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2006/09/25

初秋の里山

 このところ朝夕めっきり涼しくなってきた。

“暑さ寒さも彼岸まで”この言葉が未だ形骸化してない事を喜びつつ近所の里山散策に出かけた。


Kinmokusei 農家の庭先からは懐かしい金木犀の香りが漂い、畔道や林縁のそこかしこに真紅の彼岸花が咲いている。日差しを穏やかに反射しながら、ススキの穂が時折吹きすぎる爽やかな風に揺れる。赤とんぼは棒先に止まり、モンシロチョウ、アゲハチョウ、ツマグロヒョウモンなども花から花へ蜜を求めて飛び交っている。

前回歩いた時はエノコロ草(猫じゃらし)がそこかしこで目に付いたが、今回はカヤツリ草(蚊帳吊り草)が正に旬という感じだった。カヤツリグサの茎を両端から二分して裂いていくと・・・・あら不思議、大きな四角形が現れる。これは気が合った二人でやらないとなかなかうまく行かない。小さな時良く遊んだ。

当時、網戸がなかったので蚊帳は夏の生活必需品だったが、子供にとっては楽しい思い出がいっぱい詰まっている。蚊帳をくぐる瞬間、今風に言えば異次元へワープするようなワクワク感を味わえた。毎日そっと不思議の国へ滑り込み、そのまま夢の世界で羽を広げ自由に飛び回った。

Turubo 今の季節、紫色の花が結構目に付く。ツルボ、アザミ、ハギなど。ツリガネニンジン(釣鐘人参)も結構見かける。この花は夏の終わり頃が最盛期だと思っていたが、草刈で一度刈られた後から二番目の茎が伸び又花をつけている。スズランに似た花で可愛らしい。

この辺では結構良く見かけるのだが、ある時、茎の節から出ている葉の数が、固体ごとに同じでないのに気が付いた。目に付くたびに数えてみると1枚から6枚まで見つかった。植物学用語で言うと、互生(1)、対生(2)、輪生(3枚以上)すべてそろっていた。あらゆる可能性に挑戦しているように見えた。

そういえば、8月に行った白馬岳で見たハクサンシャジン(白山沙参)もツリガネニンジンが高山に適応したものとして区分しないとの見解も紹介されている。要するに順応性が高いのだ。日本全国の山野で普通に見られ、春の新芽は“ととき”と呼ばれ美味という。

多様性に挑戦する柔軟性が、この植物を南から北、低地から高山まで広く適応可能にしているのかもしれない。

(注) ツリガネニンジンは東京近郊では最近個体数が減少しているようなので、食べないで花を観賞するだけにしたい!

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2006/09/22

トラックバック有難うございます(蟻の兵隊)

 先週見た映画“蟻の兵隊”、その後も色々考えさせられました。cyazさんのブログや寄せられているコメントも読ませていただきました。

 他にも様々な掲示板やブログ検索などで多くの方の意見を読みました。そのうちに段々と私の気持ちの中身が自分なりに分かってきました。

 中国に対して日本がしてきたこと。これはその気になれば今までも客観的な事実は時に触れ、様々な人により語られてきたと思いますし、私自身、おぼろげながら全体像は分かっていたと思います。少なくとも私達の世代の共通認識としてはあったと思います。その贖罪意識が、日中国交回復の歓迎、パンダへの親愛の情となり、あるいは息の長い植樹ボランテイアなどに受け継がれてきたのだと思います。

 では実際にはどのようなものだったのかというと、少なくとも私自身はいつも真実を見つめる事から逃げていた気がします。怖かったのです。それを知ってしまうと、日本人である事をやめたくなるほどの衝撃を受けそうな気がしていました。また実際に殺戮に手を染めた人を許せなくなるだろうし、過去のつらい記憶を忘れる事で必死に生きてきた多くの元日本兵の高齢な方々をこれ以上苦しませたくないという気持ちもありました。

 

 過去をほじくるより、その反省の上に日中友好の新しい時代を作っていく事が求められていると思っていました。

 しかしここ数年の風潮を見ていると、無知は罪でさえあると感じるようになりました。

 中国への侵略行為は、強盗殺人行為となんら変わらないと思います。少し状況を加味すれば火事場泥棒といえるでしょう。

 当時の国際情勢、列強の草刈場状態だった中国へ遅れて参加しただけじゃないか。国内が疲弊し何らかの打開策が必要だった等の弁護論。・・・・・色々言い分はあるでしょうが、暴力的に他国に侵入し、その土地の人々を殺すことは、現在と同じく過去においても正当化できないでしょう。

 

 またcyazさんのブログの最後に 

“ある法曹界の方にお話を聞きましたが、やはり法の下ではこの判決は妥当なことだということでした”という言葉が結論的に書かれていましたが、私はこれには賛成できません。

学生時代、法学概論の最初の授業の時、謹厳実直そのもののようなその先生の口からポロッと語られた一言が思い出されます。

“法律は最低限度の倫理でしかない!”

