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2017/01/30

“肥水不流外人田”

 

この言葉は、一時代前の中国の農民の正直な本音だったと思います。人糞が生産量を左右するのですからまさに死活問題だったと思います。

 

 

 

しかし現代、一国のトップがこれを公言し、国の方針としたらどうでしょう。もちろん肥水は金、田は国と置き換えての話ですが・・・・。

 

 

 

しかもグローバリズム(勝者総取り方式)を先日まで推進してきた国のトップです!

 

彼がもし偉大な指導者になるつもりなら、自国の数パーセントの超富裕層のお金を、半分でも、食料切符で生をつないでいる貧困層に還元する仕組みを考えたらいいのではないでしょうか。

 

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2017/01/28

22  農村へ  続々

中国には“肥水不流外人田”(良いものは、他人に渡さない)ということわざがあります。この言葉は、小学校の教科書で見たのですが、要するに自分達の利益をむざむざ他人に渡さないという意味だと思います。

農村で生活していて、この言葉のもともとの意味をしっかり体得できました。

 

おじさんは家の庭に簡単な便所を作りました。もしそこから、強烈なにおいがしなかったら、そもそも便所と気が付かないようなものでした。

 

どんなに簡単かというと、庭に大して深くない穴を掘り、上に広めの二枚の板を渡しただけです。でもいくら自分の庭の簡易便所とはいっても少しは遮蔽物が必要です。

そこでおじさんは、畑で干してあったトウモロコシの茎を抱えてくると、麻縄で小さな束をたくさん作り、それで周囲を囲みました。

これで高さ1メートルほどの囲いのある、屋根のない簡易便所が完成です。

 

便所の中身がいっぱいになったら、叔父さんは大きな桶にくみ取って、天秤で担いで、自分の家のトウモロコシや野菜畑に撒きます。

 

なあんだ、“肥水”って自分の家のおしっこやうんちのことだったんだ!

私は突然疑問が解けました。しばらくは自分の頭の良さにうかれていました。

 

でも実際のところ、この簡易便所に町から来た私はなかなか慣れることができませんでした。

まず囲いが低すぎて下半身がやっと隠れるだけです。自分のうちの庭なので、見られてもどうってこともないのですが、このような便所は、村のいたるところにあります。中には作られてからだいぶたって、風雨にさらされ、そこかしこ隙間ができているのもあります。

そんなことはお構いなしに、村のおばさんたちは用を足しながら、そばを行きかう人とおしゃべりします。

 

“どこへ行くの?”

“ちょっとそこまで。”

“食事済んだ?”

“まだよ。”

“夕食は何にするの?”

 

 

“不流外人田”

賢い私は、この語句も理解できました!あちこちに便所があるのは“肥水”を無駄にしないためなんだ!

 

便所に関して、私にはもう一つ忘れられない出来事がありました。

東北地方の冬は、ひとたび雪が降りだすと、まず数日降り続き、1メートルぐらい積もります。屋根のない便所も当然雪が積もります。おじさんは時々雪かきするのですが、足置きの板は、滑りやすくなります。

ある大雪の後のこと、私はうっかりして足を踏み外し、下の穴に落ちてしまいました。私はびっくりして

“助けて!便所に落ちちゃったよ”とさけび、必死に上の方へよじ登りました。

幸い、穴はそれほど深くなく、零下30度の世界では、何もかもみんな凍り付いています。足元も固く凍り付き、何とかはい出たときに衣服は全然よごれていませんでした。

 

農村の生活は、まさに自然体でした。

お腹がすいたら食べる。

 どんぶりをもって、入り口に座って通りがかりの人と世間話をしながら食べる。机を持ち出し、ハエを追い払いながら、大声でおしゃべりし、時には酒をちびちびやる。またある時は、おかずをどんぶりに空けて、両手でどんぶりを持ち、箸を耳に挟んで、隣のうちまで出かけ、ご機嫌でおしゃべりしながら食べる。

 眠くなったら眠る。

それが草むらでも、田のあぜ道でも全くお構いなしでした。(もちろん冬は例外です。)

 

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2017/01/21

21 農村へ  続

叔母さんの家の近くには小学校がありました。夏休みが過ぎると、私は母が新調してくれた衣服を着て、転校の手続きをしました。この学校は、この村では唯一の小学校で、一学年に一学級しかありません。

