2007/12/03

どんぐり

Donguri  この季節、里山を歩くとどんぐりがそこらじゅうに落ちている。しかし今年のどんぐりの数は半端じゃない。強い風の後などに行くと、それこそ玉砂利状態に敷き詰められている。小一時間もかければバケツに1杯や2杯集められそうな勢いだ。これだけの圧倒的量を前にすると、縄文時代の人が主食にしていたというのも納得できる。

 今でも韓国や中国、イラン、地中海地域など世界の多くの地域で食用に利用されているという。どんぐり饅頭、どんぐりこんにゃく、どんぐりうどん、どんぐりパン・・・・。日本でも戦前までは東北地方などにどんぐりの食文化が伝わっていたという。

最近の研究によると縄文期の日本人はかなりグルメな食生活を送っていたらしい。栗やどんぐりの主食。季節の山菜。草木の実(くるみ、野いちご、山葡萄・・・)、きのこ(マツタケ、シメジ、シイタケ、ナメコ・・・)、様々な魚、貝、肉(いのしし、鹿、ウサギ、野鳥・・・)。もちろん農薬、添加物などとは無縁である。

 日本列島では1万年にわたり縄文文化が営まれていたという。大陸から稲作文化を携えて渡来した人たちとも、かなり長期にわたり平和的共存が成り立っていたのだろう。なぜなら、水田適地の湿地帯は、縄文文化の人たちの目から見れば生活にとって、余り好ましくない土地だっただろうから生活の上で衝突は起こらなかったと思われる。

稲作の伝播も江戸時代の初期でさえ、関東平野は芦原に覆われていた事から考えると、かなりゆっくりとした普及速度だったのかもしれない。明治時代にやっと北海道まで到達したぐらいだから、東北地方にドングリの食文化が近年まで残っていて不思議はない。

しかし明治維新後の欧米文化崇拝は戦後、よりいっそう熱を帯び、食文化の長い伝統まで押し流さんばかりの勢いである。小麦(パン、パスタ、ケーキ・・・)対米(ご飯、もち、せんべい・・・)の伯仲戦である。いわんや他の様々な穀物(キビ、アワ、ヒエ等々)はレッドデータ並みの存在となってしまった。もはや日本の食にどんぐりの入る余地は何処にも残っていないように見える。

こんな時、“どんぐりクッキー”を売っている店があるという話を耳にした。早速買いにいってみると、ケーキ屋さんの一角に、マテバシイから作ったというそのクッキーは置いてあった。食べてみたが美味しかった。普通のクッキーと変わりない。私としてはもっと独特の風味を期待していたので少々がっかりしたぐらいだ。

本来、外来文化は在来文化を豊かにしてくれることに意味があると思うので、一つ外来が入ったら、一つ在来が減るのではあまり意味がないと思う。洋食OKである。しかし温暖化防止の観点からも、ご当地で調達できる材料を生かすという意味で、和食が基本の方が合理的だろう。さらに祖先が稲作を知る前に1万年の間大事にしてきたどんぐり食も復活させて取り入れられないものか、思案する今日この頃である。

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2007/02/12

コガモ

 多摩川に久しぶりに行った。支流沿いにサイクリングする事10数分、小ガモと軽ガモが仲良く混じって泳いでいた。両岸も川底もコンクリートに覆われ野鳥たちには申し訳ないような人工的川なのだが、本流の分岐点も近いせいか、色々な鳥にお目にかかれる。黄セキレイや背黒セキレイを見かけたこともある。

 

Kogamo コガモは多摩川本流では何回か遠くで群れを見かけた。しかし数メートル先でのんびりとくつろいでいるのを見たのは初めてだった。おだやかな日ざしを受けて、目の辺りの羽毛が鮮やかな緑色に輝き美しい。カルガモに比べ二周りほど小さいが両者とんちゃくなく交差して泳いでいた。

本流との合流地点に近い、枯れ果てた葦原の茂みの中に、遠目にも鮮やかに青くKawasemi 光る点が見えた。近づくとカワセミだった。見ている間にも何回か水に飛び込み魚を採ろうとしていたが、空振りに終わっていた。

