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2017/05/28

29  山菜採り

あの頃、父は次々と事件を解決し功績を立てたため地位もそれにつれて上がり、すでに市の検察庁総務部長に昇進していました。父と同期の戦友たちも、同じ頃に除隊し、みんな検察庁の幹部や、裁判所の高官になっていました。

除隊後かなりの年月が経っていたのですが、みんな戦友と呼び合い、度々会ってとても親しかったようです。

彼らの子供も私と同年代で、大学受験に備えたり、すでに大学生になったばかりだったり、学力不足で進学を諦め、高卒で就職を考えたりしていました。

 

私が大学受験の前の年の春、父と何人かの戦友たちは家族を連れて山に行き山菜採りをすることにしました。“勉強疲れ”の子供たちに息抜きをさせたかったこと、新鮮な山菜に飢えていたこともあります。

 

数家族で一緒に山菜採りに行くことが決まると、母は大喜びで準備に取り掛かかりました。普段は自分の仕事と、家事をする以外にほかの娯楽はほとんどなかったのです。

母は早々と、新鮮なキュウリとねぎなどと、ひき肉と香辛料を味噌に混ぜて炒めた付け味噌を用意しました。美味しそうな匂いで食欲をそそる、ピクニックの必需品です。しかもみんなの分までたくさん作りました。

 

ついに待ちに待った、“山菜採り”の当日になりました。私はこの日一日、勉強から解放されるのです。

朝早く、父の職場の運転手さんが、アパートの階段を駆け上がってきて、車の準備ができたと知らせてくれました。

当時は、道という道は自転車とバスにあふれ、自動車を目にすることはめったにありませんでした。しかもそれに乗って山菜採りに行くなんて、みんなにうらやましがられる贅沢です!

私と母は、この日のために準備した沢山の食べ物の包みを持って、喜び勇んで階段を駆け下りていきました。

 

ところが、なんということでしょう!

アパートの前に待機していたのは・・・・一台の犯人護送車だったのです。

運転手さんは私たちの驚いた様子を見て、頭を掻きながら弁解しました。

“皆さんの人数が多すぎて、普通の自動車では乗せきれません。しょうがないので、犯人護送車を借りてきました。詰めれば、皆さんどうにか座れますよ!”

 

父は慣れた様子で、運転手の助手席に座りました。二人の戦友は、運転手の後方座席に座ります。残された子供と母親たちは、渋々後方の犯人席に座りました。

犯人護送部分は、大型自動車の後方部分の側面を、太い鋼鉄の棒で囲んであります。

左右両側には換気用の窓があり、窓を開けると、鉄格子の間から外が見れます。座席は、木製の長椅子で、狭い後方車両に“コ”の字型に置かれています。私たちはその狭い長椅子に座りました。その様子はまるで、犯人護送というより、鉄の檻に入れられたライオンみたいでした。

 

私たちが座り終わると、護送車は、発車しました。

その車の天井はとても低く、護送車の揺れに合わせて、私たち数人の子供たちは、ある時は一方に押し付けられ、ある時は跳ね上げられて頭を天井に打ちつけられました。

道路の状況が比較的良く、あまり揺れない時、私たちは頭を寄せ合い、窓から外を覗いてみると、道行く人が、私たちを指さしながらいぶかしげに見ています。若い少年少女が護送されているのを見て当分の間、尾ひれが付いてみんなの格好の話題になったと思います。

 

護送車は山道に入ると道はさらに凸凹になりました。固い板の椅子は、まるでトランポリンの床のようになります。お尻が板についたと思うやすぐ跳ね上げられ、頭はガンガン天井にたたきつけられます。そしてまた急降下。目からは火花が出て、頭はくらくらし、めまいがします。そうしてまた左右に激しく揺れます。初めのうちは、興奮して叫んでいましたが、だんだんとそれも静まりました。皆歯を食いしばり、じっと耐えています。私はできることならすぐに車から降りて、歩いて家に帰りたいと思いました。

これは私にとって初めてであり唯一の護送車の、しかも犯人の席に座った経験でした。

犯人になるということは、本当に苦しいものです!

