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2006/10/30

世論調査

先日テレビで“太田総理・・・秘書田中”という政治ネタ系お笑い番組を見ていた。タイムリーなテーマを取り上げ、鋭い突込みで気分がスカットする事も多い番組だ。今回のテーマには“世論調査の是非”があった。設問自体もスリリングだった。世論調査を禁止すべきという主張は、戦後民主主義のなかで育ってきた私にとって、始めとんでもない問題提起のように思えた。

庶民の自由な意見の封殺は、独裁国家が自己の延命を図る際の常套手段である。この番組製作者は何を血迷ったか。また戦前の、マスコミ総動員の思想統制の復活をたくらんでいるのか??

しかし番組の進行とともに、なかなか鋭い設問である事に気が付いた。様々な切り口から問題点をあぶりだしていたが、以下私の考えも含めながら問題点を整理してみた。

その一、現在行われている世論調査は果たして、国民の意見を正確に反映しているか?

 無作為に抽出された電話番号に電話して、回答を得られた資料を分析するという。

回答をするかしないかの態度決定には果たして、偏りはないか

 (マスコミに反感を持っている人は回答を拒否しやすい等)

アンケート調査が行われる時間帯に問題はないか

 (昼間電話に出られる人は、主婦やお年寄りに偏る)

電話を持っている層に偏りはないか

 (若者は携帯のみという人も多いだろう)

回収率が低すぎないか

 (最近は60パーセントを切っている場合が多い)

      等々

   → 基礎資料に偏りがあれば、分析結果にも偏りが生じる

その二、その時々の世論の大勢を国民に示す事が逆に、世論を誘導する恐れはないか

 寄らば大樹。右向け右。

 大勢順応型の国民が、多数の世論として示された意見に擦り寄っていく恐れ。

  (この場合の国民には政治家、批評家、知識人、マスコミ関係者さえも含まれる)

   一度方向性が示されると、なだれのように一定方向に突っ走る

その一、その二の結論

 根拠の乏しい動機から、間違った方向へ突っ走りやすい。

現行の世論調査は、改善の必要がある。改善されなければ害毒をもたらす危険が高い。

追記   初寄稿で表題および本文中で使われていた幾つかの、アンケートという言葉を世論に訂正します。

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2006/10/25

デイープ薬物疑惑といじめ問題

コメントへの返事大変遅れて申し訳ありません。海外での出来事でもあり、事実をちゃんと確認した上で自分自身の考えをまとめたいと思ったためです。

 現在までに明らかになった事は、フランス側の薬剤投与をめぐる諸事情を、日本側の関係者が十分に把握していなかったというコミニュケーションギャップ(理解不足)に在ったようですね。

当初まさかとは思っても、いずれかの悪意が介在している可能性も有り得るため寂しい気持ちになっていたので、ほっとしました。

 しかし不満は残ります。100パーセント周囲の人間の不注意から起こったミスです。ディープインパクトは動物なので、この間のごたごたを知ることもなく、実害はなかったと思いますが、これが人間の子供だったらどうでしょうか。

 

 守ってあげるべき周囲の不注意により、子供が傷つき、最悪の場合命までなくする。昨今の、幼児虐待や学校でのいじめ問題の報道に接するたびに感じる、やりきれなさ、怒りと底では繋がる問題だと思います。

 先日、NHKテレビで赤ちゃんの成長過程が放映されていました。多くの可能性を秘めた新生児が母親(育児担当者)を中心とする周囲とのコミュニケーション(やりとり)の中から、これから生きていく上でのスキル(技術)を取捨選択していくという内容でした。

 これが義務教育課程になっても基本は変わらないと思います。学校での教師は、子供の価値基準を形成していく上で重要な役割を担っていると思います。知識の習得だけならわざわざ学校まで行かなくても、他にいくらでも習得の方法はあります。集団のなかでいかに互いに尊重し思いやりを持って生きていくかの基礎訓練こそが、学校教育の要とさえいえると思います。

 子供を、一人の人格を持った存在として尊重することに異議はありません。しかし未だ成長過程にあり、保護と教育が必要です。学校内でのいじめが原因で死を選ぶまでに追いつめられた生徒の存在は、教師とそれを取り巻く社会の責任放棄を示す以外の何者でもないと思います。


追記   初稿で“子供を、一人の人格を持った存在として尊重することに意義はありません”と転換ミスをしていました。読者の指摘で気が付きました。異議に訂正します。  

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2006/10/20

上高地の秋

Hodaka_1  一昨日上高地に行ってきた。全山紅葉というには未だ早いが、久しぶりの秋晴れのもと黄葉、紅葉に彩られた深山の一日は、気持ちをリフレッシュ(蘇る)させてくれた。

