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2016/11/19

学校内の工場

 16.大叔父>の中で、学校内に工場があることに違和感を持たれた方もいると思いますが、これは中国、特に建国当初の中国ではふつうにみられることでした。

 

長年の戦乱で疲弊した中国では、国の資金も極めて乏しく、“自力更生”の精神で、少しでも自分たちで資金をやりくりすることが必要だったのでしょう。

これは中国人民解放軍(前身は紅軍)にも見られます。

 農村部で農民一揆的要素もあって成立してきた紅軍は、農民の支持を得るため、

 はじめは住民から“サツマイ一本でも取るな!”のちには“針一本、糸一筋取らない”精神を貫き、広く農民(当時人口の90パーセント)の支持を得たということです。

 そのため自分たちで使う衣服、武器、食料…と多様な物資の生産を自ら行っていました。<6.飴泥棒 >で見られた飴工場もそのうちの一つです。

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2016/11/07

17 父の転職

大叔父の死は、私にとっては理解の範囲を超えたものでしたが、つまるところ大叔父は、私の面倒をもう二度とみてくれることができなくなったのです。父は相変わらず仕事で忙しかったし、母は仕事以外に幼い妹の面倒を見なければならなかったので、私はまた、首に鍵をかけ、おなかをすかし、満天のボタン雪を見ながら母の帰りを待つ生活に戻りました。

 

こののち我が家にはいくつかの大きな変化がありました。

 

その一:父の出世

父は無線電器の部品の生産現場で働いていました。その頃、納品前の部品がしばしば紛失し、犯人がどうしても見つかりませんでした。この件の解決が、以前軍隊で偵察を任務としていた父に託されました。さすがかっての偵察隊隊長だけあって、父は現場に数日潜み、犯人を現行犯逮捕しました。これにより、現場の被害をなくし父の名声は広く知れ渡りました。

 

好都合なことに、当時、省の検察は人材不足でした。一般人から求人すると教育の手間もかかり、急な需要に間に合わないため、たまたま小都市で少々評判になった父にお呼びがかかり、数か月後には、正式採用となりました。

 

この臨時の採用は、父の運命を大きく変えました。それはまた私たち一家の運命も大きく変えることになったのです。私たちが、父の出世をお祝いしているとき、地獄の門が私にその扉をひそかに開けつつあったことに気が付きませんでした。十年後、私は父の地位の高さと、人もうらやむ高収入によって、徹底的に地獄の深みに突き落とされることになるのです。

 

その二:引っ越し

 

父は、石炭を燃やして暖を取るアパート暮らしをやめ、市の中央にある一軒のかなり古い一戸建てに移ることにしました。その家は細長い胡同(中国の横丁)の端にありました。そのあたりにはいくつかの胡同があり、これらの胡同は蟻の巣のように、あるいは抗道のように縦に横にと続いていました。

 

家には水道もなければ、下水もありません。毎朝、父は胡同の中央にある井戸に行き水を汲みます。各家には、1メートルほどの高さの水がめがあり、洗顔・洗濯・食事の用意など生活用水はみなこの水がめに頼っていました。

家にはトイレもありませんでした。昼間トイレに行きたいときは、胡同を横切り、よその胡同の公衆便所に行かなければなりませんでしたが、歩いて5分前後かかりました。夜には、壊れた古びたペンキの空き缶がおまる代わりです。上に座ると、長くなるとお尻が痛くてたまらず、私はいつも中腰で使っていました。

 

早朝、胡同が最もあわただしい時間です。それぞれの家の主人はみな様々な容れ物で作ったおまるをもって“もう食事すんだ?”“まだだよ。おまえは?”などとあいさつしながら公衆トイレの外側に並びます。みんな一晩の家族の汚物を捨てるため、5時半から6時半ごろまで、トイレの前の行列は数十メートルにわたります

しかし皆、この数十分の行列をあまり苦痛に感じません。この時間は情報交換の貴重な時間になります。野菜市場の値段が上がったかどうか、自分のうちの配給票があまりそうか、洋服を作ろうと思っているんだけど、だれか布の配給票余っていないか・・・・。

まだインターネットがない時代、主婦や主夫にとっておまるを持ちながらの情報交換はとても大事なひと時でした。

私もこんな賑わいで始まる一日をとても面白く感じていました。

 

その三:転校

 

私は引っ越しに伴い、新しい家の近くの少しばかり有名な小学校に転校することになりました。そのときはもう3年生でした。今でも思い出すのですが、先生は書類に目を通すと私の年齢を見てびっくりし、何回も私に確かめました。

 

“あなたは実際のところ何歳なの?”

 “私は7歳です”

 “でも私のクラスの生徒はみんな9歳になっているわよ!”(当時大体7歳で小学校に入学していました。)

 私は当然、大叔父が副校長だったので、彼の特権で押し込んでもらったなんて説明できませんでした。

 

 

 名門校だけあって、二階建ての校舎で、教室の床板はペンキで赤く塗られ、とても恰好よく、さらにいいことに教室は暖房が効いていました。冬でも教室で石炭を燃やす必要がないので、石炭の煙の中、黒板の小さな字を探すこともなく、空気もすがすがしかったのです。それに、先生は若くて美人だし、同級生の着ている衣服も以前の学校に比べたらずっとセンスがいいのです。

 

 

学校に行きだしてしばらくすると、私たちは映画を見ることになりました。私が興奮したのは言うまでもありません。父や母は忙し過ぎて、映画に連れて行ってくれたことはありませんでした。

 

 

映画の題名は“小さな兵隊張君”といい、抗日戦争映画の古典的なものでした。日本軍が東北地方(旧満州)に侵略してきたときの出来事です。大挙して東北に押し寄せた日本軍は、道々、民家の食料を奪い、反抗した人たちを殺戮しました。日本軍が、ある村を通過しようとしたとき、張君に道案内をさせました。当時、村にはたくさんの傷ついた八路軍や、ゲリラ部隊がいました。張君は機転を働かせて、日本軍をあらかじめゲリラ部隊が布陣しているところに誘い込み、日本軍を撃退することができました。しかし当然彼の尊い命も失われました。

 

 

映画を見た後、私たちは教室に戻り、討論会を開きました。最後に先生が情熱的に締めくくります。・・・・今の私たちが平和で幸福な生活を送れるのは、愛国者の犠牲によってもたらされたものなのです。私たちは感謝しなければなりません。祖国のために身をささげたことを学ばなければならないのはもちろん、巨大な敵を前にしても怖気ることなく、村人を救った張君の聡明さや、知恵を学び取らねばなりません。

 

毎回毎回、先生は同じような結論に持っていきます。しまいには聞き飽きてしまいました。

 

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