2008/02/25

花嫁の父

 テレビドラマなどでは、可愛がった娘を嫁に出す父親は表面的には強がったりしても、内心の寂しさに耐え切れず涙ぐむ・・・、というような展開が多い。しかし実生活での経験では、そんな風には見えない父親も多い。

私自身の場合だって、父は少しも悲しげでなかった。いつもとなんら変わらなくって、それを見ている私のほうが少々寂しかったくらいだった。まあ結婚しても、父への気持ちが余り変わらないのをお見通しだったのかもしれないし、そもそも3人も娘がいたので免疫がついていたのかもしれない。それにしても妻と、三人の娘の愛を生涯享受していた父は、恵まれていたのかもしれない。

一方“花婿の母”という言葉は余り聴かない。妊娠、出産、育児、進学・・・。それこそ精魂込めて育てたわが子と別れるのだから、寂しくないわけがない。しかし私自身の経験から言えば、子供と母親の関係には時期によって大きな変化が起きるような気がする。

ただただ無事に生まれてくれる事を願った妊娠期間。

苦しかったと思うのだが、短時間で終わってしまったので印象に残っていない出産の時。

初めての経験なので、すべてが新鮮な驚きに満ちて夢のように過ぎてしまった幼児期。

社会人としての基礎を習得していくのを一歩退いて応援していた義務教育期間。

青春の輝きと反抗心のごちゃ混ぜな危なっかしい青年期。

もしこれらの時期のどこかで息子と引き離されたら、多分私の心は傷つき、血が吹き出たかもしれない。

その当時、何となく思っていた。娘とは一生友達でいられるのに、息子とはお嫁さんができたら離れなくてはならないなんて不公平だ。そんな時期はなるべく遅く来て欲しい。そんな私の気持ちを知ってか知らずか、二人の息子は少しも結婚の気が見られないまま三十路にさしかかっている。

人生には時があるのだろう。秋になると木の葉と枝の間には離層というものができて落葉がスムースに行くようになるという。カンガルーの赤ちゃんもいつまでもお母さんのおなかの袋にいるわけではない。私もいつの間にか、息子との別れが少しも苦痛でなくなっているのに気がついた。早く息子を安心して任せられるお嫁さんに引き渡して、私は子育てから卒業し、卒業旅行にでも出かけたい。その時は少し奮発して世界旅行も悪くないな、なんて考えている今日この頃だ。

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2006/07/17

14.爆竹遊び  続々

 突然、門を激しくたたく音がしました。どうやら永生は夢中で爆竹遊びをしていたのですが周りがいやに静まり返り、子供達もいなくなっているのにはっと気が付いたようです。急に怖くなって帰ってきたみたいです。

 ところがもう神様をお迎えした後です。祖母は家の中でカンカンに怒っています。

“必ず十二時前に家に帰ってくるようにあれほど言ったのに・・・”祖母は、門を開けないで永生を家に入れる方法が思いつかなくておろおろするばかりです。誰かが、永生に大声で叫びます。

“台所の窓から入っておいで、僕が手伝ってあげるよ”


 何という見事な解決方法でしょう。皆台所に殺到し口々に永生に指示します。でも窓は地面から高く永生にはとても届きません。色々考えた末、あの硬貨に当たったお兄さんに白羽の矢が立ちました。皆でお兄さんを抱えると、その小さな窓から突き出しました。お兄さんは外に出ると、永生を抱きかかえ家の中に送り込みました。その後、そこらじゅうに在るものを手当たりしだい積み上げてその上に登って何とか窓から帰還しました。

 このようにして全員の知恵を振り絞り三十分ぐらい掛けて、涙と鼻水でぐちゃぐちゃな顔をした永生を無事家の中に救出する事ができました。皆ほっと一息つくと同時に、顔を見合わせて大笑いしました。

 祖母はため息をつきます。“せっかくいらしてくれた福の神様が窓から出てしまったかもしれないねえ・・・”

 何はともあれ、大晦日はこのように過ぎていきました。この話は、以後毎年お正月になると持ち出され笑い話の種になります。

現在も神様を迎える伝統行事は行われていますが、当時のような真剣さはなくなりました。今の子供達は大事にされているので、一人で外に出て爆竹遊びをするなど考えられなくなりました。

