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2007/01/29

ミニスカートは荒行!?

先日都心のデパートへ久しぶりに行った。近場にもデパートやスーパーができ、いつもはそこで大抵のものは間に合ってしまうので、わざわざ混雑している都心に出ることはない。今の時期、歳末・新春商戦も過ぎ、成人の日も過ぎ、人出も一段落したところで各デパートは冬物セールの真っ盛り。意外な掘り出し物があるかもしれないし、戸外を歩いても寒いので散歩もかねてのお出かけである。

 特に買いたいものがあるわけでもなく、いたってのんびりムードなため、道中の観察も結構楽しい。

 一番強烈に印象に残ったのが、女子高生のスカート丈が、アララと思うほど短くなっていた事だ。電車に乗り込み座席に腰掛け、やれやれと前方に目をやると数人の見るからにエネルギッシュな女子高生のセーラー服姿が目に飛び込んできた。元気に談笑している。

 若いっていいなー、一寸感傷に浸るまもなく、膝元になにげ無く目線がいってドキッとした。見てはいけないものを見てしまったような、なんとも気恥ずかしい気持ちで慌てて目をそらした。ナンなんだ!あの短さは・・・・。人前で、しかも制服・・・・・・。

しばし動揺を抑えて、冷静に考えてみればこれは今に始まった事ではない。数年前から、街中で見かけるたびに多少は感じていた事だった。でもあわただしい日常の風景として見過ごしていた。しかし眼前に長時間見せ付けられるとおのずと感想も異なってくる。

かくいう私も高校時代はセーラー服で過ごした。制服を注文しにデパートに行った時、何故だか父と一緒だった。父は成長盛りだからと、店員さんのアドバイスよりはるかに長めにすそ丈を決めた。おかげで私のセーラー服のすそ丈は、ただでさえ長めの当時の標準を更に更新していた。ひざ下10センチはあったように思う。その上、3年間を通じて余り背も伸びず、卒業までその状態は続いた。


当時の私はそんな事は少しも気にならなかった。それより父が一緒に行ってくれて作ったという事が嬉しくて、とてもその制服を大事にした。毎日寝押しといって、畳の上に敷物を広げ、その上でスカートの折り目を丁寧につけ、そっと敷布団を敷いた。こうすると次の日には、ピシッと折り目がついて気分もすがすがしい。毎日欠かすことなく、このスカート一枚で3年間過ごした。

級友の中には、夏冬それぞれ2枚ずつ持っていて、休日になるとクリーニング店に出す人もいた。でもうらやましいとか感じた事はなかった。

そんなこんなの感傷に浸っているうちに、最寄り駅に着き外に出た。日も傾き気温が急激に下がってきていた。さっきの女子高生もさぞ寒いだろうな。何で親や学校はあんな薄情な格好を大事なわが娘にさせるのだろう。

ふと、正月以来テレビでよく目にした寒中水泳、寒中みそぎ等の映像が目に浮かんできた。ひょっとしてその精神の延長にあのミニスカートはあるのだろうか。それにしても“年寄りの冷や水”というように、一般に、特に老齢者が身体を冷やす事は健康の大敵である。若者が短時間の場合はありなのカナとも思うが、冬中ズーっとは長すぎる。婦人科医の意見を聞きたいと思うのだが・・・・。

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2007/01/22

そのまんま東さん、期待していいんですね!?

今年は選挙の年だという。地方議員や首長選挙が目白押しらしい。そして夏の参議院選。日本の方向が決まるといっても過言ではないのかもしれない。既特権を守る事のみに汲々とし、世界の孤児になるのか、地球規模で人類に貢献できる国に脱皮できるのか。

 年明け第一弾の知事選、当然興味はあった。しかし距離的に遠い事もあり、断片的に入ってくる情報以上に知りたいとも思わないうちに投票日になり、結果が出た。宮崎県知事にそのまんま東氏、圧倒的県民の支持を得て当選。昨夜テレビで喜びの第一声を聞いた。

 少し上気して輝いた顔、宮崎ナマリの言葉、県政刷新にかける思い、・・・・・いっぺんに好感度が急上昇した。私が宮崎県民だったら、やはり支持していただろうと思った。

 しかし、私は我が家では札付きのだまされやすい人である。消火器サギ、さおだけ屋サギ、T商事サギ、バブル期の株の売買・・・・一通りのサギは経験済みだ。おかげで最近は少し、疑うというワザも身につけてきた。

