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2009/10/30

秋の七草

 久しぶりに近くの里山に行ってみた。ここのところ庭いじり、衣服の入れ替え、都心に出る用事などが続きのんびり自然に浸る時間が取れなかった。

 しばらく見ないうちに、すっかり晩秋の景色になっていた。イネは刈りとられ、柿の実も数がめっきり減り、ヒガンバナは葉だけに変身している。

古来より秋の七草として親しまれている、クズやハギは花が終わって種の季節になっているし、オミナエシ、フジバカマ、ナデシコ、キキョウなどはそもそも身近な自然ではなかなか見られなくなった。

それなら現在の秋の七草はなんだろうと歩きながら考えてみた。

家を出て里山に入るまでの道々、垣根や庭に植えられた山茶花が赤、ピンク、白と色とりどりに咲き出して美しい。空き地にはススキとセイタカアワダチソウがいかにも見慣れた秋の風情をかもし出している。

Nogiku_2 里山に入ると、野菊のしんがりのリュウノウギクが可憐に咲いている。畑の隅には茶の木がツバキを小さくしたような可愛らしい白い花をつけている。

のり面にはノハラアザミ、アキノキリンソウ、ヤクシソウなどもちらほら見かけ、まだまだ蝶や蜂の餌も尽きてはいないようで、ツマグロモンキチョウやモンシロチョウを見かける。

しかしなんといっても木の実、草の実が豊富になってきたためか野鳥が活発に動いていた。久しぶりにまじかでキジやガビチョウにも会えた。

さて本題に戻って、七草の選定に取り掛かりたい。ススキは問題ないであろう。秋全体を見通Rindou_2 せばクズ(葛)もいい。しかしハギ(萩)は草ではなく木の仲間なので省きたい。オミナエシは今ではオトコエシのほうが普通に見られるので取り替えたい。フジバカマも近縁でよく見られるヒヨドリバナのほうにしたい。キキョウは時期的にも夏に近いのでリンドウに変えたい。

後二つである。野菊は当然入れたいし、ヒガンバナ(彼岸花)も選びたい。しかし公平に見たときセイタカアワダチソウもその普及度や景色に彩を添えてくれている事実を見ると省きがたい。そうなると、オトコエシを除くか、数が減少しているリンドウを入れないと何とか七つに納まりそうだ。

しかし七つに絞るというのは本当に難しい。時期により場所により、また人それぞれの好みにより千差万別になるということだろう。

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2009/10/23

キンモクセイの剪定

 今年のキンモクセイの花は見事だった。花つきも良く色も鮮やかで、何より香りがよかった。これぞキンモクセイという感じである。先日の台風がもたらした大雨で葉の汚れがきれいに流されたためかもしれない。

 しかし花もそろそろ散りだしたので、早速剪定に取り掛かった。そんなに急がなくてもとも思うが、のんびりしていると天気が崩れたり用事ができたりで延び延びになって時期を逸しかねない。もともと暖地の植物なのであまり寒くなっての剪定は好ましくない。

それに脚立の一番上でやっと頂上部分の剪定ができるという、私の管理できるぎりぎりの状態だし、なにより東南角地に植えてあるのでこの木の樹高が庭の日照におおいに影響してしまう。

 昼食後2時間ほど頑張ったが、なれない姿勢で、なれない動作を繰り返したため体中がみしみししてきた。しばらく休憩し成果を見ると余り変化していないのにがっかりしてしまう。

 もうひと頑張りと、全体的に長めの枝を切り詰めていると、いつの間にか辺りが暗くなってきた。秋の日はつるべ落としとはよく言ったものである。ひとまず切り上げたが、まだまだとても満足とはいかない。

 明日もう一回奮闘するしかない。

しかし庭を見渡すと剪定の必要な木はまだまだある。落葉樹は葉が散ってからのほうがいいので未だ時間的余裕があるが、イヌツゲや、カイズカイブキはいかにも剪定を待っている風情である。このままだとヤマアラシ状態で正月を迎える事になってしまう。

やれやれ・・・・。それでも中年おばさん、“庭師見習い”まだまだあきらめません!