川岸の高木の梢の上にはノスリが置物のようにじっと止まっていた。私たちが弁当を開き、のんびり食べ終わってもまだ同じ所にいた。なかなか餌が見つからないのだろうか。

自然のなかで生きていくのは厳しそうだ。その点飼育されている動物はずいぶんと楽なものだ。毎日決まった時間に、十分な餌にありつける。外敵に襲われる心配もない。これだけを見ると、いいことずくめのようだが、実際には、飼い主の怠慢で運動不足になりやすい。

昨今問題になっている鳥インフルエンザについて考えてみた。殆んど身動きできない狭い空間に、自然の風や光から遮断されて押し込められ、ただ卵を生むことだけを期待される(卵を生む機械?)。ブロイラーにいたってはただ一定の重さに太る事だけを要求される。生命力も衰え病気にも感染しやすくなるだろう。そして成長促進剤や抗生物質の大量投与。更に弱まり、更なる薬の使用・・・・の悪循環。

このような何とか生きている状態で、何億年にわたる百戦錬磨のウイルス細菌軍団との勝負に臨ませても結果は火を見るより明らかであろう。病原体を地球上から抹殺できない以上、鶏たちに生命力を蘇らせ鳥インフルエンザウイルスに負けないよう育てる事のほうが、人間にとっても栄養価の高い、おいしい卵や肉を手に入れるたしかな道だと思うのだが・・・・。

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2007/01/08

茶の歴史

おせち料理や新年会で少々体脂肪が増えた向きには、プーアル茶がお勧めという。見た目は黒っぽいし、味もいまいちだが減脂効果抜群というので、最近は夕食後飲むようにしている。

いつもはおさんじなどに、チョッとしたお菓子と一緒に緑茶を飲むことが多いが、日本人だなー、平和だなーと感じられるお気に入りのひと時だ。


前にサザンカをテーマにした時周辺を調べているうちに、チャに関しても私にとってはいろいろ新しい発見があったので、ここで忘れないようにまとめてみた。


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 チャの花は、梅の花を一回り大きくした感じの白い花で、10月ごろ畑の隅にひっそりと咲いているのを見かける事がある。地味だが清楚で可愛らしい。しかしチャで注目されるのは何といっても葉であろう。みずみずしいつややかな葉は人類の歴史を通じて脚光を浴び続け様々なドラマが繰り広げられてきた。

 

 チャの故郷、照葉樹林に覆われた中国の西南部では古来、木の新芽を食用や香辛料として利用する文化があり、様々な葉が用いられてきたという。チャはその後薬草として注目され中国文化圏にも取り入れられたらしい。今から5000年の昔、中国の本草学の始祖が薬草を選ぶために様々な草を試食し、毒にあたった時に解毒薬として服用したと言い伝えられている。日本にも奈良時代に薬用としてもたらされたようだ。茶を服するという言い方が残っているが、服するは本来薬を飲む場合に用いられる。初め薬として渡来した名残だろう。

中国唐代の760年頃書かれた『茶経』によると当時すでに中国各地で茶が飲料として飲まれていたという。蒸した茶葉を餅のように固めたものをその都度砕いて飲んだもので、今日のチベットやモンゴルは当時の茶の製法や飲み方の流れをくんでいると言う。宋代の抹茶風な飲み方は1190年代日本に伝わり、茶道として洗練され今に伝わる。茶葉を蒸して製茶する飲み方は日本では今日まで受け継がれている。

中国では明になると庶民出身の皇帝の命令 (1391年)により、余りに精巧化し農民に負担を強いていた固形茶の製造が禁止され、作るのが簡単な散茶という茶葉タイプが主流の、釜炒り製法に変わる。

これらは緑茶(不発酵)の系統だが、宋代あたりから半発酵のウーロン茶、全発酵の紅茶なども作られる。この場合の発酵は茶自身に含まれている酸化酵素によるものだが、冒頭に紹介したプーアル茶は緑茶を更に麹菌で発酵させて作られるという。

ヨーロッパに伝わったのは、1610年オランダ東インド会社が長崎の平戸で手に入れた緑茶が最初という。その後、食事や水質の関係で紅茶が好まれるようになったらしい。ヨーロッパにも古来ハーブティーの習慣があり、喫茶の習慣が受け入れられやすかったのだろう。