 そこで、今回も素直に期待したい気持ちのすぐあとから、今までのタレント議員とどう違うのかという疑問が沸いてきてしまうのだ。タレント出身が悪いというのではない。ただ、名が知れているという上げ底に支えられているとしたら、世襲議員や族議員と大差ないじゃないかという気がしてしまうからだ。

 地域や国の事を思い、又能力のある人が政治にかかわれる仕組みの構築が本当に必要とされているのではないか。そのためにも政党、特に今は野党の力が求められているのだと思う。そのまんま東氏に集まった有権者の支持の意味を政党関係者は重く受け止めて欲しい。

 

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2007/01/15

茶の歴史  続

 今回は経済、政治の観点から茶の歴史を簡単に振り返って見てみたい。

ヨーロッパ人にとって、不味い塩漬け肉をなんとかおいしく食べるための香辛料、特に胡椒は生活必需品だった。

インド、東南アジア産の胡椒は長い間、中東、地中海経由で運ばれ当地の商人に莫大な富をもたらしていた(ルネッサンスの原動力)。当時ヨーロッパでは、胡椒と銀は同じ重量で等価交換されたという。もっと安価に胡椒を手に入れたい。その動機が新航路の開拓に繋がっていく。

アフリカの南端を巡る新航路は、海路によるアジアへのルートを開き、コロンブスによる西方への航海は新大陸の発見(ヨーロッパ人にとって)へと連なる。以後世界各地でポルトガル、スペイン、オランダ、フランス、イギリスと次々と主役の変わる激しい覇権争いが繰り広げられた。

一方日本では、戦国の世も終息に向かい安土桃山文化は豪華絢爛の花を開いていた。茶道文化は時の権力者豊臣秀吉の庇護を受け、経済を握る堺の商人出身の千利休によって日本的美が追求された。

17世紀初頭オランダによりヨーロッパに紹介された茶は、東洋の文明の香りを伴って、初めはオランダの上流階級に浸透していく。はじめは香料中心であった交易品も、17世紀中ごろ以降中国産の茶が最も中心的商品になっていった。当時豊かな文明国であった中国にとってヨーロッパから欲しいものはなく、対価としては銀が用いられた。 この頃世界有数の産銀国であった日本の銀を独占的に扱っていたオランダの繁栄は、銀の産出の減少による幕府の銀輸出の停止(1668年)と歩調を一にして衰退に向かい、覇権はイギリスに移っていく。オランダでの喫茶の流行はイギリスに移り、一般庶民の間にも広く浸透していった。

1718世紀を通じて中国茶の輸入は増大しイギリスでは18世紀末には貿易額の首位を占めるようになり、見返りとしての銀の流失が増大する。北アメリカの植民地を巡るフランスとの戦争(七年戦争175463の一環)で勝利したものの、戦費を茶の関税の重税化で植民地の住人に押し付けたため強い反対運動が起こり、ボストンテイーパーテイ事件が発生(1773年)する。イギリス政府により独占権を得ていた東インド会社の大量の茶をボストン港に投げ捨てたというものだ。これを契機にアメリカ独立戦争(17751783年)へと発展していく。

アメリカ独立戦争の鎮圧のために要した戦費はイギリスの財政をさらに圧迫し、18世紀末には貿易バランス是正のため、中国へのアヘンの密輸に乗り出す。当時植民地化していたインドで大量のアヘンを栽培し、中国政府の目を盗んで売り込んだのである。

アヘンは当時長期の太平に慣れた中国人の生活に忍び込み心身を蝕む。度々の政府の禁止にもかかわらず、年々アヘンの密輸量は増大し1820年代には、清からの銀の出超にいたる。清朝は1839年密売人逮捕とアヘン没収処分という断固とした姿勢を見せるが、イギリスはこれを不満としてアヘン戦争(184042)を仕掛ける。敗れた清国は、南京条約により上海など5港の開港と香港の割譲(1997年中国へ返還)、さらに多額の賠償金を支払わされる。

これは先祖(バイキング)がえりともいうべき暴挙で、当時英国議会でさえ「こんな恥さらしな戦争はない」と反対論が強かったが、出兵に関する予算案は賛成271票、反対262票の僅差で承認される。

この武力による成功が、後の中国の運命を方向付けた。すなわち、列強による武力の横暴が野放しになった。

 一方で、イギリス国内で年々増えていく茶の需要を、何とか自前で補いたいという努力も続けられた。1820年、インドのアッサム地方で見つけられた自生の茶はその後生産拠点を広げ大量生産されていく。

