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2006/06/30

14.爆竹遊び

お正月のご馳走を食べ終わると、男の人はタバコを吸いながら、恒例のマージャンを始めます。女の人は、炒ったカボチャやスイカの種子をかじりながら、テレビに出ている人気歌手やタレントのゴシップの情報交換に盛り上がります。しばらくすると、部屋の中はタバコの煙が充満し、マージャンパイを混ぜる音、言い争う声、笑い声が混ざり合いこれこそ春節といえるにぎやかな雰囲気に包まれます。

 子供達は、春節前から準備しておいた爆竹を持って、外に飛び出します。言い伝えによると大晦日の夜12時に“財神爺 (福の神) ”が空から降りてくるので、皆で揃ってお迎えし、手厚くもてなさなければいけないのです。もう10時を回っていたのですが、子供も起きていなくてはいけないので、この日ばかりは、遅くまで外で遊んでもいいのでした。

 この日、私は“永生”という名の男の子とずっと一緒に遊んでいました。その子は、親族の関係からは私のおじに当たるため、中国的にはおじさんと呼ばねばならなかったのですが、実際には私より一歳年下でした。そのため私はどうしてもおじさんと呼べなくて永生と呼んでいましたが、そのうち周囲も認めてくれるようになりました。

 永生は爆竹遊びの名人でした。お店から買ってきた爆竹の束を一つ一つばらばらにしてビニール袋に詰めて持っていましたが、私にも分けてくれて遊び方も色々教えてくれました。様々に改良して、時には皆のどぎもを抜くような事をやってくれます。雪の上に爆竹を固定し火をつけた瞬間、卵の殻でふたをすると、殻が四方八方に飛び散ります。気の小さな私は頭を抱えて“わぁー”と叫んで逃げようとした弾みに、足元の雪の凍ったでこぼこ道に足をとられ派手に転んでしまいました。永生はそれを見ておなかを抱えて大笑いするのです。

 永生の奇抜な遊び方にたくさんの男の子達が引き付けられて寄ってきました。皆競ってより危険な遊び方を考え出します。爆竹にコップをかぶせてパチパチはじける火花を見たり、屋根の上に打ち上げたり、壁に命中させたり、遠くに飛ばしたりやりたい放題です。終いには、手の平の上で破裂させたりし出します。私はこわごわ皆の後ろから覗いていました。 (中国では毎年爆竹遊びによるけが人が大勢出るそうです)

 私達が夢中で遊んでいるうちに、だんだん爆竹の音もまばらになり、外で遊んでいる子供達も少なくなりました。家々の台所の窓が開けられ、大きな爆竹の束が外にぶら下げられます。財神を迎える準備が整ったようです。永生は未だ遊びに夢中でしたが、私はそろそろ飽きてきたので家に戻りました。

                                            ( 続く)

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2006/06/26

13.お正月料理  続

お正月料理として餃子の外に、忘れてはならないのが魚を用いた料理です。“魚yu”の発音と“余yu”の発音が同じためです。余とは余裕であり、富裕です。人々は、新しい年がより豊かで、衣食住が満ち足りるだけでなく、更に蓄えもできる事を願います。

魚の中でも特に鯉が喜ばれますが、それにはいくつかの理由があります。私の故郷は海から遠く離れているのですが、松花江という大河が町の中心を流れていて、鯉がたくさん取れます。また鯉は逆流を力強く遡上し、将来は龍に成るという言い伝えがあり、私の故郷では出世の象徴とされていました。

正月の鯉料理は、とても手の込んだものでした。きれいに洗われ下ごしらいされた後、白い大皿におかれ、全体に念入りに飾り包丁が入れられます。なべに並々と入れられた油が十分に熱せられた頃あいを見計らって、シッポから持ち上げそっとなべに滑り込ませます。この時油と水が合わさり激しい炸裂音がすると共に、飾り包丁の切れ込みがみごとに開きますが、これを何回かひっくり返したあと取り出します。次に別に用意されたお鍋に油を少々熱して、ねぎ、生姜、にんにく、胡椒、八角ウイキョウ等々に砂糖、醤油、酢、酒を加えて炒め、更に湯を加え鯉を入れて30分前後煮込みます。なべの中の水分がなくなる頃魚を取り出し、白磁の皿に載せ香菜のみじん切りを散らすと、出来上がりです。