19世紀から20世紀にかけて茶は世界的な飲料として飲まれるようになった。日本では日常茶飯事という言葉があるくらい生活の中に根付いているし、イギリスでも、三度の食事のときは勿論、ティーブレイク(おやつ)、アフタヌーンティー(午後のお茶)、ハイティー(夕方の軽食)など毎日の生活に無くてはならないものになっているという。

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2006/06/26

13.お正月料理  続

お正月料理として餃子の外に、忘れてはならないのが魚を用いた料理です。“魚yu”の発音と“余yu”の発音が同じためです。余とは余裕であり、富裕です。人々は、新しい年がより豊かで、衣食住が満ち足りるだけでなく、更に蓄えもできる事を願います。

魚の中でも特に鯉が喜ばれますが、それにはいくつかの理由があります。私の故郷は海から遠く離れているのですが、松花江という大河が町の中心を流れていて、鯉がたくさん取れます。また鯉は逆流を力強く遡上し、将来は龍に成るという言い伝えがあり、私の故郷では出世の象徴とされていました。

正月の鯉料理は、とても手の込んだものでした。きれいに洗われ下ごしらいされた後、白い大皿におかれ、全体に念入りに飾り包丁が入れられます。なべに並々と入れられた油が十分に熱せられた頃あいを見計らって、シッポから持ち上げそっとなべに滑り込ませます。この時油と水が合わさり激しい炸裂音がすると共に、飾り包丁の切れ込みがみごとに開きますが、これを何回かひっくり返したあと取り出します。次に別に用意されたお鍋に油を少々熱して、ねぎ、生姜、にんにく、胡椒、八角ウイキョウ等々に砂糖、醤油、酢、酒を加えて炒め、更に湯を加え鯉を入れて30分前後煮込みます。なべの中の水分がなくなる頃魚を取り出し、白磁の皿に載せ香菜のみじん切りを散らすと、出来上がりです。

お正月料理はこのほかにも、各家々には自慢料理があり、テーブルいっぱい様々の工夫を凝らしたご馳走が並びました。中でも心がけられたのは、充分な量を用意する事でした。おなかいっぱい食べても未だ余るくらいが適当とされました。当時、毎日が節約窮乏生活だったので、正月だけは特別に贅沢が許されたのです。

湯気の立つ熱々の餃子が運ばれ、ビールが注がれます。

突然テレビから“パンパンパンと爆竹の音が響き“春節聯歓晩会の輝く文字が現れると、一瞬部屋の中が静まります。五十六種類の美しい民族服に包まれた出演者が、軽やかに華やかに歌い踊ります。それに続き五色の紙ふぶきが舞い。多彩な紙テープが飛び交い、テレビの中と外で期せずして拍手が沸き起こります。

春節聯歓晩会が始まりました。みんなで乾杯です。“あけましておめでとう!”

 一杯のビールが忙しかった大晦日の緊張を一気に解き放ってくれます。一方、子供達は、硬貨餃子とキャンデー餃子に当たるよう念じつつ餃子を食べ始めます。

そんな中、目はテレビを追っているのですが、箸を一時も休めることなく餃子を食べている親戚のお兄さんがいました。一口一個の割合でがつがつと食べまくっています。

 “いたッ!”突然叫ぶと、あごの辺りを押さえてうずくまってしまいました。

 “どうした?”皆心配して集まってきます。そのお兄さんの顔は真っ赤になっていて、しばらくしてやっと身を起こし、椅子に座りしかめつらしてため息をつきました。皆が見守る中、おもむろに口からピカピカの硬貨をつまみ出しました。どうやら硬貨がお兄さんの虫歯を直撃したようでした。皆大笑いです。

“おめでとう!やったね!君が硬貨に当たった一号だから、今年大もうけできるのは決まりだね!金持ちになってもみんなの事忘れないでくれよ!”

