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2016/10/29

16 大叔父   続々

大叔父の家は伝統的な土壁造りで、居住用の一間と、火をおこしご飯を炊くかまどのある6平米ほどの小部屋がありました。入り口を入ると細長い30平米ほどの部屋で、その半分ほどはオンドルでした。そのオンドルは冬の暖房手段であり、私たちの生活空間でもありました。

 

昼間はオンドルの上に、小さな四角い座り机が置かれ、家の人みんなでその小さな机を囲んで食事をします。夕食が終わると、その小机は、壁のそばに立てかけられ、オンドルの上をさっと片付けて布団を引くと、もう寝る準備完了です。朝起きると、布団はオンドルの脇にある戸棚に片付けて、また机を真ん中に出すと、朝食が始まります。

 

私が大叔父の家にお世話になると、夜は大叔父か大叔母の布団に潜り込んで眠りました。この家にはあまり来客がなかったせいもあり、子供の布団まで用意がありませんでした。私自身、小さい時から特に子供用の布団に寝たことがなかったので、全然気になりませんでした。それより、大叔父のうちは狭かったのですが、冬の間はいつでも暖かく、大叔父と学校から帰ってくるとすぐに、熱々の夕ご飯にありつけるのでした。

大叔父が暇なときは膝の上で甘えられるし、とても幸福な気持ちでした。

 

瞬く間に、夏になりました。自分でも不思議な気がしますが、この半年の間、ずっと大叔父の家にお世話になっていたのに、自分の家に帰りたいなんて全然思わなかったのです。

私のうちの印象といえば・・・薄暗く寒い、暗闇、立ち込めた煙と忙しすぎて怒りっぽい母、私がずっと目を離さず見守らなければならない妹。

これらはまだ六歳の私には受け入れがたかったのかもしれません。

 

夏といえば、大抵の子は蚤に悩まされます。当時蚤にたかられるのは珍しくも、恥ずかしくもありませんでした。くつろいでいるとき、大叔母は椅子を庭に出すと、私の脱いだ衣服を太陽の光にさらす一方、櫛で私の髪の毛の蚤を梳きます。櫛でさっと髪の毛を梳くと

すぐに何匹ものピチピチした蚤が、櫛の上ではねます。すると大叔母は慣れた手つきでそれを一匹一匹つまんで、両手の親指の爪で、プチッとつぶします。それから赤くなった爪を見せます。

“見てごらん!ずいぶんと大きいのだったよ!”

 

髪の毛を梳き終わると次は行水です。庭には、水を張ったたらいが用意されています。昼までには、カンカン照りの太陽で水はすっかり暖かくなっています。大叔母は私の衣服をさっさと脱がすと私をたらいに入れます。このたらいはいつもは洗濯に使っているのですが、たいして大きくありません。

庭で行水するといっても、庭の周りに囲いがあるわけでもなく、そもそも境界そのものもはっきりしていません。その場所は自由に使ってもいいと、近所からなんとなく認められているだけです。私は裸ん坊で、道行くご近所さんにあいさつします。

〝李おじさんこんにちわ!“

“王おじいさん・・・”

 

あの時代、満足な食べ物もなく、あたたかな衣服もなく快適な生活環境なんて望めなかった時代、“プライベート”なんてあるわけもありません。新婚夫婦も新居がなく、両親と一つのオンドルで寝起きしていた人も少なくなかったそうです。(当時この窮状を救うため、毛沢東が老人世代に早朝の太極拳を全国的に推奨したそうです。)

 

何はともあれ、こうして穏やかに瞬く間に半年が過ぎ去り、また厳しい冬になりました。

その間ほとんど家に帰らなかったのに、なぜだか、その日は自分のうちのオンドルで寝ていました。真夜中、私は母に揺り起こされました。

“浩ちゃん、早く起きなさい。大叔父さんが亡くなったのよ!”

“亡くなったって、どういうことなの?”

“それは…死んじゃったってことよ!”