お正月料理はこのほかにも、各家々には自慢料理があり、テーブルいっぱい様々の工夫を凝らしたご馳走が並びました。中でも心がけられたのは、充分な量を用意する事でした。おなかいっぱい食べても未だ余るくらいが適当とされました。当時、毎日が節約窮乏生活だったので、正月だけは特別に贅沢が許されたのです。

湯気の立つ熱々の餃子が運ばれ、ビールが注がれます。

突然テレビから“パンパンパンと爆竹の音が響き“春節聯歓晩会の輝く文字が現れると、一瞬部屋の中が静まります。五十六種類の美しい民族服に包まれた出演者が、軽やかに華やかに歌い踊ります。それに続き五色の紙ふぶきが舞い。多彩な紙テープが飛び交い、テレビの中と外で期せずして拍手が沸き起こります。

春節聯歓晩会が始まりました。みんなで乾杯です。“あけましておめでとう!”

 一杯のビールが忙しかった大晦日の緊張を一気に解き放ってくれます。一方、子供達は、硬貨餃子とキャンデー餃子に当たるよう念じつつ餃子を食べ始めます。

そんな中、目はテレビを追っているのですが、箸を一時も休めることなく餃子を食べている親戚のお兄さんがいました。一口一個の割合でがつがつと食べまくっています。

 “いたッ!”突然叫ぶと、あごの辺りを押さえてうずくまってしまいました。

 “どうした?”皆心配して集まってきます。そのお兄さんの顔は真っ赤になっていて、しばらくしてやっと身を起こし、椅子に座りしかめつらしてため息をつきました。皆が見守る中、おもむろに口からピカピカの硬貨をつまみ出しました。どうやら硬貨がお兄さんの虫歯を直撃したようでした。皆大笑いです。

“おめでとう!やったね!君が硬貨に当たった一号だから、今年大もうけできるのは決まりだね!金持ちになってもみんなの事忘れないでくれよ!”

お兄さんは依然痛くてヒイーヒー言っていましたが、機嫌よさそうに大笑いしました。今年の幸運をいささかでも傷つけたくなかったのでしょう。

夕飯が済むと、お兄さんはその幸運の硬貨をきれいに洗って、丁寧に鏡に貼り付けました。こうすると、見た目では硬貨が二枚に見えます。したがって、やってくる幸運が二倍になるといわれているからです。

そのため春節が過ぎた頃、鏡には幾つかの硬貨が貼り付けられています。たいてい正月が終わると取り去るのですが、翌年の春節が近づいても未練がましく、張りつけたままにしている人もいました。

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2006/06/24

13.お正月料理

お正月料理といえば、日本では元旦に食べ始めるようですが、中国での春節は旧暦のため、月の運行が基本になっていて、大晦日の日没が新年の始まりになります。また一口に中国といっても、各地方ごとに様々な特徴がありますが、私の故郷、東北地方では餃子が代表的なものでした。


 子供達がお年玉狂騒曲に浮かれている一方で、大人たちは着々と餃子作りの準備を進めます。市場で買った豚肉の大きな塊はまな板の上に置かれ、まず細切れにして、次に包丁を小刻みに10分程度動かしひき肉状態にします。


 私は、6歳頃から、このひき肉作りを手伝いました。中国の肉きり包丁は大きくて重いので、いい大人でも10数分も肉を切ると、肩が痛くなったと愚痴をこぼします。まして6歳の私にとって、初めのうちは体罰のように感じられました。しかし両手で包丁を少し持ち上げ、後は包丁の重力に任せて降ろせば力は半分で済みます。この発見が、以後の餃子作りの全工程を学ぶ意欲を支えてくれました。

話を大晦日に戻します。我が家で包丁がひき肉作りに大活躍している頃、ご近所も同様で、その時間帯はアパート全体に“トントン、トントン”という軽快な音が響き渡ります。その音を聞いているだけで私はおいしい餃子が目に浮かび、お手伝いも楽しくなりました。

