006/04/03

桜あれこれ

時は春、花は桜、桜はソメイヨシノ・・・。

都心に少し遅れて、東京郊外の丘陵地にある我が家の周辺は今正に満開を迎えている。薄紅色の雲のように、街路の両側を、小中学校の校庭を、団地の外回りを包み込み、日本の春を実感させてくれる。今日みたいに風も無く暖かな日は、ブログを書いている時間がもったいないくらいそわそわしてしまう。しかし友人との約束の時間は、昼なのでそれまで、桜に関しての私の思いを書いてみたい。

 駅前商店街に行く途中に、知る人ぞ知る、桜の名所があり、2月ぐらいから、つぼみの状態が気になりだす。今年は寒かったせいかつぼみは固く開花も遅れるのではないかと予想していた。それが急に暖かくなり、つぼみの先がほのかに薄紅がかってから開花までは、意外と早かった。そして今正に満開になり、春の到来をしみじみと実感させてくれる。

 それに続く桜吹雪、地面が薄雪に覆われたようになる時期も味わい深い。

 数年前になるが、この時期友人が、香りの良い桜を見つけたと、一枝もって来てくれた事があった。たしかに、顔を近付けると、ほのかに上品な香りがする。これが私と大島桜の始めての出会いだった。

 それまでも、公園などで目にしていたのだろうけれど、意識した事は無かった。花びらは純白で、全体に、ソメイヨシノより一回り大きい。花が咲く頃、葉も展開し始めるので、爽やかな緑とあいまって清楚さが際立つ。伊豆大島周辺が自生地という事なので、全国的知名度は低いのかもしれないが、ソメイヨシノのお母さん(お父さん?)といえば、知る人もいるだろう。ソメイヨシノが佳人薄命を地で行って、華やかに、短命な生涯を運命付けられているのに対し、大島桜はたくましい。

 母種として多くの種類の里桜を生み出し、接ぎ木の際には台木となり子供達を支え続けている。

 

 又桜餅の葉っぱが大島桜だとつい最近知った。あのほのかな香りが、花からも発せられるのだろうか。見てよし、嗅いで良し、食べてよし、そして生長も良く、以前は薪炭材に用いられたという。

Doumyouji  桜餅といえば、関西と関東では違うというのを、きのうTVを見Sakuramoti ていて初めて知った。今まで道明寺という名前のお菓子と思っていたものが関西風の桜餅で、私が桜餅と思っていたものは、関東でしか通用しないらしい。所変われば品変わるというが、人間いくつになっても新しい発見があるものだ。

追記

 昼頃から強風に変わり、花見どころではなくなった。大島桜は房ごとちぎられ、かなりの数、地面に落下してきた。普段は、高いこずえを仰ぎ見ていたのだが、手にとってしみじみ見る事ができた。手のひらの中で、ひときわ美しく感じられた。

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