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2007/12/17

偽 と 信

 今年の世相を表す漢字として“偽”が選ばれたという。残念な気持ちと、なかなか鋭いなと納得する気持ちが半々だった。

 相次ぐ食品業界の偽装問題。材料、賞味期限、産地等々偽装のオンパレードであった。

 防衛官僚トップによる収賄容疑とそれに関する国会での偽証疑惑も未だ記憶に生々しい。

更に政治家諸氏による、年金に関する恥も外聞もかなぐり捨てたかのような偽公約の連鎖。偽とは日本語ではウソの事である。少しは、小さい時良く聞かされた言葉を思い出して欲しい。

“ウソは泥棒の始まり!”

テレビなどで余りにしばしば放映されるせいか、“ウソは政治家の始まり”と勘違いし、前日までのTV番組では首長選挙に200パーセント立候補しないなどと言っていたのに、翌日にはなんら納得いく説明もなく翻し、立候補宣言する御仁まで現れる始末である。有権者をなんと考えているのだろうか唖然としてしまう。

 出るのはため息ばかり・・・。こういう時は、もっとひどい例を見て精神の安定を得るという、消極的健康法にでも頼りたくなる。

 そもそも“偽”とは何ぞや。漢字語源辞典(藤堂明保 学燈社)によると、本来の姿に手を加えて、変化させる事という。人為である。自然に対する対立概念で、もともとは善悪の価値基準は含まれていなかったという。それが後世、悪意の行為のみ強調されていったという事らしい。

 古代中国において何百年に渡り続いた周王朝が衰退していく過程で、旧時代の価値観が崩壊し、人間不信が蔓延していったのであろう。今の日本より規模においても、時間的長さにおいてもはるかに深刻なものがあったのかもしれない。新しい価値観を求めて多くの思想家が現れた。春秋戦国時代の諸子百家である。

あるものは人間の本性を悪(=欲)とみなし(→荀子)、明確な賞罰を定める事を主張した(→法家)。あるものは人為的なものを捨て去る事が大自然の道に通じ社会の公平をもたらす(→老子)と考えた。あるものは人間本来の姿は善であると主張し(→孟子)、あるものは社会に絶望し隠遁した。

そんな中、孔子を中心とした儒家は、社会や人間の行動原理を注意深く観察する中から、幾つかの行動原理、法則を抽出していった。人間の内面から社会の規律を求めたのである。その後儒教として中国社会ならびに朝鮮、日本などにも強い影響を与えた。

孔子の言葉を記録した“論語”に何回も出てくる言葉に“信”がある。

人而無信、不知其可也。  人の間に信頼がなければ何事もうまくいかない。  (・・・車に轅や、頸木がないようなものだ。)

言必信、行必果。  発した言葉には責任が伴い、行動には結果を伴うべきだ。

      ・・・・・

シンとは、進シン、迅ジン、などと同系の言葉で“早く進む”というのが原義だという。人と人の間のコミュニケーションがスムーズに行われるために必要という。まるで現代のインターネットみたいである。したがって、又インターネットが直面している諸問題、スパム、誹謗中傷、虚偽情報などによって、本来の機能がそこなわれると社会生活もうまく機能しなくなる。

 そのことを身をもって長年経験してきた中国人が、何よりも信を大切にし重んじるのも当然なのだろう。華僑間では膨大な金銭の融資も契約書などに頼ることなく、相互の信頼で成立すると聞いた事がある。確かにスムーズに経済が回るだろう。どんなに契約書を取り交わしても、信がなければいくらでも不正は成り立つ。今世界が直面している金融危機も、つまるところ信用問題に行き着くのだろう。

幸い現首相は、来年の守りたい言葉としてこの“信”をとり上げた。願わくは、羊頭狗肉となることのないよう与党の先生方も(当然本人も)、心していただきたい。

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