私が大人になったせいもあるでしょうが、春節も当時ほど面白くなくなった気がします。

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2006/07/14

14.爆竹遊び  続

 思ったとおり、神様を迎える準備はすっかり整っていました。台所では水餃子用のお湯は沸き立っていて、凍った餃子が入れるばかりになって脇に置いてあります。

“全員ちゃんと家に戻っているかい?”祖母は時計を見ながら聞きました。

私は小さな声でつぶやきました。

“永生がまだ戻ってないかもしれないよ・・・”私はそのとき、何時間も外にいて、体中氷のように冷え切っていたのと、疲れ切っていたのが合わさって、暖かい部屋の中でとても眠くなっていたのです。私の声は周りの喧騒の中でかき消されてしまいました。

 “十、九、八、・・・・・”テレビでは新年を迎えるカウントダウンが始まりました。おじさん達はマッチを握り爆竹に火をつける体勢に入りました。おばさん達も、鍋に餃子を入れるばかりです。“・・・三、二、一!”テレビから新年の鐘の音が響きます。同時に耳を聾すばかりに爆竹が鳴り響きます。一時(いっとき)、外は紅(くれない)に包まれます。

 “餃子の準備ができました!神様家にいらして召し上がってください!”おばさんが大声で叫びながら餃子を鍋に入れます。 祖母は玄関の戸を開き、爆竹のにぎやかな音と、餃子のおいしそうな匂いで神様を家に招きいれます。私も付いていって、神様が空から降りてくるのを見ようと待ち構えます。でも空はいつもどおりの空で何の変化も起こりませんでした。

 餃子が煮えて、入り口近くに設けられたテーブルには山盛りに神様用の餃子が置かれ、お酒も並々と注がれます。

 あわただしい時が過ぎ、神様も家の中に入られたころあいを見計らって祖母は、玄関の戸締りをします。そして重々しく宣言します。

“明日の朝まで誰も玄関を開けてはいけません。神様が家においでになるのですから、気が変わって外に出られないようにしなくちゃね!”

 皆やれやれ一段落といった表情でそれぞれ椅子に腰掛け、餃子を食べ始めようとしました。この時、誰かが叫びました。

“永生は?何でここに永生がいないの?”

“永生はどうした?永生は未だ戻っていなかったのか?”部屋中再度爆竹が点火したみたいに大騒ぎになりました。

 私は一日の疲れからそれまでうとうとしていました。目はぼんやり餃子を見ているのですが、頭の中には奇妙な形をした神様が浮かんでいたのですが、はっと現実に戻されました。

“永生は未だ外だと思うよ・・・”

                                                 ( 続く)

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2006/06/30

14.爆竹遊び

お正月のご馳走を食べ終わると、男の人はタバコを吸いながら、恒例のマージャンを始めます。女の人は、炒ったカボチャやスイカの種子をかじりながら、テレビに出ている人気歌手やタレントのゴシップの情報交換に盛り上がります。しばらくすると、部屋の中はタバコの煙が充満し、マージャンパイを混ぜる音、言い争う声、笑い声が混ざり合いこれこそ春節といえるにぎやかな雰囲気に包まれます。

 子供達は、春節前から準備しておいた爆竹を持って、外に飛び出します。言い伝えによると大晦日の夜12時に“財神爺 (福の神) ”が空から降りてくるので、皆で揃ってお迎えし、手厚くもてなさなければいけないのです。もう10時を回っていたのですが、子供も起きていなくてはいけないので、この日ばかりは、遅くまで外で遊んでもいいのでした。

 この日、私は“永生”という名の男の子とずっと一緒に遊んでいました。その子は、親族の関係からは私のおじに当たるため、中国的にはおじさんと呼ばねばならなかったのですが、実際には私より一歳年下でした。そのため私はどうしてもおじさんと呼べなくて永生と呼んでいましたが、そのうち周囲も認めてくれるようになりました。

 永生は爆竹遊びの名人でした。お店から買ってきた爆竹の束を一つ一つばらばらにしてビニール袋に詰めて持っていましたが、私にも分けてくれて遊び方も色々教えてくれました。様々に改良して、時には皆のどぎもを抜くような事をやってくれます。雪の上に爆竹を固定し火をつけた瞬間、卵の殻でふたをすると、殻が四方八方に飛び散ります。気の小さな私は頭を抱えて“わぁー”と叫んで逃げようとした弾みに、足元の雪の凍ったでこぼこ道に足をとられ派手に転んでしまいました。永生はそれを見ておなかを抱えて大笑いするのです。