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2006/09/14

爽やかでした

 8月に見た映画がトラウマになって、もう映画なんて当分見たくないと思っていたのですが、評判がとても良かったので9月に入って2本の映画を見ました。それぞれまったく違う映画だったのですが、爽やかな風が心の中を吹きぬけてくれました。

 『時をかける少女』

 煌めく青春の一こまを掬い取ったような懐かしさ、いとおしさ。青春の真っ只中にいる時は、日常のあわただしさとか煩雑な雑事とか、思春期の悩みとかで意識することもなく過ぎてしまった日々の輝きを、はっと思い出させてくれたような・・・・・そんな作品でした。

 

 色彩も美しく、作画も丁寧で細部まで心が行き届いているなと感じられました。登場人物の性格描写も人間性への信頼に裏打ちされ安心して感情移入できました。『となりのトトロ』や『おもひでぽろぽろ』に通じる世界に久しぶりに浸れた楽しい時間でした。


    『蟻の兵隊』

 この映画の存在を知ったのはかなり前でした。とても良いから是非見るようにと何回も薦められました。それでも私は行きませんでした。より正確に言うと、行けませんでした。

  ・・・・中国へ侵略した元日本兵にまつわるドキュメンタリー作品・・・・・。

そう聞いただけで、私には充分すぎる重圧感と、悲惨さが予想され本能的に足が向かなかったのです。私には臆病なところがあります。ある限界を超えた怖いもの、悲惨なものを正視する勇気にかけているのです。原爆の悲惨さを訴える展示会などもつい最近まで足が向きませんでした。道端で蛙が轢かれていたのを目にしても、当分その道は歩けないくらいなのです。

 そんな私が、進んで見に行く気になったのは、インターネットのユーザーレビューに寄せられている何人かの方の感想を目にしたからです。

“見に行こう、是非見たい!”その後の行動は私にしては迅速でした。東京での唯一の小さな上映館を探し、遅れないように早めに家を出ました。

充分間に合ったのが良かったのか、悪かったのか。何篇かの予告編までバッチリ見る羽目になり、その猥雑さ、未完成度にうんざりした頂点でこの映画が始まるという最悪のタイミングになってしまいました。そのせいもあり始めのうちはなかなか、映画自体になじめず冷めた目で見ていました。

 それがいつの頃からか、胸に何か熱いものがこみ上げてきて、目には涙があふれてきました。戦争の悲惨さを辿っている旅なのに、見終わった後に残った気持は     ・・・・・・・・・爽やかさだったのです。

 素晴らしい作品だと思います。これを作ってくれた監督と協力してくれたすべての人に心から感謝したいと思いました。これはすべての日本人が見るべき映画だと思いました。

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2006/09/11

ナンバンギセル(南蛮煙管)

 新聞でナンバンギセルが咲き出したと紹介されていた。

もうそんな季節になったのか。今年はいつになく暑い暑いと嘆いているうちに8月も終わり9月も中旬になっていた。我が家の庭では未だサルスベリ(百日紅)が満開で夏の雰囲気が濃厚に残っているのに、里山を訪れると、萩、オミナエシ(女郎花)、ワレモコウ(吾亦紅)と秋の気配が漂っている。彼岸花も数輪咲きだしていた。

 頭の中も、周囲の自然も秋と夏が混在し、どうにもすっきりしない。

Nanbangiseru  とはいえ、ナンバンギセルが咲き出したのなら見に行かずばなるまい。さっそく、家を出た。目的地は、歩いて1時間ぐらいのところにある里山の自然を取り入れた公園の一角のススキ群生地だ。ススキの穂は未だちらほらで、風に銀色の穂がなびく景観はまだまだ先のようだ。しかし、ナンバンギセルは見事に咲いていた。ススキの根元に10センチぐらいの草丈で、ひっそりとといいたいのだが、群生しているとなかなかにぎやかで、花の色も濃淡様々なピンク系で華やかでさえある。

 万葉集にも思い草と歌われ、モジズリ(捩摺)と同様、古くから親しまれてきたようだ。

 葉緑素を持たないので、ススキ、ミョウガ、サトウキビなどの根に寄生して養分を分けてもらっているらしい。さすが見る目がある。寄生先の植物は生活力旺盛な植物で、ナンバンギセルが少々栄養を横取りしても痛くも痒くもなさそうだ。とくにススキは少し勢いをそいでくれたほうが、人間としてはありがたいくらいだ。

 しかしサトウキビ農家にとっては、ありがたくない害草のようで、時としてサトウキビ畑を全滅させてしまう事もあり目の敵にされているらしい。生まれる場所は慎重に選んだほうがいいようだ。

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2006/09/08

クマゼミ

 もうだいぶ前の事になるが8月の中頃、近所の緑地を通りかかった時ジージーという油蝉の声や、ミンミン蝉の声に混じってシュワシュワという聞きなれない声が耳に入ってきた。記憶の奥から取り出されたような奇妙な感じがした。