夕食を食べながらテレビを見ていた。行政刷新会議の面々のやる気満々の姿が映し出されていた。大変さが何となく伝わってくる。何せ何十年も余り手入れされてこなかったこの国の大掃除(剪定?)である。急いては事を仕損じるともいう。もう少し気長に慎重にしてもいいのではと思ってしまうのは年のせいか・・・・。

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2009/10/16

秋の白馬山麓

Shirouma  最近白馬には良く行く。とくに夏の花々の種類の豊かさにはいつも感激する。今年は早春も行ったがそれなりによかった。秋は今回が初めてだと思う。紅葉に染まった山々を期待していたのだが、今年は秋が早かったとかで、栂池公園や八方尾根は目を見張るほどのあでやかさとはいかなかった。

 しかしくすんだ茶色の山並みから、うっすらと新雪をまとった白馬連山を見晴らすのもなかなかいいものだった。

 山麓では清楚な野菊が咲き乱れていた。 道路わき、あぜ道、山のがけ・・・コンクリートNogikuのわずかな割れ目、岩の窪み、いたるところにへばりつくようにけなげに咲いている。たぶんカントウヨメナ(関東嫁菜)だろう。我が家の近くの里山でも見られるが、最近ずいぶん数が減ってきた。やはり豊かな水分ときれいな空気が必要なのだろう・・・。

以前カモシカに出会ったアルプス展望遊歩道に行ってみた。なんと同じ場所にいるではないか。しかも今回は彼女(?)と一緒である。来年は可愛いい二世が一緒かもしれない!http://yamakawa-akiko.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-46bc.html

 展望台まで登った。ロケーションは最高で白馬連峰はじめ信州の展望独り占めという感じなのだが、いかんせん周囲の木が伸び放題で、そのうち単なる木立の中の狭い広場という感じになりそうである。

とはいえ眼下に白馬村の秋の風景をのんびりと見ながら暖かい日差しの中にいるのはなんともいい気分だった。刈り入れを待つ田んぼも点在し黄色と茶色と緑のパッチワークもいい。

日本の何処でも普通に見られた風景である。しかしこの風景がいつまで続くのか・・・。

稲作農業の担い手の高齢化、小規模経営の採算悪化、外国産との競争に耐えられるのか・・・、まるでレッドデータブック記載種並みの絶望的未来しかないといわんばかりの現状である。

しかし国土保全の観点から見たらどうだろうか。日本中に網の目のように張り巡らされた水路と無数の微小規模ダム。梅雨前後などの大雨の時は水を蓄え、ゆっくりと地下水を補充し、雨水で流された土の養分を田に蓄え稲の成長に使われる。

もし日本から水田をなくしたら、急峻な山から流れ落ちる水は河川を通り一気に海に流れ込み日々土地はやせ、地下水も乏しくなり、温泉も今ほど豊かではなくなるだろう。空気中の水分も減少し何となくかさかさした風土になっていくかもしれない。

こう考えてくると、色々批判はあるが現政府の稲作農家の保護は非常に時宜を得た政策のように思える。もちろん長期的には担い手の若返り、豊かに生活できる農業経営等々考えなくてはならない問題は山積みしているとは思うのだが・・・。

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2009/10/09

四川省の旅 8

 三星堆博物館を見に行った日は、蜀の犬もビックリの晴天だった。正門から長い道のりを歩き館内に入った時はひんやりとしてほっとした。ベンチにでも座ってゆっくりしたい気分だったが、日本語の上手な元気な解説員に促されて広い館内を見て回る。

なんとも風変わりな青銅器の数々。極め付きが目の飛び出した仮面。当時の伝説的名君で、広い視野と長期的展望を兼ね備えて善政をおこない人望厚かったという。目が飛び出しているのはそれを象徴的に表現しているのだという。

蛇、竜、虎などの動物のなかで圧倒的に多かったのは鳥の鋳像であった。当時、鳥は太陽を象徴するものとして信仰の中心であったらしい。

解説員はこの遺跡の特異性を強調したうえで、この文明が突如消えてしまったという。消滅したのは多分河川の氾濫によってと推測されるらしいが、こんなに謎だらけで放り出されてしまうと却ってもっと知りたくなるのが人情である。

日本に帰ってからも何かと気になっていた。

ある日テレビで“黄金の都シカン”の展覧会が紹介されていた。精巧な黄金のマスク。なんとその目が飛び出して見えた。宝石を積み重ねたものだが何か因縁を感じて、上野の科学博物館まで出かけてみた。

謎の一端が解けかけた。

6万年前にアフリカを出た人類の一部はアジアに到達する。その一部は更に旅を続け、当時陸続きだった北アメリカに到達するが、更にその一部が南アメリカまで行きアンデス文明を築いたという。シカンはその一つである。仮面の表現に似たところ(目のこだわり)があっても不思議ではない。