 永生の奇抜な遊び方にたくさんの男の子達が引き付けられて寄ってきました。皆競ってより危険な遊び方を考え出します。爆竹にコップをかぶせてパチパチはじける火花を見たり、屋根の上に打ち上げたり、壁に命中させたり、遠くに飛ばしたりやりたい放題です。終いには、手の平の上で破裂させたりし出します。私はこわごわ皆の後ろから覗いていました。 (中国では毎年爆竹遊びによるけが人が大勢出るそうです)

 私達が夢中で遊んでいるうちに、だんだん爆竹の音もまばらになり、外で遊んでいる子供達も少なくなりました。家々の台所の窓が開けられ、大きな爆竹の束が外にぶら下げられます。財神を迎える準備が整ったようです。永生は未だ遊びに夢中でしたが、私はそろそろ飽きてきたので家に戻りました。

                                            ( 続く)

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2006/05/15

10.妹の誕生  続

 数日の間、周りの人はみんな大忙しでした。祖母は卵や、魚をおいしく料理して、それをおばさんたちが順番に母へ届け、私もいつもおすそ分けに預かりました。

 そのうちに、周りの雰囲気にある変化が起こりました。気持ちが動揺しているのが、どうも私だけではないようなのです。周囲の大人の話から、私にも何となく事情が分かりました。母が又女の子を産んだことに、父方の祖母が怒っているというのです。

“女の子”をいくら産んでも、結婚したらよそのうちの人になってしまう。男の子だけが、家系を守ってくれる。男の子を産ま無いのは婚家に対する最大の不誠実だ・・・・。

そんなわけで、父方の祖母は、母と生まれたばかりの妹のお見舞いさえ拒否したのでした。男の子を産んで、最大の親孝行をしたいとずっと願っていた父が、妹の誕生に冷淡だったのはいうまでもありませんでした。

 祖母は当然、自分の娘が無事出産したのを喜んだのですが、母に対する婚家の対応に胸を痛めていました。このように色々問題はあったのですが、私自身は祖母の家で、相変わらず可愛がられて王女様のような生活を送っていて、妹に会ったのは数ヶ月先のことでした。

 張家の屋敷に戻ると、なんだかとてもよそよそしく感じられました。以前はなじんでいた周りの人たちとも何となくぎこちなくなり、挨拶しても心臓がどきどきしてしまいます。あの大きな隙間だらけの木のドアもずいぶん古びたように思えます。部屋の中には私の思い出が詰まっているはずなのに急に自分とは無関係に感じられるのです。

 ドアを開けて入っていくと、あの大きなオンドルの一番奥の壁によりかかりながら母は前かがみになって、赤ちゃんを抱っこしておっぱいを飲ませていました。私が部屋に入っていくと母は直ぐに身体を起こし話しかけました。

“あ、浩ちゃん、帰って来たのね!あなたの妹を見てちょうだい、可愛いでしょう!”そういいながら母は私の腕を引っ張ろうとしました。すると母の乳首が妹の口から外れてしまい妹は直ぐに激しく泣き出しました。私のほうに差し出された母の手は直ぐに引っ込められ、妹を優しくあやします。妹は泣き止んで、小さな手でしっかりと母のおっぱいを掴むと音を立てて吸い続けました。

 それから数ヵ月後、中国の“計画出産”政策がスタートしました。道路の両側、花壇の中、商店街の入り口、更には個人の家の塀にも“子供は一人”“家族は計画的に”“国家の指導の下、産児制限を”等々のスローガンが掲げられました。何処にいても、一寸顔を上げればその赤いペンキで書かれた文字が目に飛び込んできます。町中で、工場で、放送で“計画出産”の必要性が熱く語られました。

 しかし、父は寡黙になりました。彼の希望は消え去ったのです。“計画出産”政策は父に絶望をもたらしたようでした。

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2006/05/12

10.妹の誕生

妹の誕生は私にとっては、大事件でした。私はどうも歴史は苦手で、歴代の王朝の交替は言うに及ばず、近現代史も覚えなければならない事が多すぎて頭の中が混乱してしまいます。