クラスの子の大部分は今まで町に行ったことが無く、農村以外の世界を知りません。それでみんな興味津々の目で私を見つめ、私のことを“町の人”と呼びました。私は結構この呼び名が気に入りました。何となく優越感を感じられたからです。

 

学校は山あいにあり、周囲に塀もなく、運動場を横切るとすぐ裏山に登れます。

お昼休み、私たちは家に帰って昼ごはんを食べた後は、みんなで集まって、山に登り果実を探して食べます。

農村の子供は、自分のおやつは自分たちで見つけます。

みんなは私を引っ張って裏山に登ると、サクランボぐらいの実がたわわになっている木を指さします。

“これが今の旬の果物、カイドウだよ”

それまでにも山に生えている野イチゴ、野サクランボ…は当然みんなのおなかの中に入っています。

どの果実がどこに生えているか、いつ熟して、いつが食べごろか、みんなちゃんと知っているのです。

 

九月のカイドウの実は、黄褐色に熟し、その甘酸っぱい実は食いしん坊達の最高のおやつでした。

このカイドウは大木でした。男の子たちは慣れた様子で木の中腹に登ると、細めの枝を折って私たちに投げてくれます。女の子達は木の下で待ち構えていて、枝に着いた実をパッパと摘み取って自分のポケットに入れます。ポケットがいっぱいになると

“もう充分よ!”と叫びます。男の子たちはさっと木から滑り降りてきますが、全身毛虫だらけです。

 

ほかにも“臭李子”という実がありました。これは私たちが先を争って、時には友達を出し抜いてほおばったものです。熟したその実は、真っ黒で甘酸っぱく、ちょっとつまんだだけで濃厚な果汁が出てきます。私たちは木の下にしゃがんでひたすら摘み取っては食べ、摘み取っては食べと、他のことはみんな忘れてしまい、食べ終わると、口も歯も舌も、みんな真っ黒になってしまいました。口を開けて笑うと、そっと食べたつもりでも、すぐにばれてしまいます。

 

果実以外にも、皆は私を山菜取りに連れて行ってくれました。“ノビル”“キスゲ”“タンポポ”などなど。おかげで私は授業中教室にいる以外は、たいていの時間を山で過ごしました。

数日の内に私は村の子と同じ“野生児”のようにさっと木に登って果実を採ったり、小刀や錆びた鉄格子で山菜を掘り出し、山菜にくっついている土を落として、そのままかじったりしていました。山菜取りはしかし単なるお遊びでなく、たくさんとれた時は家に持ち帰って、夕飯のおかずになりました。自分たちの収穫で、家の人が喜んでくれるのを見ることは、それなりにうれしいものでした。

 

毎日このようにあたりが暗くなるまで帰らなくても、叔母さんは私を叱りませんでした。なぜなら村は大きくないし、家々はみんな知り合いなので、とても安全だったからです。

 

叔母さんは夕飯の用意ができると、門の前で大声で私を呼びます。

“浩(ハオ)ちゃん、ご飯よ!”

声は村中に響き渡り、村のみんなに聞こえます。

 “はい!” 私もすぐに返事して家に走って帰ります。

ところが叔母さんの発音は東北訛りが強いので、浩(ハオ)が“猿(ホウ)”と聞こえてしまいます。それで、村の遊び仲間は私を遊びに誘うとき、叔母さんの口真似をして、村の真ん中で“お猿さん遊ぼう!”と大声で叫ぶようになりました。

 

村ではそれぞれの家で畑を耕しています。それは学校から少し下った、みんなの家がある所との中間の小高いところにありました。

夏には一面にキュウリ、トマト、ナスが実ります。土の中にはネギやサツマイモやジャガイモなどが育っています。

夏になると私たちは、もうわざわざ山に行って果実を探さなくなります。誰かの家の畑からトマトやキュウリなどを取って衣服で土などをふきとり、そのままカブリつきます。

それをとがめて、子供たちをしかった人の話など聞いたことがありませんし、私たち自身も“盗んでいる”なんて思ったこともありません。

なぜなら、いつも畑の持ち主は私たちを見ると、自分で摘んできてくれるからです。

 