 

“死!”それって何?とにかくあまりいいことではないみたい。だって母の顔がとても緊張して、不安そうだもの。母は私を抱き上げ、靴を履かせ、すぐに妹を父の背中におんぶさせ家を出ました。その間、みんな押し黙っていました。

 

外は真っ暗でした。雪は降り続き、かなり積もっていました。家から大叔父の家までは、鉄道の線路に沿ってずっと歩かなくてはなりません。雪は深く積もり、道がどこだかわかりません。母が私を線路の上を歩かせたのは、深い穴などに落ち込むのを防ぐためでした。

 

風が強く、雪が激しく吹き付けます。私はまだ半分夢うつつの中、母に引きずられるように、一歩一歩大叔父の家に向かいます。雪は腿の高さまであり、一歩歩くごとに母は私を雪の中から引っ張り上げなければなりません。綿入れのズボンは濡れていましたが、体中から汗が噴き出て、あまり寒いとは感じませんでした。

 

大叔父の家に着くと、近所の人や、近くの親戚であふれかえっていました。大叔父はオンドルでなく、狭い通路に置かれた長椅子の上にまっすぐに横たわっています。大叔父は無表情に長椅子に寝ている・・・・。

 

皆沈鬱な表情をしています。どうして大叔父さんは長椅子の上で寝なきゃいけないの?私もなんとなく変だと感じ始めました。でも何が変なのかわかりませんでした。

 

一人のおじさんが私の前に来て手を引きながら、大叔父が死んでしまったこと、もう私と一緒に遊べなくなったこと、もう私の面倒も見られなくなったことを告げました。おじさんは私に、大叔父さんと握手してお別れするように促しました。私は一言も発せず、こわばって柱にへばりついたまま動けませんでした。

 

後から聞いた話ですが、大叔父は真夜中に暖房用の石炭による一酸化炭素中毒になり、眠ったまま亡くなったそうです。夜、ストーブの煙の換気が不十分だったようです。

 

死・・・、七歳の私の前に突然突き付けられた現実でした。

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2016/10/23

16  大叔父   続

東北地方の冬の訪れはとても早いのです。九月には薄手のセーターが必要になり、十月に薄手のオーバーになったと思うと、十一月にはもう雪の季節となります。

 

小学校入学以来、母は私の首に家の鍵をかけました。学校が終わるとすぐにうちに帰って宿題をしなければいけません。一人で家に帰っても、うちの中は冷えきっています。魔法瓶の中のお湯も一日たっているともう凍っています。そのうえ4時を過ぎるとあたりは暗くなり、一人で階段を上るのは怖いのです。当時、階段には明かりがなく、暗くなってから階段を上るときは、懐中電灯を使わなければなりません。懐中電灯の弱い光が足元を照らしても、後ろはもっと暗く感じます。いつも、なんだか両手が暗闇から私に向かって伸びてきているようで、後ろを振り向くのも恐ろしかったのです。

放課後一人で家に帰るのは、私にとって寒さよりも暗闇の方がよっぽど恐ろしかったのです。

 

同じクラスに、アパートの同じ棟で階段が違う子がいました。放課後いつの間にかこの子について彼女の家に帰るようになりました。門を開けると暖かな空気がふわーと迎えてくれます。それに続いて彼女のお母さんの小言が聞こえてきます。

 “早く手を洗いなさい!”

“先に宿題を済ませるのよ!”

友達はうるさそうで、もう聞き飽きたという感じです。でも私にとっては、これらこそ

自分のうちという感じなのです。電灯の明かりは決して明るくはないのですが、お母さんが近くにいてくれるなんて何よりのぬくもりなのです。

 

私と友達が部屋で宿題をしていると、彼女のお母さんは台所でジュウジュウと野菜をいためています。しばらくすると、ご飯の用意ができます。友達にご飯を食べなさいという一方、わたしに聞きます。

“あなたまだ家に帰らないの?ご飯食べなくていいの?“

あの食糧難の時代、どの家でもよその子まで食べさせる余裕はなかったのです。

私はすごすごと、カバンを片付け階段を下りるしかありませんでした。

 

私はどうしても、一人で冷え切った真っ暗な家に帰っていく気がしないので、道端の街灯の下で母が仕事を終え帰ってくるのを待っていました。

雪が降ってきました。ボタン雪が、舞い降りてきます。顔を上げると、街灯の明かりの中をひらひらと私の頭に降り積もります。そして溶けて冷たい水玉になって、私の髪を伝わって落ちてきます。

 

道行く人は、そそくさと通り過ぎ、自転車もぎしぎしした音を出しながら過ぎ去ります。私はこれらのきしみ音の中から、母の自転車が現れるのを待ち焦がれます。私はとっくに、凍えておなかがすいて倒れそうです。