 

とうとう、目的地の山の中腹に着き自動車が停車しました。私たちは皆、土気色の顔をして後ろ座席から、ふらふらと今にも死にそうな感じで降りました。

 

その日の天気はもうしぶんなく、日の光は暖かくさんさんと降り注ぎ、外の空気はことのほか新鮮でした。この数年、学校と本の中にうずもれて生活していたので、自然の中での生活がどんなものかすっかり忘れていました。今日はまた護送車に乗って、過酷な“ドライブ”を経験した後、突然自然の中に戻され、自由に呼吸でき、自由に考えられるのです。まるで刑期を終え釈放されたような、なんとも言えない解放感に満たされました。

 

母親たちは家から持ってきた古い布を広げると、自分たちで作った自慢料理を並べます。父親たちは我先に道具を持ち、山に入る準備をしました。

ここは未開発の山、いうなれば原始状態に近い山でした。そのため父親たちは、子供たちには山に入ることを禁止して、開けた南面の斜面でだけ行動するように言いました。

母親たちは長年の経験から、山の斜面を下った渓流沿いには、“川セリ”があると判断し、大急ぎで大きな袋を手にすると先を争って川べりに降りていきました。

“川セリ”の見た目や味は、セリにとても似ているのですが、味はもっと濃厚で、自然の香りがし、“野セリ”とも呼ばれます。餃子に入れると例えようのない美味しさです。

 

私達子供たちは、自分の山菜に対する知識を出し合って、なだらかな斜面で宝物探しです。

子供たちの中で、農村生活を経験したことがあるのは、私だけでした。そのため年齢の大小を問わず、みんな私に従いました。その日は、私の虚栄心が少なからず満足させられました。

山にはワラビ、ゼンマイ、ノビルなどの山菜がびっくりするくらい沢山ありました。どうやら父親たちはこの日に備えて下見をしていたようです。

 

数時間のうちに母親たちは、いくつもの大きな袋にいっぱいの山菜を収穫して帰ってきました。多くは私が見たこともないような珍しいものでした。それらの名前は、みな忘れてしまいましたが、家に帰ってから、母がそれらを使って作ってくれた餃子の美味しかったことは、今でも覚えています。

 

一方の父親たちは山奥に分け入ったきり、長い間戻ってきません。

昼ごはん時になって、みんなで輪を作って食べ始めたころ、やっと手ぶらで戻ってきました。

実は、父親たちは野ウサギ狩りに行っていたのです。しかし腕前が今一つで、ウサギどころか、キジの羽一本持って帰れませんでした。

しかし父親たちはビールを飲み、母親たちが摘んできた山菜にみそをつけて頬張りながら、お互いに持ち上げて、軍隊にいたころの自慢話を始めます。どうやってたった一人でイノシシを捕まえたか、どのようにして野ウサギを手でとらえたかなどなど・・・。

 

“今はもう思うようにいかないなあ。もう40を過ぎてしまったからなあ。体力がすっかり衰えた・・・。”

母親たちは、なんら同情のかけらも見せません。

“狐やタヌキに連れ去られ食べられなかっただけでも運がよかったよ。まったくほらばかり吹いて!!”

 

昼ご飯を食べ終わると、山菜採りをする人はまた出かけました。

父親たちは一旦、お酒を飲み始めるともう止まりません。お互いに軍隊にいた頃の手柄話に興じています。

 

私は傍らに寝そべって、何も考えなくていいこの時の流れを享受していました。

心地よい風が木々の間を吹き抜け、渓流がサラサラと流れ・・・。

いつしか深い眠りに引き込まれていました。

 

 訂正   " 中学校生活"の表題について

中国では、日本の中学、高校を含めて中学と呼ぶそうです。厳密には、日本の中学は初級中学、日本の高校は高級中学と区別するようですが、浩さんの時代には初級中学でやめる人も多かったようなので、25,26,27の表題、”中学校生活”は”中高一貫校”とした方が"エリート感"が出るような気がするので変更します。

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2017/05/13

28  勉強漬けの日々

移行期の数年を経て、この学校は真の“女の園”になりました。

“女の園”といっても甘やかされて、大事に育てられる訳ではありません。目的とする大学に合格するため、皆必死で勉強に集中しました。

 

学校の毎日は、朝六時半に始まり、夜九時に終了します。

早朝六時半までには、生徒は学校に着き、各自の座席に座ります。

教師は、前日の帰宅前に、翌日の自習時間の課題を、黒板いっぱいに書き込んでいます。

これらの課題を、自習時間の50分内にやっておかなければなりません。正式な授業開始までに、これらの問題を解くだけでなく、間違った問題の見直しまでしなければならないのです。

もし課題が完成できなければ、休み時間や昼休みの時間も使って、完璧に仕上げなければなりません。

そのため、私のように問題を解くのがのろい生徒は、決まった時間内に課題を完成させるために、学校に来る時間をさらに早めなければなりませんでした。

 

大体、私は六時十分前後に自分の座席に座って、問題に取り組み始めました。

家から学校まで、15分ぐらいでした。夏の早朝は、空気はすがすがしく静かで気分も爽快です。

しかし冬、しかも夜通し大雪が降った朝、まだ雪かきもされてない道は、歩くたびに膝まで雪にどっぷりつかりそれは大変でした。

朝5時半といえば、外は真っ暗です。胡同には街灯もなく、たまに朝ご飯の用意をしている民家の明かりが、かすかに道を照らして、真っ暗闇の胡同に人の気配を感じさせてくれました。胡同を出ると、点々とある街灯に沿って、よく知っている道を這うように進みます。