秋になってトウモロコシやサツマイモが熟れてくると、畑はもっとにぎやかになります。

それぞれの家で収穫したトウモロコシを持ち帰り、すぐに食べる以外は、棒にかけて庭に干し、乾燥したら、粒をもいで、すりつぶして粉にします。その粉を丸めてトウモロコシ団子を作り美味しくいただきます。

 

私たち子どもはというと、ますます大胆になります。

空き地の土が柔らかな場所に、手でかまどを作ります。それに拾ってきたトウモロコシの乾いた茎を入れ、火をつけます。その後近くのトウモロコシ畑から何本かのトウモロコシをもいできて、そのまま火の中に投げ込みます。

私たちは火を囲んで、怖い話をしゃべりながら、トウモロコシを時々ひっくり返します。

しばらくすると、トウモロコシが火の中でポンポンとはじけ始めるので、それを比較的火勢の弱いところに移してじっくりと焼き上げます。そのうちに香ばしいにおいが周囲に漂い始めると、ちょうど食べごろとなります。焼き上げたトウモロコシには黒い煤がついていて、それを食べている私たちの顔も、真っ黒になりました。

 

冬になると、私たちはまた山に向かいます。みんなダンボールをもって、その上に座り、だれが一番遠くまで滑れるかを競います。もっと刺激的なのは200メートル余りの坂にダンボールで道をつけ、プラスチック製の靴を履いて、坂の上から一気に滑り降りるのです。スキー板のないスキーでした。

 

農村の一年は四季を通じて、子供たちにとっては変化に富んだ、実に楽しいものでした。

 

カイドウ  ここでは“実海棠”だと思われます。日本では“花海棠”と呼ばれ、 花が美しいのですが、実付きは悪いようです。

 

臭李子   クロウメモドキに似ているのですが、日本ではあまり見かけないようです。

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2017/01/15

20 農村へ

父の仕事はますます忙しくなり、私の毎日の食事は、更になおざりにされました。

しばらくすると私の胃はすっかり調子を崩してしまい、痛みのためしょっちゅう床で転げまわり、時には登校するのもつらくなりました。

 

ある人が母に一つの漢方を紹介してくれました。それは翁草(オキナグサ)の根っこを一時間ほど煮詰め、その中に玉子を一つ割り入れるというもので、何回か服用したら、もう胃の痛みは二度と起こらないというのです。

母はさっそく農村に住む親せきに頼んで、山に行き翁草の根を採ってきて乾燥させたものを送ってもらいました。それを母は教わった通りに処方して私に服用させました。もともと長期にわたる栄養不良で、その頃の私は、食欲が全くなくなっていました。そのため普通の食事でさえ食べられないのに、ましてもともと嫌いな漢方薬なんて受け付けるわけがありません。その苦く渋い味・・・。私は全部吐き戻してしまいました。

 

そのころ母の二番目の妹がうちに遊びに来ました。私が、がりがりに痩せて、病気がちで、学校もたびたび休んでいるのを知るや、すぐに彼女の家に引き取り、面倒を見てくれるといってくれました。

こうして、その年の夏休み、私は叔母さんの家にやってきました。しばらくのつもりが、結局二年間もお世話になってしまいました。

そして、この二年間が私の幼年時代の最も楽しかった時間となったのです。

 

叔母の家は農村にありました。家には小さな庭があり、とてもよく管理されていました。

叔母さんも、叔父さんもそれぞれ仕事を持っていたので、生活費はそこそこ足りていたのですが、二人ともとても働き者でした。おばさんは庭の一角を囲って数頭の豚を飼い、そのほかにもいくつかの籠で十数羽の鶏とアヒルを飼っていました。

 

庭の戸を開けると、鶏が羽をばたつかせて大騒ぎ、アヒルもガアガア鳴いて歩き回ります。その上、母豚も囲いの端までお出迎え。頭を上げて、もともと大きな鼻の穴を精一杯広げて食べ物の催促です。

叔母さんの家には、さらに二歳になったばかりの女の子がいて、彼女と背丈がどっこいどっこいの雄鶏を一日中、追っかけまわしています。

そのにぎやかさと言ったら!!