私はぼんやりと、荒れ狂たように舞い降りてくる雪を見ていると、だんだん頭がボーとしてきます。どんなに待ち続けたことでしょう。

まだ一才未満の妹をおんぶして、自転車を押した母が私の前に立っていました。

”寒かったでしょう、お家に帰りましょうね!“

母は疲れ果ててもう声を出す元気もないという感じです。

 

私たちは四階に住んでいました。自転車も四階まで持ち上げなくてはなりません。1979年といえば、一般庶民にとって、自転車は贅沢品でした。うちが何階であっても絶対に家の中まで運ばなければなりませんでした。誰かに盗まれるのを防ぐためだけではなかったのです。当時の寒さと来たら真夜中は零下40度前後になり、自転車のタイヤが凍結してしまうのです。

 

私は懐中電灯で階段を照らしながら前を歩き、母は妹を背負い、自転車を持ち上げてよろよろとついてきます。突然妹がわっと泣き出しました。どうも階段の曲がり角で、母の担いでいた自転車がぶつかってしまったみたいです。私が振り返ると懐中電灯も後ろを照らし出します。すると進行方向が真っ暗になり、母が前車輪を、階段の踊り場に思いっきりぶつけてしまい、母は躓いてあわや下に落ちそうになりました。

“なにしてるの!!ちゃんと前を照らして!”

母は怒ってしまいました。妹はまだ泣き続けています。私は唇をかみしめ、頭を下げて注意しながら階段を照らし続けます。

 

ついに家に着きました。母が明かりをつけ、自転車を台所と寝室の間の通路に置きます。それから部屋に入って、おんぶしていた妹を下ろします。

”妹を見ててね、私は火を起こして、ご飯を作ってくるから。“

母は妹をあやしている暇もありません。部屋の中は冷え切っていてオーバーを脱ぐこともできません。水を飲もうにも、ご飯を食べようにもまず火をおこさなくてはなりません。

 

もこもこの木綿の綿入れにくるまれた妹は、まるでまん丸いボールみたいです。ふぎゃあふぎゃあと硬いオンドルの上をゴロゴロと動き回ります。妹がオンドルから地面に落っこちて、母に怒られないように私は、ずっとそばに立って見守ります。しばらくすると、濃い煙が台所から流れてきます。オンドルがようやく熱くなってきて、しばらくすると部屋全体もあったまってきます。

 

ついに私たちは、分厚いオーバーを脱ぐことができ、お湯を飲むこともできるのです。

そして間もなくご飯になります。高粱飯・・・。

その頃は食糧難で、配給票がないと、現金だけでは買えなかった時代でした。毎月国が支給してくれるお米の量は十分ではなく、私たちはいつも、高粱飯を食べていました。たまに母は、熱々の高粱飯に、少しの豚油(ラード)を混ぜ込み、その上に醤油を少々かけます。こうすると、もともとごわごわした高粱飯に何となくお肉の香りがしてくるのです。本当に不思議でした。

 

日ごとに寒さが増してきます。毎日街灯の下で仕事から帰ってくる母を待つのはだんだん耐えがたくなってきます。足は凍えて赤く膨れてきます。耳は凍ってかゆくなってきます。しばらくすると、かかとにしもやけができて、薬を塗って何とか我慢していました。

大叔父はそんな私を見かねて、家に引き取ってめんどうをみてくれることになりました。

 

大叔父の家は、もともと私の家からあまり離れていません。まっすぐに伸びた鉄道にそってしばらく歩くと着きます。学校が終わると、私は大叔父の工場で時間をつぶします。(当時学校は副業として工場を経営していて、大叔父が責任者でした。)大叔父の仕事机に腹ばいになり宿題をします。大叔父が帰宅するときは、一緒に連れて帰ってくれます。帰り道、私は枕木の上を、一本一本ピョンピョン飛んで、少し疲れたなと思う頃大叔父の家が目の前に現れます。大叔母は外で働いてなかったので、夕食の準備を終え私たちの帰りを待っていてくれました。大叔父の家はいつでも暖かく、ご飯もおかずもできたてのホカホカでした。しかもごくまれですが肉にありつけることもあったのです。

 

こういう事情で、私は大叔父の家に住むことになりました。毎日大叔父と一緒に、登校し下校します。大叔父も大叔母もとても私をかわいがってくれました。もしあの事件が起こらなかったら、私はずっと大叔父と一緒に生活していたと思います。

 

                                 ( 続く )

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2016/10/21

16 大叔父

 