 梓川の澄み切った豊かな水。時々姿を現すイワナ(岩魚)の魚影。

どこからともなく漂ってくる、あのおせんべいを焼いているような香ばしい香り。しばらく行くと山道にハート型の黄色い葉っぱが散り敷かれ、見上げるとカツラ(桂)のKatura_2大木が視界を覆う。つぎつぎに森の様々な香りが漂ってくる。久しぶりに胸いっぱい深呼吸する。都会にいると、無意識のうちに休眠状態になっている臭覚が活動を始めたみたいだ。

目の前にせまる明神岳の錦織り成したような山肌の木々の葉の微妙な色彩の妙にしばし見とれる。背景の秋空の青色もいい。ところどころに浮かぶ白い雲も見る間に形が変化していく。五感がだんだんと解き放たれてくるのを実感しながら、大正池から明神池までの散策を楽しんだ。


 平日にもかかわらず人の数は多かったが、上高地の自然はそのすべてを受け入れてくれるほど懐が深い。大正池から河童橋は以前にも来た事があるが、水の清涼感と白樺や唐松の林、そしてある意味街中と変わらない人の流れ。それが不思議とマッチしていて人と自然が融和している居心地よさみたいなものがある。

Azusagawa  河童橋から明神池は初めてだった。行きは明神岳よりの右岸コースを行ったが、初めてのことでもありいつ着くのかもどかしく、周りをゆっくり見る心のゆとりがなかった。明神池は思っていたより小作りで、箱庭のような感じがした。しかし目の前に迫る明神岳はさすが迫力があった。帰りは対岸の遊歩道にした。川向こうに明神岳を見ながら、のんびりと鼻歌もでてきそうな道幅の広いなだらかな山道がずっと続いた。

 しばらく行くと、行きの川原で見かけた猿の群れだろう、ねぐらに向かうのか一列に並んで歩Saruいて来るのに出会った。先頭にボス猿が悠然と歩き、後から赤ちゃん猿を背中に乗せた母猿や、子猿、若猿、総勢十数匹いかにも日常的に歩いてきた。私達のほうが珍しいので少々緊張してしまったが、人と猿は同じ道を左右に平和裏にすれ違った。心なしか動物園の猿より小型だが、毛並みもきれいで顔付きも良かった。

 

秋の日没は早く、バスに戻る頃、山肌には夕闇が迫っていた。

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2006/10/13

ススキとセイタカアワダチソウ

もより駅まで歩く途中には、幾つかの造成地がある。造成されてからかなりの年数が経つので、一面雑草が生い茂っている。春夏秋冬様々な草花が見られ、私にとってはマニュアル化された花壇より遥かに好奇心が刺激され、寄り道してでもよく見に行く。

Susuki 今の旬はススキとセイタカアワダチソウ(背高泡立草)に尽きる。一面のススキが原もそれなりの情緒があるがやはり寂しい。セイタカアワダチソウが明るい華やかさを加えてくれる。多摩川の川原などにも一面に広がり、いまでは日本の秋、少なくとも東京郊外の秋を代表する風景になっている。

ススキは万葉の昔から歌にも詠まれ、親しまれてきたが、このセイタカアワダチソウ、調べてみると以外に歴史は浅い。原産地は北米で、ケンタッキーの州花にもなっているとのこと。明治年間に観賞用として導入されたものが野生化し戦後急速に分布を拡大したという。

群生地を見ると、河川敷や土手、造成地、休耕田などいずれも何らかの事情で土Seitakaawadatisou地の在来植生がリセット(始動状態に戻す)された場所である。本来なら在来植物が復元するはずのこういう土地で何故セイタカアワダチソウが優勢なのか考えてみた。

1.       外来植物は一般に、天敵がいない。食物連鎖の輪に未だ組み込まれていないので食べられる危険が少ない。

2.       背が高い(25)ため太陽光を十分活用できる。

3.       多年草のため、年々体力を蓄積できる。スタート(春の芽だし)、その後の生長を有利に進められる。

4.       他の植物の生長を抑える物質を分泌する。

5.       花が少ない時期なので、養蜂家の保護を受ける。等々。

 繁栄するにはそれなりの事情があるようだ。ただ歴史的には、リセットの原因が、炭鉱閉山のためで“閉山草”と呼ばれたり、ベトナム戦争の支援に関連していて“ベトナム草”と呼ばれたりした事もあるという。花本来には罪のないことではあるが

