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2017/02/27

24  妹の災難

私はこうして再度、よく知っているというか、何となくよそよそしかった町の家に帰ることになりました。この2年の間に家にはいろいろ変化がありました。

 

その一 母は私の部屋を用意してくれました。もともとの居間を改築して軍用のシングルベッドと、簡単な勉強机を置いてくれたのです。以前はオンドルの上に4人が雑魚寝していたのに私に個室が与えられたのです。

 

その二 母が足踏み式ミシンを買いました。母は友達に安い布をあっせんしてもらい、友達や彼女の弟や妹に衣服を作ってあげました。みんなが自分の作った衣服を着ているのを見るのが何よりうれしかったみたいです。

 

その三 妹が小学校に入学しました。本来なら、妹は1年前に入学しているべきでした。それがある事情で1年延期せざるを得ませんでした。その事情とは・・・

 

母の洋裁の腕はかなりのもので、そのデザインの斬新さもあって友達仲間でも評判になり、注文はどんどん増えました。もちろん自分の弟妹の分もおろそかにできません。そこで毎朝、日が上る前から起きだしミシンに向かい、仕事から帰ってもミシンに向かい、疲れ果てていました。

 

ある日のこと、夕食後、母はいつものようにミシンに向かっていました。父は接待があり外でお酒を飲んでいました。

妹は一人で遊んでいました。おもちゃが家具の下にはいってしまい、それを取ろうとした時、母が家具の下に置いておいたネズミ捕りの薬を見つけたのです。

当時、ネズミの被害が蔓延し、政府はネズミ退治のために、各家に大量のネズミ捕りの薬を配布していました。その上ネズミを誘引するため、強力なにおいを添加していたのです。

 

妹はその薬のにおいを美味しそうに感じてしまったのでしょう。もしかしたら妹はおやつに飢えていたのかもしれません。その薬を全部食べてしまったのです。

一時間もしないうちに、お腹に激痛が走りました。

母は妹がネズミ捕りの薬を食べたとわかるとパニックになり、すぐに病院に連れて行きました。

タクシーもなく、電話もなく、すぐそばに手伝ってくれる人もなく、一人で妹を自転車の荷台に乗せて病院に押していきました。

 

病院に着いたとき、妹はすでに吐血と血便状態だったそうです。

夜通し胃を洗浄し、リンゲルを与えるなどの救急処置のおかげで状態は落ち着きました。しかし気が付いた時間が遅かったので毒薬がすでに血液に入ってしまっているとのことで“この子は多くてあと三日の命でしょう。覚悟していてください”

 

三日過ぎました。

“おなかすいたよ。なにかちょうだい!”と時々いうのですが、妹に目立った異常は見られませんでした。

それでも医者の診断後の意見は

“長くてもあと7日しか残されていません。ちゃんと付き添ってあげなさい。かわいそうに・・・”

しかし妹は奇跡的に回復しました。半月後には退院し、一月後には以前のように色白でふっくらした可愛らしい妹になっていました。

しかし退院後かなりの期間、記憶力や思考力が低下し、簡単な漢字でさえ何度教えても覚えられないし、まして数の計算など全くダメだったそうです。

 

退院すると、小学校入学の時期が迫っていました。しかし妹の当時の状況からすると入学はとても無理だろうと、母は一年遅らすことにしたそうです。

 

こんな事情で、妹は八歳で小学校に入学しました。

同級生より一歳大きかったせいもあり、背が並外れて高くなっていました。その上 

生来の食いしん坊で丸々太り、毒の後遺症による脳のダメージ。そんなこんなで、ノッポ、デブ、ウスノロ等々たびたび言われ、ずいぶんいじめを受けたみたいです。

 

 

その四 家に白黒テレビがやってきました。

胡同全体でもテレビがあるうちは二、三軒しかありません。そのため夕方7時になると近所の子供たちは各自腰掛をもって家に集まりテレビを見ました。

当時放映された最初の日本のテレビドラマは“おしん”でした。

その後に続いた、山口百恵の“赤いシリーズ”は全中国人の涙を誘ったものです。

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2017/02/25

23 農村の学校で

今まで読んでくださって、もし私が農村で遊んでばかりいたと思われたら、それは大間違いです。

 

私はクラスで“町の人”という呼び名をもらったのですが、先生まで何か祝日があると、

“あなた達、町の人はこの祝日はどのように過ごすの?”と尋ねます。

文化祭などでは、

“この催しを企画してみて!私たちの村の子供は、このような歌や踊りをちゃんと習ったことが無いのよ。”

 

もともとみんなより2歳年下で、時々みんなの会話が理解できなくていじけていたのですが、先生がこのように私を持ち上げてくれたので、頑張らざるを得ませんでした。

 

学習面でも、私は落ちこぼれることはできませんでした。もちろん毎日放課後、まず友達と山に行って木の実を取り、山菜を摘みます。しかしあたりが暗くなると、家に帰りオンドルの上に寝そべって宿題をしたり、母が町から持ってきた、“物語集”や“作文選”などの本を読みます。(この2年間、小説は読みませんでした。農村で小説を手に入れるのは無理でした。)

 

そんなこんなで、農村の学校での最後の試験で、私の成績は全体で5番、女子ではトップでした。

 

もうすぐ中学入学が迫っていました。母は私の体がすっかり回復したようだったし、叔母さんにこれ以上の迷惑はかけたくなかったし、町の学校のレベルが農村の学校より上だと考えたこともあって、私はまた家に戻ることになりました。

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