お兄さんは依然痛くてヒイーヒー言っていましたが、機嫌よさそうに大笑いしました。今年の幸運をいささかでも傷つけたくなかったのでしょう。

夕飯が済むと、お兄さんはその幸運の硬貨をきれいに洗って、丁寧に鏡に貼り付けました。こうすると、見た目では硬貨が二枚に見えます。したがって、やってくる幸運が二倍になるといわれているからです。

そのため春節が過ぎた頃、鏡には幾つかの硬貨が貼り付けられています。たいてい正月が終わると取り去るのですが、翌年の春節が近づいても未練がましく、張りつけたままにしている人もいました。

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2006/06/24

13.お正月料理

お正月料理といえば、日本では元旦に食べ始めるようですが、中国での春節は旧暦のため、月の運行が基本になっていて、大晦日の日没が新年の始まりになります。また一口に中国といっても、各地方ごとに様々な特徴がありますが、私の故郷、東北地方では餃子が代表的なものでした。


 子供達がお年玉狂騒曲に浮かれている一方で、大人たちは着々と餃子作りの準備を進めます。市場で買った豚肉の大きな塊はまな板の上に置かれ、まず細切れにして、次に包丁を小刻みに10分程度動かしひき肉状態にします。


 私は、6歳頃から、このひき肉作りを手伝いました。中国の肉きり包丁は大きくて重いので、いい大人でも10数分も肉を切ると、肩が痛くなったと愚痴をこぼします。まして6歳の私にとって、初めのうちは体罰のように感じられました。しかし両手で包丁を少し持ち上げ、後は包丁の重力に任せて降ろせば力は半分で済みます。この発見が、以後の餃子作りの全工程を学ぶ意欲を支えてくれました。

話を大晦日に戻します。我が家で包丁がひき肉作りに大活躍している頃、ご近所も同様で、その時間帯はアパート全体に“トントン、トントン”という軽快な音が響き渡ります。その音を聞いているだけで私はおいしい餃子が目に浮かび、お手伝いも楽しくなりました。

東北地方の冬の寒さは格別です。青菜は生産も、運搬も困難です。まれに市場にお目見えした高価な青菜を手に入れたとしても、家に帰るほんの数分の内に、その新鮮で柔らかな青菜は急速冷凍状態になるため、冬の餃子の具は、白菜と豚肉、酸菜と豚肉、大根と蝦が良く使われます。私は中でも“酸菜と豚肉”餃子が大好きです。

中国の餃子は、家毎に独特の味があります。もっと正確に言うと、作る人毎に味が微妙に変わります。

我が家では皆が、酸菜と豚肉を細かく刻んでいる間に、祖母が皮を作ってくれます。この皮の柔らかさ加減が、餃子のおいしさの決め手ともいえます。大きなお盆に置かれた、祖母の作った餃子の皮の生地は、白くて丸っぽくて、触ると滑らかでふわふわしていて、私には赤ちゃんのおしりそっくりに思えました。

餃子の皮と具の準備が済むと、餃子を包む工程に入ります。

年越しの餃子は願い事を一緒に包み込む点がいつもの餃子との大きな違いです。餃子の形は富を象徴する金元宝の形に似せて造りますし、中身にもみんなの夢をこめます。


1:餃子の中に硬貨を入れる。当然、硬貨は年末に銀行で新しいのに交換し、祖父のアルコール度の高い白酒で消毒しておきます。数百個作る餃子の中に56個しか入れないし、外からはどの餃子の中に入れたか絶対分からないように包むので、もしこの幸運の餃子にあたった人は、新しい年に、大金持ちになれるというのです。

2:餃子の中に、キャンデーを入れる。当然数個に入れるだけです。このキャンデー餃子に当たった人は、新しい年は毎日、甘い幸せな日々を過ごせるといわれていました。               ( 続く)


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W杯日本ブラジル戦から一夜明け、寝不足も解消しすっきりした頭で考えてみました。前半戦、数々の川口の好セーブ、そして玉田の会心の一撃。私達の待ち望んでいた試合展開でした。後半はさすがサッカー王国ブラジルの真骨頂が遺憾なく発揮され、絶妙なパスさばき、豪快なシュートの連続と目を見張るばかりでした。

終わって感じたのは、爽やかな疲労感とサッカーの面白さでした。

今後もブラジルチームの活躍を見守りたいと思いますし、帰国を余儀なくされる日本選手には心からご苦労様といいたいと思います。

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2006/03/20

4.食いしん坊      続

炊事班の班長の名前は黄富貴といい、父の親友でした。おじさんは、色白ででっぷりとしたお腹で、名前の通りいかにも福福しい顔をしていて、見るたびに、お寺の布袋様を思い出しました。

 父より若く見えましたが本当は、2歳年上でした。黄おじさんは魔法使いの様に、私にたくさんのお肉を何処からか取り出してくれました。それも飛び切り大きいのです。

“よう!浩ちゃん、おじさん何持ってると思う?”