安価になった紅茶と、やはりインド起源(後に西インド諸島)の砂糖、自前のミルクの合体したイギリスの紅茶文化はまさに、七つの海を制する大英帝国の栄光の象徴となった。

当然、英国の影響の強かった地域、インド、オーストラリア、植民地時代のアメリカでも紅茶は大いに歓迎された。しかしアメリカにおいては、独立戦争のとき、紅茶を飲まない事が愛国心の表れとされたため、現在にいたるまでコーヒーが根強く支持されているという。

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2007/01/08

茶の歴史

おせち料理や新年会で少々体脂肪が増えた向きには、プーアル茶がお勧めという。見た目は黒っぽいし、味もいまいちだが減脂効果抜群というので、最近は夕食後飲むようにしている。

いつもはおさんじなどに、チョッとしたお菓子と一緒に緑茶を飲むことが多いが、日本人だなー、平和だなーと感じられるお気に入りのひと時だ。


前にサザンカをテーマにした時周辺を調べているうちに、チャに関しても私にとってはいろいろ新しい発見があったので、ここで忘れないようにまとめてみた。


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 チャの花は、梅の花を一回り大きくした感じの白い花で、10月ごろ畑の隅にひっそりと咲いているのを見かける事がある。地味だが清楚で可愛らしい。しかしチャで注目されるのは何といっても葉であろう。みずみずしいつややかな葉は人類の歴史を通じて脚光を浴び続け様々なドラマが繰り広げられてきた。

 

 チャの故郷、照葉樹林に覆われた中国の西南部では古来、木の新芽を食用や香辛料として利用する文化があり、様々な葉が用いられてきたという。チャはその後薬草として注目され中国文化圏にも取り入れられたらしい。今から5000年の昔、中国の本草学の始祖が薬草を選ぶために様々な草を試食し、毒にあたった時に解毒薬として服用したと言い伝えられている。日本にも奈良時代に薬用としてもたらされたようだ。茶を服するという言い方が残っているが、服するは本来薬を飲む場合に用いられる。初め薬として渡来した名残だろう。

中国唐代の760年頃書かれた『茶経』によると当時すでに中国各地で茶が飲料として飲まれていたという。蒸した茶葉を餅のように固めたものをその都度砕いて飲んだもので、今日のチベットやモンゴルは当時の茶の製法や飲み方の流れをくんでいると言う。宋代の抹茶風な飲み方は1190年代日本に伝わり、茶道として洗練され今に伝わる。茶葉を蒸して製茶する飲み方は日本では今日まで受け継がれている。

中国では明になると庶民出身の皇帝の命令 (1391年)により、余りに精巧化し農民に負担を強いていた固形茶の製造が禁止され、作るのが簡単な散茶という茶葉タイプが主流の、釜炒り製法に変わる。

これらは緑茶(不発酵)の系統だが、宋代あたりから半発酵のウーロン茶、全発酵の紅茶なども作られる。この場合の発酵は茶自身に含まれている酸化酵素によるものだが、冒頭に紹介したプーアル茶は緑茶を更に麹菌で発酵させて作られるという。

ヨーロッパに伝わったのは、1610年オランダ東インド会社が長崎の平戸で手に入れた緑茶が最初という。その後、食事や水質の関係で紅茶が好まれるようになったらしい。ヨーロッパにも古来ハーブティーの習慣があり、喫茶の習慣が受け入れられやすかったのだろう。

19世紀から20世紀にかけて茶は世界的な飲料として飲まれるようになった。日本では日常茶飯事という言葉があるくらい生活の中に根付いているし、イギリスでも、三度の食事のときは勿論、ティーブレイク(おやつ)、アフタヌーンティー(午後のお茶)、ハイティー(夕方の軽食)など毎日の生活に無くてはならないものになっているという。

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2007/01/01

あけましておめでとうございます

Senryou_3 












 関西から息子も帰省し、家族そろってのんびりと元旦を過ごしています。

 近所の小さな神社に初詣をし、公園の池に張った氷を空手の真似をして割ってみたら以外に硬くて、悲鳴を出してしまったり、陽だまりにスミレやタンポポの花を見つけて喜んだり・・・・。


 庭のセンリョウ(千両)は一寸見ないうちに赤い実が大半無くなっていました。園芸種の黄色い実のほうは無事です。


 外を歩いていてもこの冬、赤い木の実がいやに早く視界から消えていっている気がします。鳥の食事となる木の実が全体的に少ないのでしょうか。庭の餌台だけでも、この冬は多目に餌をあげたいと思っています。

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