“国敗れて山河あり、城春にして草木深し・・・・”というような事はなしにしてもらいたい。

 さて一見平和共存のように見えるススキとセイタカアワダチソウ、実は熾烈な生存競争を繰り広げているようだ。ススキは従来、自然状態では草原における植物遷移の最終相を成し、以後アカマツなどの陽樹が入り込み森林へと変化していくという。果たして新参者セイタカアワダチソウとススキの勝負は如何にと興味津々で毎年見ていたが、最近ススキが少し巻き返したかなと思えた時、突如ブルドーザーが入って、マンション建設が始まった。ススキもセイタカアワダチソウもきれいさっぱりなくなってしまった。

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2006/10/06

ディープインパクト3着・・・

 本当は102日に、ディープインパクト優勝!とかのタイトルで書きたかったのですが、事実は3着という結果で、文章を書く気も起きず、ずるずると日にちばかり経ってしまいました。正直すごくショックだったかというとそうでもなく、そんなところかなという感想でした。

 そもそも凱旋門賞に出走するというニュースを知った時、色々な心配が頭をよぎりました。飛行機での長時間の移動、温度・湿度など自然環境の違い、競馬場の雰囲気の差など、走る事以前に克服すべき課題が多すぎると思われました。そんなハンデを超えてまで行く必要があるのだろうか・・・。

 それが日が経つに従い、せっかく出走するからには勝って欲しい。いや絶対勝つ!・・・みたいな確信に変わっていき当日を迎えました。

 ディープインパクトの走りは悪くなかったと思います。それでも勝てなかったのは、諸々のハンデにかかわらず勝利を掴むほど、ヨーロッパ競馬は甘くなかったという事でしょうか。それにしても僅差の3着は立派だったと思います。2400メートル走ってわずか4分の3馬身の違いは物理的には誤差の範囲に入ってしまうくらいの僅差です。しかし勝負の世界は非情で勝ち負けで片付けられてしまいます。でも一フアンの私としては正直、怪我も無く終了しただけでも嬉しかったのです。

 当分はゆっくり休養して、英気を養ってください。

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2006/10/01

秋の剪定

 暑からず、寒からず・・・・。庭の蚊もそろそろ最後のあがきを諦めたようなので、久しぶりに庭に出てみる。クモの巣がいたるところに張り巡らされ、キンミズヒキの種子がジーンズにくっつく。庭木はと見ると、怒髪天を衝く様相でいかにも荒れ果てた風情だ。

落葉樹の剪定には未だ早いが、常緑樹はそろそろ剪定しなければ、時機を逸してしまうだろう。少しは見栄えも考えねば。

昨今、“美しい・・・・”なる言葉を良く耳にするが、これほど実体のない言葉も少ないだろう。庭だけに限定して考えても、そもそも木など一本もなく芝生に日差しがさんさんと降り注ぐ庭が美しいと思う人もいれば、大木が鬱蒼と生い茂っている庭こそ理想と考える人もいるだろう。美しいという概念は、人の数だけあるともいえるので、実際行動の指針としづらい。少なくとも植木屋さんに頼む時は、風通し良くさっぱりとしてください、とか全体的にのびすぎたので少し高さを抑えてください、とか現実に即した目標が必要になる。

私がこの秋、目指しているのは少し込みすぎた枝を切り、風通しを良くして、来年の新芽が勢い良く伸びるようにする事だ。冬の寒さを控えているこの時期、大きな枝をばっさり切ると樹勢そのものをそいでしまうので、中ぐらいの枝と小枝の剪定に限られるだろう。まず木の上部の枝透かしを行う。

一般的に木は上を目指して伸びるので、上部ほど勢いがある。広い空間が保障されていれば何も手を加えず見てるだけというのが一番いい対処法となるが、普通は生育域は限られ、他の木々との熾烈な競争となる。ほっておくと背ばかり高くなり、上のほうにしか葉っぱがない寂しい庭になってしまう。更に放任して置くと樹勢の強い木しか残らず、毎年咲くのを楽しみにしていた花木などはいつの間にか消えてしまう。そのため庭木の場合は人間が調停者として介在して、木と木の調和を図っているのだろう。

上部の枝透かしの次には木と木の間に空間をつくる。こうしないと、下のほうの枝まで光が届かず、下枝が枯れ果ててみな葱坊主のような木になってしまう。

これらの作業は実際にやるとなると結構大変だ。上のほうの枝を切るには脚立が必要だが、我が家の木は、現在私の制御可能な限界点にある。道路で脚立の一番上で背伸びして剪定などしていると、通りすがりの親切な方に、危ないからやめるよう忠告を受けたりする。といってこのままほっとくわけにも行かない。下枝を一度枯らしてしまうと再生は大変だ。この秋はかなり頑張らないと、と思っただけでため息が出てしまう。木と付き合うには、色々な知識だけでなく気力と体力も要求されるようだ。そろそろ経験豊かな腕のいい植木屋さんを見つけて任せたほうがいいのかもしれないとも思う今日この頃だ。

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