小学校に入学して、勉強についていけなかったことはひとまず置いておくとして“昼ごはんがまず大きな問題でした。当時はまだ給食がありません。その代わり、学校には大きなおかまが用意されていて、その中に大きな鉄製のかごがあって、かご毎にクラス名が書かれていました。各自自分のアルマイトの大きな弁当箱をその中に入れておきます。昼になると、先生は当番の生徒に、そのホカホカになった、弁当の入ったかごを教室まで運ばせます。ごはん時の教室のにぎやかさは言うまでもありません。

 

私は大叔父の縁で、ちょっと特別待遇をしてもらいました。毎朝、私は研いだお米に、少しの醤油と、ひき肉とねぎのみじん切りが入ったお弁当箱を、職員室で待っていた大叔父に渡します。すると大叔父は、それを職員用の小ぶりのおかまに紛れ込ましてくれます。

出来上がった、醤油いろに輝き、肉の香りが漂ったご飯は、当時の子供たちにとっては垂涎の的でした。

 昼ごはんが終わると、大叔父は毎日、5分をアイスキャンデイ代として渡してくれます。当時母の月給は十数元(1元は100分)だったので、こんなお嬢様みたいな贅沢をさせる余裕はありませんでした。

 ある日の昼休みのことです。大叔父のくれた5分を握って、ちょうどアイスキャンデイを買いに出かけようとしていると、一人の若い女の先生が私を呼び止めました。先生は仕事が忙しくて、昼ご飯を食べ損ねたのでパンを一つ、ついでに買ってきてほしいとのことです。当時パンは一角(10分)でした。先生のお手伝いができるので、私は大喜びでした。学校の片隅にある売店で、私の顔より一回り大きな黒パンを一つ買いました。

 先生のためにこのパンを買うまで、私は一度もパンを食べたことがありませんでした。手に持った柔らかなパンからは、甘い香りが漂ってきます。私はそっと鼻に近づけ、その香りをかぎました。なんておいしそう!思わず手に力が入って”プチ”。ほんのりと香ばしい麦の香りが広がりました。

 ダメ!人のものをとっちゃダメ。大叔父がいつも言ってたじゃない。

ダメ!人のものを取ったら、おまわりさんにつかまるって、先生がいつも教えてくれたじゃない。

ダメ!ダメ!ダメ!!

でも口は言うことを聞かず、パンに向かっていきます。ちょっとずつかじってしまいました。

その何とも言えない、夢見心地の経験は、今でも生々しく思い出すことができます。

売店から職員室までは、たいして長くない廊下があるだけです。でも私にとってそれは、とても長く感じられました。初めてのパンを先生に渡さなければならなくなった時、なんだか先生が、もともと私のものだったのに、無理に取り上げているように感じて泣きそうになりました。後でこのことを知って、大叔父は先生に謝ってくれるとともに、やってはいけないことは、どんなに誘惑が強くても絶対にやってはダメだと教えてくれました。

 入学当初は、私の行動はすべて大叔父にゆだねられていました。大叔父は何かにつけ教室の窓際を通っては、私を探します。見つけると、ちょっとうなずくと行ってしまいます。私はというと、しょっちゅう先生に注意されて、立たされています。大叔父が様子を見に来るたびに私は膝をちょっとかがめます。もともとみんなより小さかったので、そうすることでみんなと同じように椅子に座っているように見えると思ったからです。大叔父も何も言わないので、お大叔父をだませたと思っていました。

でも後になって、母と大叔父との何気ない会話の中で、大叔父はみんなお見通しだったことを知りました。

                             ( 続く )

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2016/10/18

ブログ再開します

随分と長いこと休んでしまいました。

原因はいろいろありましたが、今は精神的にも、時間的にも余裕ができたので、

そろそろ再開してみようかなと思っています。

人間70歳代になると、いろいろとがたが出てくるもので、

最近はよく転ぶようになってきました。

先日も家の中で転んで頭を強打し、この年になって人生最初のこぶを作ってしまいました。

転ばぬ先の杖といいますが、今からでも遅ればせながら杖を使おうかなと思っています。

“浩さんの物語”を再開します。

浩(ハオ)さんはお子さん2人の“お受験”も潜り抜け、

今は仕事を続ける一方、余暇にはホットヨガに通い、中国茶道を楽しんでいるようです。

浩さんの成長を通じて、バックの中国の発展を垣間見れるようで

 私自身、毎回の原稿を楽しみにしています。

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