 未だ子供達が小さかったとき、過ぎ行く夏休みを惜しんで、三浦半島の油壺に連れて行った事があった。残暑の照り返しを避けて林に入った時、耳を圧倒したあの音だった。道端には、今まで見たこともない大きな蝉があちこちに落ちていた。短いが精一杯燃え尽きた生命。私にとっては強烈な印象だった。後になってからそれはクマゼミ(熊蝉)といい、日本でも比較的南方に生息する蝉という事を知った。三浦半島は海流の影響で比較的暖かなため生息しているのだろう


 それがわが家の近所にいたことに少なからず驚いたが、クマゼミの事は毎日の雑用の中でそのまま忘れていた。それが数日前、道端でばたばたしていたのを見かけた。クマゼミの夏は終わったのだな、と少々感傷的になる一方、このクマゼミと8月鳴き声を聞いたクマゼミは違うかもしれないと思った。なぜなら2つの場所はずいぶん離れていたのだ。もしかするとクマゼミにとって、我が家のある東京西部の丘陵地は充分生息可能な地域に変わってきたのだろうか。

 似たようなことは、ツマグロヒョウモン(褄黒豹紋)でも経験した。この夏、我が家の庭にも、何回かこの美しい蝶が飛んできた。最初は嬉しくて写真をとりまくった。でも23度と訪問が重なると慣れてしまった。

“ああ又ね・・・”程度の感じだ。近所を散歩していても良く見かけた。去年までこんな事はなかった。

 この蝶も南方系で日本では三重県以西に分布と図鑑に書いてある。以前にも郊外を歩いている時見かける事があったが、とても珍しいものを見れてラッキーという感じだったのに、この夏はアゲハチョウ並みに良く見かける。地球温暖化が駆け足で進行している指標でないといいのだが・・・・・・。

 余談だが、この蝶は雌のほうが美しい。一般に自然界では、害敵の目に付く危険を避けるためか雌のほうが地味で目立たない事が多い。それがこの蝶は、雌のほうが目立つ配色だ。何でだろうと気にかかっていたら、“毒があるので鳥達が敬遠するカバマダラにそっくり”ということだ。逆転の発想である。

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2006/09/04

猫じゃらし

 今朝も早朝散歩してきた。太陽がだいぶ高くなってきても空気はひんやりとして、秋の訪れを感じる。エノコロ草が道端のいたるところであの独特のふっくらした穂を垂れていた。


Nekojyarashi  私が小さな頃は猫じゃらしと呼んでいた。猫に対する人々の暖かな気持ちが感じられる。文字通り、これを猫、特に子猫の前で揺らすといつまでも飽きずにじゃれ付いてくるので、大抵私のほうが根負けしてやめてしまっていた。


猫と人間の共同生活の歴史は古い。最初は、穀物を食べるネズミを採ってくれる事から生活のパートナーとして飼われはじめたのだろう。その働きを感謝されて、エジプトなどでは神にまで上り詰めている。基本的に農耕民であった日本人にとっても、猫は大事な家族の一員とみなされてきたように思われる。

名前は使用する人々の文化を反映するようだ。エノコロ草の場合も中国では狗尾草と呼ばれるそうだ。言われてみれば、子犬の尻尾みたいに見えてくるから面白い。中国社会に於ける犬への親しみが感じられる。一部の地域では食料ともされるというが、本質的には、牧畜民の犬への親近感が伝わってくる。中国でも、牧畜文化の影響が強い北方での命名のような気がする。

以前読んだアメリカの開拓時代を描いた『大草原の小さな家』の中で、子犬にはすぐにジャックと言う名前がつけられ、家族同様の愛情が感じられるのに、子猫をネズミ対策としてもらってきてもキテイー(子猫)という一般名詞でチラッと描写されているだけだった。『我輩は猫である』の“名前は未だない・・・”状態である。ヨーロッパ人が、長い間牧畜文化に軸足が在った名残かもしれない。ちなみにエノコロ草を英語ではFoxtail grass (狐の尻尾草)というらしい。

話はもどってエノコロ草のエノコロとは何かと調べてみた。検索により以下のことを知った。『日本国語大辞典』によると、石ころは石子+ろであり、犬ころは犬子+ろという。この“ろ”は価値の低いとみなしたものにつけられるという。この場合、子は名刺の後ろにつけた、扇子、障子、餃子などと同様な接尾語である。エノはイヌ(犬)がなまったものであるという。この語感からすると余りイヌに好意的でない。事実、植物の名前に関していえば犬は散々である。

犬マキ(槙)、犬ザクラ())、犬ビワ(枇杷)、犬タデ()、犬ゴマ(胡麻)・・・・と人間にとって余り役に立たないものの代名詞のような扱いである。犬に対して何かうらみでも有るのではないかとさえ感じてしまう。少なくとも牧畜文化圏では考えられない。

ともあれエノコロ草、猫じゃらしと両極端の名前を持つこの植物はとても可愛らしく、また秋の到来を告げてくれるので私は好きだ。

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