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2007/01/15

茶の歴史  続

 今回は経済、政治の観点から茶の歴史を簡単に振り返って見てみたい。

ヨーロッパ人にとって、不味い塩漬け肉をなんとかおいしく食べるための香辛料、特に胡椒は生活必需品だった。

インド、東南アジア産の胡椒は長い間、中東、地中海経由で運ばれ当地の商人に莫大な富をもたらしていた(ルネッサンスの原動力)。当時ヨーロッパでは、胡椒と銀は同じ重量で等価交換されたという。もっと安価に胡椒を手に入れたい。その動機が新航路の開拓に繋がっていく。

アフリカの南端を巡る新航路は、海路によるアジアへのルートを開き、コロンブスによる西方への航海は新大陸の発見(ヨーロッパ人にとって)へと連なる。以後世界各地でポルトガル、スペイン、オランダ、フランス、イギリスと次々と主役の変わる激しい覇権争いが繰り広げられた。

一方日本では、戦国の世も終息に向かい安土桃山文化は豪華絢爛の花を開いていた。茶道文化は時の権力者豊臣秀吉の庇護を受け、経済を握る堺の商人出身の千利休によって日本的美が追求された。

17世紀初頭オランダによりヨーロッパに紹介された茶は、東洋の文明の香りを伴って、初めはオランダの上流階級に浸透していく。はじめは香料中心であった交易品も、17世紀中ごろ以降中国産の茶が最も中心的商品になっていった。当時豊かな文明国であった中国にとってヨーロッパから欲しいものはなく、対価としては銀が用いられた。 この頃世界有数の産銀国であった日本の銀を独占的に扱っていたオランダの繁栄は、銀の産出の減少による幕府の銀輸出の停止(1668年)と歩調を一にして衰退に向かい、覇権はイギリスに移っていく。オランダでの喫茶の流行はイギリスに移り、一般庶民の間にも広く浸透していった。

1718世紀を通じて中国茶の輸入は増大しイギリスでは18世紀末には貿易額の首位を占めるようになり、見返りとしての銀の流失が増大する。北アメリカの植民地を巡るフランスとの戦争(七年戦争175463の一環)で勝利したものの、戦費を茶の関税の重税化で植民地の住人に押し付けたため強い反対運動が起こり、ボストンテイーパーテイ事件が発生(1773年)する。イギリス政府により独占権を得ていた東インド会社の大量の茶をボストン港に投げ捨てたというものだ。これを契機にアメリカ独立戦争(17751783年)へと発展していく。

アメリカ独立戦争の鎮圧のために要した戦費はイギリスの財政をさらに圧迫し、18世紀末には貿易バランス是正のため、中国へのアヘンの密輸に乗り出す。当時植民地化していたインドで大量のアヘンを栽培し、中国政府の目を盗んで売り込んだのである。

アヘンは当時長期の太平に慣れた中国人の生活に忍び込み心身を蝕む。度々の政府の禁止にもかかわらず、年々アヘンの密輸量は増大し1820年代には、清からの銀の出超にいたる。清朝は1839年密売人逮捕とアヘン没収処分という断固とした姿勢を見せるが、イギリスはこれを不満としてアヘン戦争(184042)を仕掛ける。敗れた清国は、南京条約により上海など5港の開港と香港の割譲(1997年中国へ返還)、さらに多額の賠償金を支払わされる。

これは先祖(バイキング)がえりともいうべき暴挙で、当時英国議会でさえ「こんな恥さらしな戦争はない」と反対論が強かったが、出兵に関する予算案は賛成271票、反対262票の僅差で承認される。

この武力による成功が、後の中国の運命を方向付けた。すなわち、列強による武力の横暴が野放しになった。

 一方で、イギリス国内で年々増えていく茶の需要を、何とか自前で補いたいという努力も続けられた。1820年、インドのアッサム地方で見つけられた自生の茶はその後生産拠点を広げ大量生産されていく。

安価になった紅茶と、やはりインド起源(後に西インド諸島)の砂糖、自前のミルクの合体したイギリスの紅茶文化はまさに、七つの海を制する大英帝国の栄光の象徴となった。

当然、英国の影響の強かった地域、インド、オーストラリア、植民地時代のアメリカでも紅茶は大いに歓迎された。しかしアメリカにおいては、独立戦争のとき、紅茶を飲まない事が愛国心の表れとされたため、現在にいたるまでコーヒーが根強く支持されているという。

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