東北地方の冬の寒さは格別です。青菜は生産も、運搬も困難です。まれに市場にお目見えした高価な青菜を手に入れたとしても、家に帰るほんの数分の内に、その新鮮で柔らかな青菜は急速冷凍状態になるため、冬の餃子の具は、白菜と豚肉、酸菜と豚肉、大根と蝦が良く使われます。私は中でも“酸菜と豚肉”餃子が大好きです。

中国の餃子は、家毎に独特の味があります。もっと正確に言うと、作る人毎に味が微妙に変わります。

我が家では皆が、酸菜と豚肉を細かく刻んでいる間に、祖母が皮を作ってくれます。この皮の柔らかさ加減が、餃子のおいしさの決め手ともいえます。大きなお盆に置かれた、祖母の作った餃子の皮の生地は、白くて丸っぽくて、触ると滑らかでふわふわしていて、私には赤ちゃんのおしりそっくりに思えました。

餃子の皮と具の準備が済むと、餃子を包む工程に入ります。

年越しの餃子は願い事を一緒に包み込む点がいつもの餃子との大きな違いです。餃子の形は富を象徴する金元宝の形に似せて造りますし、中身にもみんなの夢をこめます。


1:餃子の中に硬貨を入れる。当然、硬貨は年末に銀行で新しいのに交換し、祖父のアルコール度の高い白酒で消毒しておきます。数百個作る餃子の中に56個しか入れないし、外からはどの餃子の中に入れたか絶対分からないように包むので、もしこの幸運の餃子にあたった人は、新しい年に、大金持ちになれるというのです。

2:餃子の中に、キャンデーを入れる。当然数個に入れるだけです。このキャンデー餃子に当たった人は、新しい年は毎日、甘い幸せな日々を過ごせるといわれていました。               ( 続く)


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W杯日本ブラジル戦から一夜明け、寝不足も解消しすっきりした頭で考えてみました。前半戦、数々の川口の好セーブ、そして玉田の会心の一撃。私達の待ち望んでいた試合展開でした。後半はさすがサッカー王国ブラジルの真骨頂が遺憾なく発揮され、絶妙なパスさばき、豪快なシュートの連続と目を見張るばかりでした。

終わって感じたのは、爽やかな疲労感とサッカーの面白さでした。

今後もブラジルチームの活躍を見守りたいと思いますし、帰国を余儀なくされる日本選手には心からご苦労様といいたいと思います。

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2006/06/19

12.お年玉  続

しかし、私はどうしてもひざまずけませんでした。こんなお辞儀を以前した事が無かったし、そんなことしなくても、祖父は私にお年玉をくれるに違いないという気がしていたのです。

それなのに、祖父はゆっくりとお年玉をしまい、とても残念そうに大きな声で言うのです。

“このお年玉をあげる人を他で探すとしよう”


私はそれでも、なすすべもなく今にも泣き出しそうになりながら、そこに突っ立っていました。祖母がやってきました。おばさん達もやってきました。みんなで私が祖父の“皇帝ごっこ”に付き合ってあげるようなだめすかします。私もとうとう頭を下げ、祖父も跪かすのはあきらめ、最後のお年玉は無事私のものになりました。

祖父からのお年玉は20元でした。当時母の月給は60元前後でしたから、大変な金額です。今は、祖父がなぜあんなにもったいぶったのか判るような気がします。

滞りなく祖父の“お年玉”下賜の儀が終わると、いつもどおり三人のおばと三人のおじがお年玉をくれます。大体5元前後でした。それに続いてお正月の時だけ顔を出す遠方の親戚とかもそれぞれ“みんなの前では開けないんだよ”といいながら、そっとお年玉を渡してくれます。

 お年玉は、実は結構厳しい経済戦争なのでした。

子供達は、誰からお年玉をもらっても、そのまま両親に手渡す事になっていましたし、両親は、しっかりと金額を確認し、相手方にも子供がいる場合はもらった額に上乗せして返礼しなければなりません。もし20元もらったら、25元か30元の返礼をしなければならないわけです。そのため賢明な大人たちはいかに先にお年玉を上げるかに腐心します。出費を少しでも減らすためです。


 もちろん、大人の間の熾烈な競争など子供達は知りません。いつもはお金など縁が無いのに、この日ばかりは、大人がみんな競ってお金をくれるので、私も嬉しくて天にも昇る心地でした。

 しかし、子供達がいかに泣き叫んでお年玉の所有権を主張しても、最終的には大人に巻き上げられるのでした。

“あなたは未だ小さいから、ママが預かってあげるわ。何か買いたいものができた時に渡してあげるから。いいでしょう!”


