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2009/10/02

四川省の旅 7

 都江堰に行った日は朝から小雨が降って夏とは思えないほど肌寒かった。成都から北西に58キロ、震源地汶川にも近く地震の影響は非常に大きかったという。

その惨状を伝えるテレビ映像を当時何回か見た。いたるところでビルが崩落し、家屋が倒壊して呆然と立ちつくす苦悩に打ち沈んだ人々の顔、・・・。

 1年余が経過した。皆どうしているのだろう。

いつの間にかバスは都江堰の市街に入っていた。私の思い描いていた被災地の町というイメージとだいぶ違っていた。何処もかしこも真新しい建物が整然と並び、ビルの建設工事があちこちで行われ、まるでニュータウンの建設現場に紛れ込んだような気持ちになった。だが何か違う。ニュータウンに普通ある活気がない。いやにひっそりとして、道行く人の顔にも余り表情が感じられなかった。

ガイドさんの指摘で、空き地にずらっと並んでいる仮設住宅や、崩壊建物の取り壊し現場などが目に入ってきた。

そうなのだ・・・。ここは震源地から程近く、建物の崩壊だけでなく死傷者数もかなりの数に上ったという。家族、親類、友人・・・・誰かしらが死傷し、その悲しみから立ち直ろうと心の中で必死の格闘が続いているのだ。

 ガイドさんの話では、中央政府は、沿海部の豊かな地域の年間予算の一割を被災地救援に振り向けることを義務付けたという。ここは上海市の支援地になっているとのことで潤沢な予算で、復興とインフラ整備が急速に進められているという。

“でも大事な人を亡くした悲しみから立ち直るのは、そんなに簡単な事ではありません・・・・”

 ここで都江堰について簡単に紹介しておく。

 中国最長の河川長江の数ある支流の中でも最大水量の岷江は、岷山山脈南端に始まり九寨溝、黄竜など周辺の豊富な水を集めて一気に海抜500メートルの四川盆地に流れ下る。都江堰はそこに形成された扇状地である成都平原の要の位置にある。

Shokaturyou かっては暴れ川で、川の周辺は常に氾濫の恐怖に晒され、一方川から離れたところは乾燥した荒地が広がり住む人も少なく、戦国時代、秦が領有した当初は流刑地として使用されたと言う。しかし紀元前3世紀秦の地方長官李冰により非常な難工事の末堰堤が作られ、不毛の荒野は、天府の地に一変した。以後歴代王朝への食糧供給地となる。

 三国時代の諸葛亮も蜀の生命線を守るために1200人の兵を常駐させ、保守整備も怠らなかったという。

 都江堰のすごさは2260余年前の建造物であるにもかかわらず、今なお基本的には当時のまま現役で成都の胃袋を支えているという事にある。

 岷江の本流と取水口の角度、常に一定の水量を取り入れ、堆積物を本流に戻す仕組みなど、今の技術水準で見ても感嘆するしかないという。

 そうして今回の大地震である。本体はなんら損傷を受けることなく一部に少しひびが入っただけであったという。2000余年にわたる人々の知恵と努力が4000年に一度とも言われる巨大地震から成都の人々を守ったのだろう。

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