Kane 謎のもう一端。この文明はアジアでは何処に行ったのか。

色々ネットで調べてみた。

三星堆遺跡の発見はそれまで空白地帯だった四川の古代文明の存在を知らせ、又その出土品の豊富さに驚かされたという。しかし以前に発掘された他の長江や黄河流域の遺跡からの出土品と共通するものも多く、様々な交流があったと推測される。

また“鳥信仰”は現在でも東南アジアにいろいろな形で残っているという。そもそも日本の鳥居も門の木枠にお守りとして鳥をつけたのが原型だったようで、鳥信仰を留めていたのだろう。

色々考えていると軒先の風鈴が涼しげな音を立てた。数年前、岩手県の南部でお土産に買ってきたものだ。その音に私ははっとした。三星堆で買ってきた鳥の鈴のレプリカの音が余りに似ていたからだ。地震の時、広い館内にその音が響いたという。何となくその音色に惹かれて買ってきたものだ。

音に対する感受性・・・。時代も場所もはるかに離れた三星堆の人々が何だかとても身近に感じられてきた。

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2009/10/02

四川省の旅 7

 都江堰に行った日は朝から小雨が降って夏とは思えないほど肌寒かった。成都から北西に58キロ、震源地汶川にも近く地震の影響は非常に大きかったという。

その惨状を伝えるテレビ映像を当時何回か見た。いたるところでビルが崩落し、家屋が倒壊して呆然と立ちつくす苦悩に打ち沈んだ人々の顔、・・・。

 1年余が経過した。皆どうしているのだろう。

いつの間にかバスは都江堰の市街に入っていた。私の思い描いていた被災地の町というイメージとだいぶ違っていた。何処もかしこも真新しい建物が整然と並び、ビルの建設工事があちこちで行われ、まるでニュータウンの建設現場に紛れ込んだような気持ちになった。だが何か違う。ニュータウンに普通ある活気がない。いやにひっそりとして、道行く人の顔にも余り表情が感じられなかった。

ガイドさんの指摘で、空き地にずらっと並んでいる仮設住宅や、崩壊建物の取り壊し現場などが目に入ってきた。

そうなのだ・・・。ここは震源地から程近く、建物の崩壊だけでなく死傷者数もかなりの数に上ったという。家族、親類、友人・・・・誰かしらが死傷し、その悲しみから立ち直ろうと心の中で必死の格闘が続いているのだ。

 ガイドさんの話では、中央政府は、沿海部の豊かな地域の年間予算の一割を被災地救援に振り向けることを義務付けたという。ここは上海市の支援地になっているとのことで潤沢な予算で、復興とインフラ整備が急速に進められているという。

“でも大事な人を亡くした悲しみから立ち直るのは、そんなに簡単な事ではありません・・・・”

 ここで都江堰について簡単に紹介しておく。

 中国最長の河川長江の数ある支流の中でも最大水量の岷江は、岷山山脈南端に始まり九寨溝、黄竜など周辺の豊富な水を集めて一気に海抜500メートルの四川盆地に流れ下る。都江堰はそこに形成された扇状地である成都平原の要の位置にある。

Shokaturyou かっては暴れ川で、川の周辺は常に氾濫の恐怖に晒され、一方川から離れたところは乾燥した荒地が広がり住む人も少なく、戦国時代、秦が領有した当初は流刑地として使用されたと言う。しかし紀元前3世紀秦の地方長官李冰により非常な難工事の末堰堤が作られ、不毛の荒野は、天府の地に一変した。以後歴代王朝への食糧供給地となる。

 三国時代の諸葛亮も蜀の生命線を守るために1200人の兵を常駐させ、保守整備も怠らなかったという。

 都江堰のすごさは2260余年前の建造物であるにもかかわらず、今なお基本的には当時のまま現役で成都の胃袋を支えているという事にある。

 岷江の本流と取水口の角度、常に一定の水量を取り入れ、堆積物を本流に戻す仕組みなど、今の技術水準で見ても感嘆するしかないという。

 そうして今回の大地震である。本体はなんら損傷を受けることなく一部に少しひびが入っただけであったという。2000余年にわたる人々の知恵と努力が4000年に一度とも言われる巨大地震から成都の人々を守ったのだろう。

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