 このようにして、毎年、母の甘言につられ、私の大事な、採りたての獲物は巻き上げられてしまいました。今思うに、お年玉は、子供を仲立ちとした大人の社交儀礼だったような気がします。

とはいえ、当時の子供達にとって、お年玉はお正月の最大イベントだったことには変わりありませんでした。


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2006/06/16

12.お年玉

冬の中国東北地方は4時前後ともなると薄暗くなり、街灯が灯ります。普段なら仕事帰りの人で混雑しているのですが、大晦日のこの時間帯は、とても静かになります。商店も早々と店じまいをし、一月も前から飾ってあった新年の提灯だけが明々と輝いています。

贈り物の箱を持って、北風に抗してそそくさと行きかう通行人や、待ちきれずに早々と爆竹を鳴らしている子供が目に付くぐらいです。

一方、家の中は明々としていて、狭い部屋の中で、肩がぶつからないように、横歩きしながらみんな大忙しです。時々楽しげな笑い声が外に聞こえてきます。

私達の新年は、お年玉で始まります。

毎年のお年玉の配分は、祖父の仕事でした。新年には、普段は会うことの無い遠方の親戚も子供をつれてやってくるので、小さな子供だけでも78人はいたでしょう。祖父はまず人数分だけ、赤い紙でお年玉を包みます。

ある年、待ちかねている私達の前に、パンパンに膨らませたポケットをたたきながら祖父が現れました。私達は固まって身じろぎもせずに祖父の動きを目で追います。

祖父は、後ろ手に組み、口をへの字に結び、大またで私達の前を重々しく一周します。

私は祖父の目に付くように、みんなを掻き分けて前のほうに出ました。


“準備完了。さあ!みんなわしの前にひざまずいて新年の挨拶をするのじゃぞー”祖父はことさら語尾を延ばしました。

“ひざまずく?”私達はみんなあっけにとられました。それは昔の習俗で、テレビの中で見たことがあるだけです。みんな首を横に振りました。

“ひざまずいたものにしかお年玉はやらんぞー!”祖父は一寸おどけた表情でお年玉を見せびらかします。誰も動きません。祖父はお年玉の包みを又ポケットにしまってしまいました。


一人の子が前に出ると、しぶしぶと祖父の足元に跪き、やっと自分しか聞き取れないような小さな声で“あけましておめでとうございます”とつぶやきました。

祖父は、“よしよし、そちにお年玉を使わそう”と上機嫌です。

それにつられ何人かの子供達が前に進み、ひざまずき、新年の挨拶をします。祖父はますますご機嫌です。残りの子供達も、みんな同じようにひざまずき、お年玉を受け取ると、部屋から駆け出して行きました。

とうとう私だけが、一人ぽつんと取り残されました。

“さあ、ひざまずいてお辞儀をすれば、この最後のお年玉はお前のものだよ”

                                                                 ( 続く)

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2006/06/12

キスゲとカンゾウ  続

新潟港から連絡船で佐渡に渡った。行きはジェットフォイルに乗り、約1時間で到着。帰りはカーフェリーで2時間半。その差、1時間半のお値段3000円余。正に時は金なりで分かりやすい。忙しい人、船酔いが心配な人には朗報だろう。ただ私みたいに時間に関してわずらう事の無い人間にとっては、乗船中安全のためずっとシートベルト着用のジェットフォイルより、自由に船内が歩き回れ、甲板に出たり、カモメに餌を上げたりできるカーフェリーのほうが楽しかった。

翌日朝のうちは良く晴れていて、空も青く、日本海の少し暗い海面の色とのコントラストを楽しみつつ島の北部の大野亀を目指した。

のどかな車窓の風景にうとうとしかけていたら、海岸の岩にへばりつくように咲いている橙色の花が岩ユリとの説明があり、いっぺんに体中しゃきっとした。園芸種のスカシユリの母種だ。大波が来たら、さらわれそうなごつごつした岩肌に必死にしがみつき鮮やかな大輪の花を咲かせている。

