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2007/05/14

八百万の神々

八百屋、江戸八百八町、大阪八百八橋・・・・・何しろ多いという事である。

 日本には古来神が多い。少しでも怖い対象はすべて神=かみ=上として祭り上げてしまう。

 政治権力者をお上と呼ぶ。はては、奥さんまでお上さんと祭り上げられている。触らぬ神にたたりなし。庶民の知恵であろう。

 

 神の一形態、仏(ほとけ)もご多分に漏れず範囲が広い。仏教関係はもとより、なくなった人すべてをさす普通名称になっている。先の戦争ではこの神様好きが高じて、国を挙げて一億総神様になろうとしたほどである。

何事も始まりは曖昧模糊としている。国の始まりも例外ではない。それだけに興味を持ち出すとオタク的にはまってしまい、百人百様の説が飛び交い、うっかり何か言うと蜂の巣をつつくような感じである。その上政治的思惑、民族意識まで加わり、正に触らぬ神にたたりなし的状況になってしまう。これでは科学的検証作業が進まないわけである。

今回は『出雲国風土記』を読んで考えた事を少し述べてみたい。

まず国づくりが具体的で生き生きと描かれている事に驚く。鋤で大地を耕し、銛で大魚を突き、浜で船を引き上げるようにして国を広げていった事、朝鮮半島や北陸との交流も言及されている。いわば出雲人の視点で当時の伝承記録をまとめたのだろう。

出雲といえば、古事記の国譲り神話から、大和政権以前の日本の政治の中心勢力であった事が想像される。神無月〈10月)が出雲では神在月といわれたことからも、当時の各地の有力集団のサミット的なものが開かれていたのかもしれない。

中央権力を譲ったとはいえ近年発掘された、鎌倉時代建設されたと思われる出雲大社の壮大さから見ても、出雲勢力は後々までかなりの影響力があったと思われる。

この出雲を支えていた人々は何処から来たのだろう。

2,3世紀、多くの遺跡から銅鐸が大量出土する。銅鐸=編鐘と考えれば、まず中国文化(春秋・戦国時代)である。当時音楽の演奏に広く使用されていたという。

紀元前数世紀、呉越の闘い、越による呉の滅亡、楚による越の滅亡、秦による楚の滅亡、秦の滅亡と漢の成立にいたる大動乱期に、多くの江南の人々が戦火を避けて移動し、その一部が日本列島にも来たであろうことは、近年のボートピープルを引き合いに出すまでもなく、想像できる。まして水郷の人々である。船で大海に漕ぎ出し、黒潮に乗り、九州、四国、紀伊半島辺りまでは無理なく到達できたであろう。また瀬戸内海沿岸は言うに及ばず、対馬海流に乗り山陰、北陸へと新天地を求めて移動したと思われる。ひょっとしたら秋田美人は西施の末裔かもしれない!?

江南文化のにない手がそのまま出雲勢力かというと、そうは単純でないようだ。少なくとも文化的には変遷が見られる。銅鐸は2世紀になると地下に埋蔵され、それに変わって3世紀から6世紀にわたる古墳時代は朝鮮系の文化の影響が強い。大陸に於ける漢帝国の滅亡に伴う朝鮮半島の激動の波及であろう。銅鐸文化の衰退と銅剣・銅矛文化の隆盛。その文化のにない手による大和朝廷成立という決着を見たのかもしれない。剣は、音楽(銅鐸)より強しである。

編鐘は漢時代に製造が禁止されて以来、長い間中国の中でも忘れ去られていた。銅鐸は今のところ、日本の学界では朝鮮の釣鐘の変形と考えられているようだが、銅鐸と編鐘の関係が解明されれば日本文化の基層の解明の大きな手がかりとなると思われる。

今回の文章内容は、私自身かなり未消化な部分もあり、日本文化解明の一つのたたき台にしていただければ幸いです。

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