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2008/10/23

紅葉

 先日、志賀高原の秋を満喫してきた。今年は春に行って大いに気に入り、夏秋と季節ごとに訪れている。日本は本当に四季のメリハリが利いていて、季節ごとの自然の移り変わりが見事だ。

Kouyou_2  志賀高原の秋は黄色系である。車窓から見える景色は、白樺、岳樺、カラマツ、ミズナラと黄色、黄土色、茶色と微妙に変化し目を見張る。何処を切り取っても一幅の絵になる。特に素晴らしいと感じた場所には、先刻ご承知のカメラマンが何人も三脚をかまえている。

最近は各地で多くの写真愛好家に出会う。三脚に高性能カメラ。後世、日本の大衆映像芸術の黎明期として特筆されるのかもしれない。

車窓からの景色もいいが、遊歩道を歩きながら全身で感じる黄葉はさらに素晴らしい。早朝のひんやりとした高原の空気の中で朝もやを通しての遠景、また葉先の露が光り輝くさまも美しい。日中は意外と暖かく、ナナカマドの真っ赤に色づいた実も鮮やかに目に飛び込んでくる。午後になると急速に日の光が弱くなり、3時ともなると冷え冷えとしてきて宿へと急がざるを得ない。

最終日は琵琶池周辺を散策した。志賀高原のなかでは比較的標高も低く黄葉も最盛期で池周辺が輝いて見える。それに加え、ここでは林間にモミジの仲間が多く、そこかしこに紅葉がちりばめられている。池をぐるっと一周した。初めはひたすら周囲の錦織りなす光景に吸い込まれるように見入っていたのだが、それにも慣れてくると、色々紅葉について考えてみた。

紅葉といえば、今ではモミジを代表とした赤系統をイメージするが、これは平安時代以降の傾向で、万葉の頃は表記も黄葉とされ、黄色系を指していたという。

そもそも植物が落葉する時、必要な栄養分は枝に回収し、必要でない、あるいは余分な成分を葉に残し体外に出す。

しかし紅葉は糖分から作られた色素アントシアンによるものであり、糖は本来植物体には必要な栄養素である。それだけに、次代に命をバトンタッチする大切な時、果実が鳥の目に付くように赤く色づくのは理解できる。しかし、落葉時にみすみす大切な栄養を葉に残して捨ててしまうのは何故なのだろう・・・。

池の周辺には羽団扇カエデというモミジの仲間がよく目に付いた。このモミジは場所によっMomiji_2 て、赤かったり、黄色かったり、かなり気まぐれである。場合によっては同じ木でも、ときには一枚の葉の中でも、黄色と赤が共存している。何でだろう・・・・。

見たところ日当たり具合が影響しているようである。池に面した陽光をたっぷり浴びている木は鮮やかに赤く染まり、木立の中、特に常緑樹の傍らで陽光がさえぎられている場所では黄色である。

そこで、仮説を立ててみた。モミジは樹間に生えるので本来陽光は十分ではない、そのため少ない日の光を有効に活用できる葉の仕組みを作り上げてきたのではないだろうか。したがって必要以上に光が当たり、糖分を作りすぎてしまった時には体外に排出してしまうのではないだろうか。

余分にできたら貯めておけばいいのでは・・・・と考えてしまうのは、殆んどの期間を飢餓と隣りあわせで生存してきた人類的発想法なのかもしれない。紅葉する植物は、1年ごとに清算して新たな春を迎えるのかもしれない。それなら、糖尿病やメタボの心配はないし・・・。

しかしモミジの仲間にも、メープルシロプとして幹に糖分を蓄える種類もあるし・・・。  植物の世界も、まだまだ試行錯誤しながら進化しているようである。

そんな事を考えているうちに出発点に戻っていた。1周四キロの行程がずいぶん短く感じられた。



追伸  世界の株暴落はまだまだ止まないようですね。日本株の底は一体いつ来るのでしょうか?

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