Kisuge それからしばらくして、目的地に着いた。切り立った岩壁に接した、なだらかな起伏の台地一面があのニッコウキスゲを思わせるやさしい黄色の花で覆われていた。荒々しい海を背景に、のびのびと目の覚めるような黄色の世界が広がっていた。未だ4分咲きということなので、これが満開になったら本当に黄色のカーペットに覆われたようになるのだろう。海沿いの遊歩道に沿って歩いているうちに、空がにわかに掻き曇り、寒いくらいに冷えてきたかと思うと雨がぱらついてきた。本降りになる前にあわてて引き上げた。外海に面した土地の気候の変化は厳しい。黄花カンゾウはたくましくこの地に適応してきたのだろう。一株に付く花数もキスゲ属の中では多いようだ。もう一度満開のとき、青空をバックにゆっくりと見てみたいと思った。

それにしても何故、このキスゲを黄花カンゾウと名づけたのだろう。系統的には佐渡キスゲとしたほうが、日光キスゲや武蔵野キスゲとの関連からふさわしいのではないか。ついでに言わせてもらえば、北海道に見られる蝦夷カンゾウも蝦夷キスゲのほうが分かりやすい。

そもそもカンゾウ(萱草)は、先史時代中国から渡来したという。今でも中国では蕾の干したものが金針菜として日常的に食べられているし、不眠症の薬としても用いられている。花は詩にも読まれ、古来から好まれてきたようだ。

日本には、稲作文化がもたらされた頃、渡来人と共にやってきて、在来種のキスゲが温暖化により高山や北国へ後退した空白地に大いに広がっていったようだ。


身近では、野カンゾウと藪カンゾウが見られるが、藪カンゾウなどは八重咲きでとても野生種とは思えない華麗さだ。その昔渡来人が故郷を後にする時、それまで大切にしていた花を携えて異国の地に渡ってきて、身の回りに植えて望郷の念を慰めていたのかもしれない。何はともあれ、藪カンゾウにとって、日本はとても住み心地が良かったのだと思う。気候は穏やかで、新しく開墾された農地が広がり、人々も大切にしてくれた。

藪カンゾウは雄しべ、雌しべが花弁化した、いわゆる八重咲きのため種子ができない。株分けで増えていくため川や海を自力で渡る事ができない。今では日本全国、いたるところで普通に見る事ができる事実からも、いかに日本人の生活に溶け込んでいたか、うかがい知る事ができる。

しかし、都市化の波は容赦ない。最近は郊外でも余り大切に扱われていないように見える。私の知る限り、雑草扱いである。近所の里山でも、年数回刈り込まれるのでついぞ花の咲いたのを見た事がない。川の土手に群生していても、ススキなどと同様、容赦の無い刈り込み対象となっている。せめて花が咲き終わってから刈り込んで欲しいとひそかに願っている。

特に野カンゾウを近頃あまり見かけなくなった。メダカのように、ある日レッドデータブックに登録された・・・、みたいにならない事を願う。何と言っても日本の稲作文明をずっと私達祖先と共に歩んできた花なのだから。

注  キスゲ(黄菅)は、花が黄色で葉がスゲ()の仲間に似ている事による。

   中国名、カンゾウ(萱草)の萱は忘れるという意味の諼と発音が同じであり諼草とも書かれる。漢方薬では抗鬱薬として用いられ、憂いを忘れさせてくれる花とされたようだ。親しい人と離れている寂しさを忘れたい気持ちが託されて古来詩歌のなかで多用されている。


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今日夜の、W杯日本オーストラリア戦、今からどきどきします。

勝敗は時の運。選手の皆さんも、応援する私達も、悔いの残らない一戦にしたいですね。

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2006/06/09

キスゲとカンゾウ

先日、佐渡の黄花カンゾウを見てきた。数年らい、ユリ科キスゲ(忘れ草)属の花に惹かれ、追っかけを続けている。以前長野で、ビーナスラインを走る車窓からあたり一面を埋め尽くすニッコウキスゲを見たときは圧倒された。自然状態でこんなに同じ種類の花が群生しているのを見たのは初めてだった。子供のころ、遊園地でパンジーやサルビアの群植になれていたので、自然状態の群生は、私の頭の中の既成観念を解き放ってくれたのかもしれない。本物の自然は、人工物より美しい。都会に長く住んでいると、ともすれば忘れてしまいがちだ。