 

頭のてっぺんから噴き出した汗は、毛糸の帽子から染み出し、白い湯気となって立ち上ります。口からは、息が白い塊となって吐き出されます。髪の毛と帽子の庇はくっついて、厚く凍り付きます。睫毛からは、小さなつららが垂れ下がり、だんだん長く重たくなって、しまいには目が開かなくなってしまいます

夜明け前の気温は、一日の中でも最もつめたいものでした(最も寒い時は零下43度前後)。それでも学校に着いた頃には、体中から汗が吹き出し、全然寒いと感じませんでした。

 

教室はすでに暖房が効いていて、とても温かで、身体中の雪がとけてぽたぽたと溶け落ちてきます。それから靴の中、ズボン、帽子、手袋がみな湿ってきます。みんな我先にそれら湿った帽子や手袋をヒーターのうえに並べて乾燥させます。湿った靴は氷のように冷たくなっていて、すぐに脱いで足元に置いて乾かします。

こんな時、私たちは、男子がいなくて何のためらいもなくこれらのことができて、ほんとによかったと思いました。

 

続いて、授業が怒涛のように押し寄せてきます。

国語の教師は、口角泡を飛ばし喋りまくり、授業の終わりにはこう付け加えます。

“休み時間の10分を無駄にしないように。今日学習した漢詩を暗記しておくこと!昼休みに調べに来ますからね。”

 

数学の教師は、大きな三角定規を抱えてやってきて、授業の終わりに言います。

“今の練習問題が全部正解だった人は、授業を終わっていいですが、間違いがあった人は誤りを訂正してから、休憩しなさい!”

教師は椅子を教室の出入り口に置いて、出してくれません。私たちは順番に、ノートを見せて間違いが無くなって、やっと教師の横をすり抜けて教室を出て、運動場で思いっきり深呼吸できるのでした。

 

最悪なのは英語の教師でした。彼女は昼休みの時間に、私たちのクラスと、隣のクラスにやってくると英語の教科書を暗記させます。もし教科書を暗記せずに、逃げ出して遊ぼうとしたら、捕まってさらに厳しい課題が課せられます。

こうして、授業時間の間の10分の休憩も昼休みも、順番に各教科の教師によって奪われてしまいました。

 

午後六時、私たちはまた1時間の休憩時間を迎えます。

これは夜の自習前の、真の自由な休憩時間でした。私たちは校門から出て、近所の出店でパンや弁当を買います。校門の周りにはたくさんの出店があり、いろいろな食べ物屋以外にも、“プロマイド”屋さんもありました。この出店は一番人気で、いつも人垣ができていました。買ってきたプロマイドは、無味乾燥な教科書の裏表紙に張り付けたり、仲良しの友人と交換したりしました。

 

7時から9時は、夜の自習時間です。

多くの教師は6時には帰宅するので、この時間帯は、当番教師が監督します。

当番教師は教室の一番前で、その日の練習問題の採点をしたり、他の雑務をしています。

私たちは、もう帰ってしまった教師が残していった、課題に取り組みます。

教室には教科書をめくる音と、鉛筆がノートの上を走る音以外には、何も聞こえず、シーンとして緊張した雰囲気が張り詰めています。

 

9時、私たちはやっと解放されます。

一日で最も解放感に満たされる時、それが9時の終了の鐘の音が響き渡る時でした!

 

私たちは帰り支度をし、帰り道が同じ何人かの友達と連れ立って校門を出ます。

校門には一人の教師が見張っていて、私たちが安全に下校できるか見守っています。

校門の車道を隔てた向こう側には、小さな公園がありました。毎晩、公園前の花壇には若者が一列に並んでいます。彼らはこの、女だけの学校を見に来ているのです。

気に入った可愛いい女の子を見つけると、口笛を吹いたり、はやし立てたり、奇声を発したりして女の子の気を引こうとします。

 

女の子たちは“名門女子校”の矜持があり、そんな誘いには一顧だにせず、ツンとして通り過ぎます。こうして表面的には、まったく無視の態度でしたが、心中は穏やかざる物がありました。

 

友達と別れた後は、また長く真っ暗な胡同をとおって家に帰ります。家に着くと、すぐに

家の唯一の電気スタンドの前で、その日の練習問題を見直し、なかなか覚えられない英語の単語の暗記をします。

 

あれからずいぶん歳月が経過しました。

当時の思い出ですぐ目の前に浮かんでくるのは、分厚い教科書と試験用紙の山だけです。

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