“わぁ!肉だ!”その度に、私は一寸大げさに喜んで見せました。

“この肉食べたい?上手に何か歌ってくれたらあげるよ!”


 私は幼稚園に行った事が無かったので、童謡なんか習った事がありませんでした。そのころ家には大きなラジオはありましたが、ニュースを聞いたり、天気予報を聞くぐらいでしたが、毎日ラジオからは同じような音楽が繰り返し放送されていたので、いつの間にか、覚えていました。子供用の歌は殆んど無く、多くは国や、故郷への思いを歌ったものでした。私はそれらの歌を、ごっちゃに覚えていたまま、一生懸命歌いました。


 黄おじさんは時には部隊の兵士達の愛唱歌を教えてくれましたが、とてもいい声でした。

“日落西山 紅霞飛 ♪ 、 戦士打靶 把營帰 ♪  ・・・・ ”

 これが私の音楽教育の最初の一歩でした。

 ただこのように一生懸命歌い終わった時には、お椀の中の熱々の肉はすっかり冷え切っていました。それでも私はその肉を、スープごと全部食べ尽くしました。

 こんな感じで数ヵ月経ちました。ある時、私が又おわん一杯のぎとぎとしている脂身を食べ終わるや、突然全部戻してしまいました。それ以後、体が肉をぜんぜん受け付けなくなってしまったのです。器の中に肉らしきものを見ただけで吐き気がするのです。

 その結果かどうか、私は今に至るまで、ずっとスリムです。私が肉嫌いのため、身体に脂肪が付かないのだと母は言います。

これは黄おじさんのおかげかもしれません。

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2006/03/17

4.食いしん坊 (浩さんの物語)

 部隊の兵士は全国各地から来ていました。

夜、一日の緊張した訓練が終わり、兵士達の自由時間になると、ピンポンをしたり、ギターを弾いたりそれぞれ思い思いに時間を過ごします。なかでも人気があったのは、おしゃべりです。いくつもの小グループに分かれ、お国訛り丸出しで、自由気ままに話が弾み、“消灯準備”のラッパが鳴ると、しぶしぶと、それぞれの部屋に引き上げて行きます。

 合図のラッパといっても、学校のチャイムみたいなもので、部隊生活を半年も経験すると、毎日同じように繰り返されるので余り気にならなくなります。少なくとも私にとっては、一日三度のご飯の合図以外は、全然意味のないものでした。

 部隊の生活は、豊かに感じられました。普通の庶民にとって、白米ご飯は言うに及ばず、高粱ご飯もおなかいっぱい食べれない時代でした。しかし部隊では毎日白米粉で作った饅頭(マントウ 中華風蒸しパン)が出されたし、いため野菜のなかには肉片が入っていました。

 ある時、私と母は食堂で兵隊さんと一緒に食事をしていました。私はおかずの中に肉片を見つけました。光を反射して輝き、薄く半透明な、紛れも無い脂身の肉なのです!(当時は赤身より高級とされた)

嬉しくって直ぐに箸でつまみ、飛び上がってみんなに見せびらかしました。


 “見て、見て!私のおかずの中に肉が有ったよ!こんなに大きいよ。”直ぐに、周りの人が言いました。

“本当だ!そんなに大きな肉が入ってたなんて、運がいいね!”そういいながら、私から取るまねをしました。その時、私は本当に取られると思って

“もう食べちゃったよ”と慌てて口の中に押し込み、箸の先端も一緒に食いちぎってしまいました。これには周りの大人たちは大笑いで、母なんか笑いすぎて涙が出たそうです。


それ以後、私は部隊の中で有名になりました。みんな私のことを“浩ちゃん”と呼ばずに“食いしん坊”と呼ぶようになりました。食事の時は、誰か彼か、箸で肉片をつまんで、まるで猫をからかうみたいに

“食いしん坊、これなんだ?”と見せびらかします。私は必死で箸を追いかけるのですが、みんな背が高いので何回飛びついても届きません。

 もちろん、最後にはその肉は私の胃袋に納まることになっていましたが・・・。

                                                                                                      ( 続く )                                   

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2005/12/21

人参はにんじん?