ビーナスライン、霧ケ峰、車山・・・一面に惜しげもなく咲き競う柔らかな黄色の花、花、花・・・。しばし青空を見ながら花の中で寝そべってみたくなる。アリスみたいに不思議の国の冒険に出かけられるかもしれない。

身近に見られる武蔵野キスゲは、東京の郊外の一角に取り残されてしまったともいえる、キスゲの仲間だが、里山の一隅にひっそりと咲き、どこか寂しげだ。かって地球がもっと涼しかった頃、武蔵野にも群生していたであろう仲間達を思い出しているのかもしれない。

佐渡でキスゲの仲間、黄花カンゾウが見ごろを迎えるというニュースを知るや、Kiri_1 さっそく車上の人となった。日本横断のちょっとした旅である。

関越道を延々と走る。山間部に差し掛かった頃、車窓から、白い花房をたわわに付けた木が目立ってきた。ハリエンジュ(ニセアカシヤ)だった。多摩川をサイクリングしているとよく川原に純林を形成していて、そのとても良い香りに、初夏の訪れを知らされていた。今年は、風邪をこじらして戸外を歩く機会が少なかったので、いつの間にかその季節をやり過ごしていた。山の中で遅まきながらハリエンジュの花の盛りに出会う事ができた。花といえば、桐の紫の花も農村風景に点在して美しかった。

Taniutugi_1 関越トンネルは“トンネルを抜けると雪国であった”の名文句を思い出させてくれる。確かに長いトンネルを抜けると気候と植生は変わるようだ。まず雪が、さして高くない山の沢筋に点々と残っているのには驚いた。そして谷ウツギが突如周辺の風景の主人公として登場してきた。谷あい、沢筋といわず林の隣縁いたるところに、優しいピンクの花を咲かせている。此花とは、帰り又関越トンネルに入るまでズート道連れになった。

新潟県にはいると、コンクリート補強された山肌がところどころで目に付いた。先の新潟中越地震の被災の爪痕らしい。魚沼、小地谷、長岡、・・・車窓からの風景は一見のどかな田園風景が続く。インフラの復旧はだいぶ進んでいるようだが、地方経済の疲弊の中、被災地の経済的復旧はどうなっているのだろうか。

                                                     ( 続く)

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2006/06/05

11.春節    続

 ついに待ちに待った大晦日がやってきます。朝早く起きると、お風呂屋さんに連れて行かれます。お風呂屋さんはそんなに広くないのに、この日は誰もが、きれいさっぱりとしたいので、超満員になります、その上いつもより念入りに洗うので、蛇口の前には長い列ができ、数十分待たねばなりませんでした。

 

 風呂で身体を清潔にした後、家に帰ると上から下まで、全部新調の衣服に着替えます。特に靴下は絶対に新しくないとダメなのでした。祖母によると、大晦日に、新しい靴下を履いて、しっかりと地面を踏みしめて歩き“小人 (日本の貧乏神に似ている) ”を踏み潰さなければならないのでした。東北地方では、目には見えないこの小人が人の内部で悪さをして不幸をもたらすと信じられていました。そんなわけで、新年にはみんな新しい履物を履き、気分一新を図りました。

 午後からは、続々とお客さんが押し寄せてきます。遠くの親戚も、祖母祖父の友人も来ますし、おじさん、おばさんの友達も皆何がしかの贈り物を持ってきます。

“新年おめでとうございます!”みんな口々に言いながら入ってくるので、ただでさえ広くない祖母の家は、芋の子洗い状態になります。

 当然祖母も、礼を尽くし、子供達にお年賀を持たせ、暗くなる前に、近隣への挨拶回りをします。この時間帯、各家々は本当ににぎやかです。これは当然その後何日も続きます。

 もしあなたが、この時期、家々には贈り物の山ができていると想像したら、それは門外漢です。通常、祖母はその日もらった贈り物は、直ぐに子供の目の届かないところで違う袋に入れ替え、他の家への贈り物にするのでした。結果として、春節の喧騒の後には、普通は何の贈り物も残っていないのでした。

 春節のお菓子の包装は本当に見事です。伝統的な図柄は次のようなものです。

  嫦娥奔月・・・嫦娥が衣をなびかせて、ウサギを抱えて月に飛んで行く。

  八仙過海・・・八人の仙人が各自の得意技を披露しながら、大海原を航海する。 (七福神の原型?)