ここにいる限り、私にはもう孤独を味わうことはありません!

 

昼間はこれらの鶏とアヒルは放し飼いされます。朝早く彼らに餌をあげた後、籠の戸を開けてやると、みな我先に外に飛び出します。アヒルはとても規律が取れています。群れの中にはリーダーがいて、ほかのアヒルは、リーダーが行くところに皆ぞろぞろとついて回ります。

村には小川が流れていて、叔母さんの家のアヒルのお気に入りの場所でした。彼らはほぼ一日中そこで遊びまわっています。自分の卵まで川辺に産みっぱなしにしてしまいます。

川辺を散歩していると、アヒルの卵や、よその家のガチョウの卵を見つけることがありますが、もともと自分の家のアヒルも家では卵を産みません。だから何らためらわずに拾ってきて、塩水につけて塩卵にしたり、新鮮なまま野菜といため、酒で味付けして美味しくいただきます。

 

しかし、たくさんの鶏を放し飼いするのは、それほど簡単なことではありません。

雌鶏は、基本的には庭の中で放し飼いにします。そうすれば、卵を外に生むこともなくいつでも手に入ります。

雄鶏は自由にさせて自分たちで餌も探させます。

雄鶏たちは自由になると数匹ずつ連れ立って、散っていきます。草原、川べり、またはゴミ捨て場は彼らのお気に入りの場所です。

夕方になると、私たちはまず、アヒルを探し出して家まで連れ帰り、しっかり籠に入れます。それから雄鶏探しに出かけます。幸いこの村は、それほど大きくないので、みんな顔見知りですし、どこの家で何羽の鶏を飼っているか、何匹の犬がいるかまで、みんな知っています。

叔母さんは村の東から始めて、西の端まで、行き会った村の人とおしゃべりをしながら、あちこちに散らばっていた鶏を集めて家路につきます。

 

毎日、叔母さんの後について、これらの鶏やアヒルを探して連れて帰るのは、私にとっては実に楽しい経験でした。

夕方、主婦たちは椅子を家の前に持ち出し座りながら、野菜に着いた泥を落として夕飯の準備をします。またある人は、大きなたらいを持ち出し、しゃがみこんで洗濯板で家族全員の洗濯を始めます。みんな忙しく手を動かしながら、その日の出来事を大声で話しては、楽しそうに大笑いします。みんな元気ではちきれんばかりです。

 

叔母さんは、私を連れて歩きながら、おばさんたちの前を通るときは当然、私をみんなに紹介します。

“お利口そうなお嬢ちゃんだこと!色白で美人ね!”

“町から来た子は違うわね!立ち居振る舞いが様になっているよ。うちの野暮ったい、田舎っぺとは大違いさ・・・。”

そういいながら、自分の娘を、後ろから引っ張り出して、私に紹介してくれます。

私たちは、恥ずかしそうに頭をちょこっと下げて、紹介は完了です。

数日のうちに、村中に私は知れ渡りました。

村には、よほどのことがないと外から人が来ません。それで町から来た私は、たちまち彼らの話題の人となったのです。

 

私がどこを歩いていても、きっと誰かが大声で私の名前を呼びます。そして町での生活ぶりを聞いてきます。

“町の学生さんは、農作業を手伝わないんだってね!それじゃ、放課後はみんな何をしてるの?”

“あんたのお父さんは検事さんなんだって。さぞ厳めしいんだろうね!周りの人は怖がっていない?”

 

私は自分がすっかりアイドルになったような気持ちでした。

私はここでの新鮮な出会い、毎日のように経験する驚きや喜びがすっかり気に入りました。

 

  中国では、小学生から大学生まで、”学生”と通称するそうです。

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2017/01/03

明けましておめでとうございます

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今年の三が日は、いつになく穏やかで暖かく

我が家の庭でも、二ホンズイセンがたくさん咲きました。

二ホンズイセンは名前に日本とつきますが、故郷は地中海地方で

その後中国に伝来し、日本にはかなり昔に渡来したようです。

以後日本の各地に群生地もあるほど適応し

多くの人に愛されています。

ある意味、日本の文化の象徴的花かもしれません。

今年が、ずっと穏やかで平和であってほしいと思います。

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