 中国語で人参は、日本で言うところの朝鮮人参のことで、日本で言うニンジンは中国語では紅蘿卜(赤い大根) という。これは以前触れた事もあるが、ツバキと椿は違うという問題と同じだ。要するに誤訳である。ただ本来は誤訳でも、歴史という苔で覆われてしまうと、立派に日本語の中では市民権を獲得して居るので、一概に否定できないのが悩ましい。

 次に “人参” そのものについて見てみたい。中国人、特に吉林省の人に言わせると、人参の本場は、吉林省で、質量共に最高との事。それを、“朝鮮” 人参といわれることで、朝鮮産が一番との印象が強い事が大いに不満のようだ。他にも最初に持ち込まれた産地が名前に影響する例は多い。
 サツマイモが薩摩芋、トウガラシが唐辛子と呼ばれて居るようなものだ。時間の経過とともに朝鮮人参もチョウセンニンジンと普通名詞化することによって解決されていくのだろう。

 特定地産が、普通名詞化しないで、固定肥大化する場合がある。それがいわゆるブランドだろう。
 魚沼産のコシヒカリ、神戸牛、明石の鯛、丹波の黒豆、関鯵などなど。以前テレビで同じ “関鯵” でも水揚げされる港が違うと、値段が数倍違うという嘆きを聞いた事があった。行き過ぎた例だろう。

 しかし基本的に、ブランドへの信頼には合理性がある。生産者の生産物へのこだわり、弛みない品質維持の努力、消費者の厳しい評価を経て生き残っているものには、それなりの品質の高さが期待できるからだ。

 ところが、これらがひとたびブランド “信仰” となると様相を一変する。生産者、消費者ともに合理的批判眼を失う。生産者は不断の品質保持の努力の変わりに、表面的現状維持のみに腐心し、消費者は、ブランドに、性能のよさの代わりに、ステイタスシンボルを求める。

 日本は今、マンションの耐震強度偽装問題でゆれている。大激震だ。やはり値段は高くても安心第一と考えたくなる。ブランドへの回帰だ。しかしこの問題の本質も、やはり、形骸化したブランド信仰の一形態のような気がする。 この事件の場合、ブランドは建築業者ではない。ある意味もっと深刻だ。
 それは、一級建築士という国家資格へのブランド信仰、“建築確認” 行政の機能不全という、国への信頼に触れる問題だからだ。すなわち、国の行政への信頼が実は、ブランド信仰に過ぎなかったのではないかと国民が考え出しているという事だ。

 この問題の成り行きは、一部の利害関係者や機関に捻じ曲げられることないよう、“ブログマスコミ” も総力を挙げて見守るべきだろう。

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2005/09/05

暑気払い

台風が近付いている影響か、窓の外では時折、激しい雨が降っている。涼しい。例年より遅く満開を迎えた百日紅の花が、水分の重さに耐え切れず、大きくしなだれている。

さしもの猛暑も峠を越えたのか。少し時宜を逸したかもしれないが、暑気払いで我が家でよく食べる、カレーについて書いてみたい。

我が家の息子達は,ご多分にもれず私の作ったカレーが大好きだった。過去形にしたのは、最近は、自分で稼いだお金で自由に外で食べられるようになり、世の中にこんなおいしいものがあるんだと目覚めだし始めたところで、おふくろの味に回帰してくれるには未だ時間があるという中途半端な時期だからだ。

息子達が幼かった頃、カレーは一年を通じてよく食べた。特に夏場は数日おきに食べていたかもしれない。夕飯のカレーを用意している私に、息子達のこんな会話が飛び込んできた。

“カレー味のうんこと、うんこ味のカレーのどっちか選ぶんだったら、どっちがいい?”