  福星高照・・・寿星(福禄寿)が手に大きな桃を持ち、鶴や蓮や金元宝(中国古代の金貨)に囲まれて、にこやかに笑っている。

 しかし私の関心は、そのきれいな包装紙の中身に集中します。一度だけ、祖母がその箱を開けてくれた事がありました。丁寧に包装紙を開けると油がにじんだ、白い紙の箱が出てきます。その段階でお菓子のなんともいえない良い匂いがして直ぐに何人かが集まってきました。何本もの手で一斉に紙の箱を開けたのですが・・・・。皆シーンとしてしまいました。いかにも美しく作られたそのお菓子は、一瞬緑色に見えたのです。一面にアオカビが生えていたのでした。多分このお菓子は、この家に来るまでに随分長旅をしていたのでしょう。 

 みんながっかりしてその場を去りました。祖母はそのお菓子を一個つまんで、どこか未だ食べられるところが残ってないか丁寧に調べましたが、又そっと元へ戻します。

“やれやれ。さあ、お正月だよ!餃子を作ろうね!お正月のお菓子は、見てるだけ、食べる物じゃないよ!”

 祖母は声をはり上げます。

 さあ、私達の新年の始まりです!

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2006/06/02

11.春節 (浩さんの物語)

 中国での春節は日本のお正月に当たります。旧暦の11日なので、新暦では1月の終わりから2月にかけて、その年により変わります。

私が日本に来るまで、春節はいつも祖母の家で過ごしました。一口に春節といっても、幼い日の思い出と、大きくなってからの経験では外見も気持ちもずいぶんと変化しました。幼いころの春節は、私の記憶の中では一番大切な宝物です。時間は巻き戻しができませんし、失われた記憶は取り戻せませんが、それでも思い出すたびに幸せな気分になります。

 当時の私は一年中、春節を待ちわびていました。夏、近所の子が新しいスカートをはき、きれいなリボンをつけているのを見るとうらやましくて、もし今が春節なら私も同じような可愛らしいスカートをおねだりできるのにな、と思いました。秋に友達が門の前のいすに座り、大きなぶどうの房を見せびらかしながらおいしそうに食べているのを見ると、もし秋に春節があったなら、私も葡萄を食べられるのにと恨めしく思いました。

 このようにずっと待ちわびた末に、雪が降る季節が到来します。でも暦の最後をめくっても未だ春節は来てくれません。しかし町の中は、日を追ってにぎやかになります。雪の積もった道の両側には、爆竹や春聯売りがずらっと並び、鮮やかな紅が白い雪に映えて心の中まであったかにしてくれます。糖葫芦売りは色々な糖葫芦を、自転車の後ろの荷台の藁の束に突き刺し、路地裏を走り回ります。

  

 祖母は、私に新しい洋服を作ってくれます。

 おばさんは、わずかなお小遣いをやりくりして、写真屋さんで写真を撮ってくれます。

 祖父は、魚や、肉や、野菜の買出しに市場に連れていってくれます。

 1週間ぐらい前から祖母は、正月料理の準備を始めますが、中でも万頭、豆包作りはなかなか大変でした。万頭は毎年、百八十個前後蒸したと思います。当然その頃家に冷蔵庫はありませんでしたが、東北地方の冬は天然の冷凍庫のようなもので、屋外に二十分も出しておけば、カチカチに凍ってしまうのです。冷凍後、大きな袋に容れておき、お正月には毎日十数個取り出し又蒸して食べます。一つ一つの真っ白な万頭の上には紅い棗が載っていて、きれいだし、おいしいし、栄養もあるとの事でした。

                         ( 続く)

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