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2016/12/04

18 胡同での日々

アパートは立体的なので、同じ階段の住人以外と顔を合わせる機会はあまりありません。それが胡同となると様子は一変します。毎朝、胡同は最もにぎやかな時間となります。トイレに行く人は、トイレに行きます。井戸に水を汲みに行く人は、井戸に行列を作ります。みんなおしゃべりに熱中し、各自が持っている情報を交換します。

  “食事済んだ?”

  “まだよ、今朝はあなた方何食べた?”

 

  “昨日はうちの宿六、またぐでんぐでんになるまで酒を飲んだんだよ。もう家は、おまんまの食い上げだよ!どうやって生きていけばいいんだよ?”

 

  “先日お宅の息子さん、きれいな娘さん連れて帰ってきたでしょう。未来のお嫁さんかしら!

 

話がはずんで、いつの間にか、仲良しグループができたり、中には子供同士の縁談がまとまったりします。当然話の行き違いで、いがみ合うケースも出てきます。

 

子供たちの成長や教育の問題に関して言えば、周りの大人たちの関心は、背が高くなったかどうかとか,ちゃんと食事ができているかぐらいでした。だから誰も私の成績がどうかなんて聞いたこともありません。だから私にとって、この胡同はとても居心地がよかったのです。なぜなら、当時私は、勉強が全く苦手だったのです。

 

胡同の人々はとっても暖かだったのですが、胡同の冬はやはり厳しいものでした。

 

寒さを防ぐため、父は家の窓枠の隙間を、綿で埋めた後、窓枠を新聞紙でしっかり塞いで、最後に窓の外側から大きくて丈夫なビニールで覆います。このようにすると部屋の熱は外に逃げなくなり、外の零下40度の冷気も防げます。ただもともとあまり明るくなかった部屋がなんとも薄暗くなりました。

 

秋になると、父は安価な石炭屑を買ってきました。それに少々黄土を混ぜて、レンガ状の塊を作り胡同の外の広場に並べて干します。この石炭レンガが十分に乾いたら、一個ずつ

家に持ち帰り、家の物置にきっちりと積み上げます。これが私たち一家のひと冬用の暖房と炊飯用の燃料となるのです。

 

ある年、また石炭レンガを広場から運ばなければならない季節になりました。ずらっと干された石炭レンガを家まで運ぶには何時間もかかります。私はとっさにいいことを思いつきました。近くにいた同じ年頃の子供たちに、みんなで手伝って、と声をかけました。いつも子供たちは目新しいこともなく、十数人ぶらぶらたむろしていました。手伝いであろうと、遊びであろうと大した違いはありません。みんな誰が一度に運べる石炭レンガが一番多いか競争になりました。

 

何人かは、腕を前に伸ばし、ほかの子に自分の腕の上に石炭レンガを積み上げさせました。それがあごの高さに届いたところで、胸にしっかりと抱え、下あごで一番上の石炭レンガを抑え、一歩一歩平衡を保ちながら前に進みます。石炭レンガはとても重く、足元も見えないのに頑張って運びきりました。

 

仕事をすべてやり終えたとき、私たちの顔も、衣服の胸元もみな真っ黒に汚れていました。

たぶん家に帰った時、お母さんからみんな、ひどく怒られたと思います。

何はともあれ、数時間一緒に夢中で汗を流した私たちは、まるでひとつの結社にまとまったような感じでした。これ以後、放課後はいつも一緒の遊び仲間になりました。

 

父と母の生活は、相変わらず以前と同じでした。妹は母の職場内保育所に預けられていたので、母は私の昼食を用意するために帰宅できませんでした。父は何しろ仕事第一の人です。仕事に区切りがつくまで、決して帰ってきません。(当時は給食がなく、昼食は家に帰って食べました。)

 

私は毎日、うちの門の前にうずくまり,胡同の入り口を眺めて、制服をパリッと着たかっこいい父の帰りを待ちました。おなかがペコペコでした。毎日毎日極度の飢えの中じっと待つのは耐え難かったので、気を紛らすため地面に字を書き、自分に言い聞かせました。十個字が書けたら制服姿の父がきっと胡同の入り口に現れる・・・・。

私は飢えからくる強烈な願望を込めて、必死に地面に字を書きました。その執念が通じたのか、私が十個目の字を書き終えたとき、父が自転車を押して,胡同の入り口に現れました。ウソ!!それが何度も続くので、私には神通力があるのかしらと思ったりしました。(今思うと偶然に過ぎなかったと思うのですが。)

 

父がやっと帰ってきたとき、もう午後の授業が始まる時間が迫っていました。それで私の昼食は大体、冷たいご飯に醤油をかけただけのものでした。(もしあのころ電子レンジがあったらどんなに良かったことでしょう!)

私は、大急ぎで“冷や飯”を飲み込み、学校に走らねばなりません。こんな生活が続いたので私は重い胃炎を起こしてしまい、度々朝起きられなくなりました。

 

もっと後になると、父自身は職場で昼食をとるようになり、私に毎朝1角5分渡すだけになりました。1角でパンを買い、5分でサイダーを買うのです。はじめのうち私はそのパンとサイダーをもって家の近くの友達の家に行って食べました。

ある時友達が、彼女のお母さんに言いました。

“浩ちゃんちって貧乏なのね。毎日一個のパンしか食べられないなんて!”

彼女のお母さんは、慌ててかばって言ってくれました。

“誰でもパンを食べられるわけじゃないのよ。パンはとても高価なのよ!”

今でも私は、あのお母さんに感謝しています。なぜならその説明のおかげで、私はそのあとずっとお金持ちになったような気分に浸って、冷たいパンを食べ続けられたからです。

 

それからどのくらい経ったか忘れましたが、私は友達の家で昼ご飯を食べなくなりました。パンを買った後、パン屋さんの外側にある階段で食べるようになりました。冬、相変わらず、あたり一面吹雪が舞う中、硬いパンと冷えたサイダーを飲み込むと、胃がすぐに痛くなります。

 

また二年が経ちました。胃の病気はますます重くなります。おばさん(母の二番目の妹)が見かねて、私をおばさんの農村の家に預かってくれることになりました。

 ( 続く ) 

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