あとは、二人で何か言いながらいかにも楽しげに笑い興じている。一般的にこの、う○○の話題は何故だか、子供は大好きだ。う○○がなければ夜も日も明けないという感じで、幼い子供を持つ母親の悩みの種だった。中には、子供はこの言葉をある一定程度口にすることにより大人に脱皮できると達観している母親もいた。

“カレー味のうんこと、うんこ味のカレーのどっちがいいか”

悩ましい選択である。特にこれから、カレーを食べようとしている時に、このように問いかけられると、妙に生々しい。私は、心の中でこんな選択を迫られることが無いことを願ったものだ。

今は、不景気で腕のいい料理人がリストラされる話も良く耳にする。うんこ味のカレー屋さんが、そういう料理人の協力を得られたなら、私の悩みはずいぶん軽減されるのですが・・・。

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2004/11/15

さつまいも    ( 1-13 )

  その頃のおやつでもう一つ印象に残っているのは“爆弾あられ”だ。 定期的に“爆弾あられ製造機”を積んだ小型トラックが回ってきた。 母はお米とザラメを持って、決まった場所に出かけて行き、帰りにはバケツ一杯に膨らんだ爆弾あられを持って帰ってきた。 それは米ビツに移され、毎日のおやつの時間にコップ一杯づつもらえた。私は今でも、似たお菓子をスーパーなどの店頭に見かけると言い知れぬ郷愁に満たされる。

サツマイモのふかしたのも私の大好物だった。 というより私は、生まれてこの方、食べ物に関しては好き嫌いがない。 何でもおいしく食べられる。
 これは戦後の何もないときに生まれ、五人兄弟の末っ子として育ったという環境によるところが大きいと思うが・…。私は食べ物に対する自分のこの適応性をあり難いと思っている。 私が成長して色々なところに行ったとき、その地に違和感を感じない要因の一つだと思うからだ。

 さて、サツマイモの話しに戻る。 私はある時、自分でサツマイモを作りたいと思った。 母に相談すると、農家の人に苗を分けてもらうといいと教えてくれた。
 私は早速、線路を越えて直ぐの所にある農家に行って、おじさんに頼んだ。 この農家には以前にもちょくちょく遊びに来たことがあった。 脱穀の時など、箱の中に稲の束を入れて、面白いように米と藁を別々にしていく。 

 農家の庭には家畜小屋があり、そこで馬や牛を見るのも楽しかった。 その頃は、牛は水田や畑を耕す時、活躍していたし、馬車は郊外では主要な運搬手段だったように思う。 道には、いたる所に牛や馬の糞が落ちていた。 誰かに“牛の糞を踏むと背は伸びないが、馬の糞を踏むと背が高くなる”と聞いたことがあったので牛の糞は注意深くよけて通り、馬の糞は乾燥したのを確かめてからおもむろに踏んだ。 

 おじさんは快く一握りほどのサツマイモの苗をくれた。 私は家に帰ると門の横にあった空き地にシャベルで一つ一つ苗を丁寧に植え付けた。 水をやり、雑草を抜き、一生懸命世話をした。 ある日苗の上に古新聞のかけらがついていた。 この光景はその頃の畑では良く見かけられた。 農家では当時人糞を肥料にしていた。 我が家にも定期的に農家の人が汲み取りに来て、その代わりに野菜をくれた。 その農家の人が私のサツマイモ畑にもちゃんと肥やしをまいてくれたのだ。
 そんなこんなで、収穫のとき、私の小さな畑から、バケツ一杯のサツマイモが採れた時は本当にうれしかった。 母がふかしてくれたそのサツマイモは、少し細めだったけど、今まで食べたどのサツマイモよりもおいしく感じられた。

 “ごちそう”といえば、私の誕生日に母が作ってくれる“おはぎ”と“あんみつ”も私の楽しみの一つだった。 私は今でもあんこといえば、あっさりした味の粒餡が大好きだ。 それは、母の味だった。
 とっておきのごちそうは、年に何回か、父の部下が家に来て飲み会をやる時に出された。 母がいつも用意するものに、チーズの薄切りとコンビーフがあった。 私は母の用意する傍らにつきっきりで、チーズの切れ端とか缶に残ったコンビーフをつついた。 まさにこの世の珍味だと思った。

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