 しかし、1978年に起こった事は、一生忘れる事は無いと思います。

 19785月、妹が張家の屋敷で生まれました。その年の10月、中国は“計画出産”政策を始めましたが、私が中学に入学するぐらいまで、このことをずっと恨めしく思っていました。計画出産の実施が遅すぎたのです。もしあと一年でも早く実施されていたら家族の愛情は私が独り占めできていたのです。当時の私は、本当に恥ずかしいぐらい自己中心的でした。

 私が祖母のうちに預けられている間、母と父は休日に時たま会いに来るだけでした。私も祖母をはじめ、三人のおじ、三人のおば皆とても良くしてくれたので、すっかり満足していて、母の体の変化など少しも気が付きませんでした。ある日突然、一番下のおばが興奮気味に外から駆け込んで来ると、大声で叫びました。

“お姉ちゃんが4キログラムもある女の子を生んだよ!お姉ちゃんも赤ちゃんも元気だって。”

 その時、私は他の部屋で絵本を見ていたのですが、おばの嬉しそうな声を聞いて、これは何かとてもいい事があったに違いない、お祝いのご馳走にありつけるかもしれないと一人合点して、絵本を投げ捨て、祖母のそばに駆けつけました。

“どうしたの?”祖母はベッドのそばに腰掛けて、おばの話に応じながら、いつものように私を抱き上げてくれました。

“良かった、良かった”そしてゆっくりと、噛み含める様に私に言いました。

“浩ちゃんのママは浩ちゃんに妹を生んでくれたよ。浩ちゃん、これからはママが妹の世話をするのを手伝ってあげるのよ。妹が大きくなったら一緒に遊べるよ。浩ちゃんにきょうだいができておばあちゃんは本当に安心したよ”

 おばは、せっかちにさっきの話の続きをします。

“その子、きっと美人になるよ。浩ちゃんが生まれた時は、顔が赤くて、痩せてて、顔中しわだらけでおばあさんみたいだったでしょう。今度の子はぜんぜん違うらしいよ。色白でふっくらしていて、目もぱっちりしてるんだって。それに元気に動き回るらしいよ”

 祖母は私の髪の毛をゆっくりなでつけながら、微笑んでうなずいています。

 それなのに、私はちっとも嬉しくありませんでした。みんながこんなに喜んでいるのに、何でか私はちっともいいことに思えなかったのです。

                  ( 続く)

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2006/05/01

9.おじいちゃんと豚

これは私が父に会いに軍隊に行く以前の話です。未だ幼かったのですが、記憶は鮮明に残っています。

 当時、食べ物の供給は限られていて、家族の人数に応じて、毎月の粮票(食料交換券)が配られ、それに応じて購入量は決められていました。特に白米、小麦粉、白砂糖、豚肉、大豆油などはとても貴重なものでした。

 祖母の家は人数も多く、又毎月の配給さえ確実に手に入る保証もないので、祖父は対抗策を考えました。祖母の家に面して、緑の塀に囲まれた小さなトサツ場があって、時々付近の食堂の主人が安く仕入れた数頭の豚を、ここで従業員に処理させていました。祖父は、仕事の合間にここを手伝う事にしたのです。

 初めて“殺豚事件”に遭遇したのは、ある夏の正午のことでした。その日はうだるような暑さで、私は友達と一緒に家の前の石のベンチに座って静かに絵本を見ていました。その時一台の汚れたぼろいトラックがブブッと警笛を鳴らしながら傍を通り過ぎていき、埃が巻き上がって、顔に吹き付けられたので、私達は手で払いながらブツブツ文句を言っていました。

 突然誰かがトラックを指差して大声で叫びました。

“見てごらん!車の中に豚がいるよ!”

豚が見れるなんて、町に生活している子供にとっては、めったにめぐり合えないチャンスです。みんなで車を追いかけました。突然、あの緑色の塀の前で停車したので、私達はすぐに車を取り囲み、中を覗きました。

 雪のように真っ白な、丸々太った二頭の豚が、大きな頭をゆっくりと揺らしながらあっちこっち眺め回しています。いかにも機嫌よさそうに見えました。もしかしたら、これが彼らにとって初めてのドライブで、道中いろいろなものを見れたせいかもしれません。

 私達を見ると、大きな耳を揺らしながら、嬉しそうに近寄ってきました。私が手を伸ばすと、厚ぼったい鼻を摺り寄せてきます。その鼻はヒヤッとしていて、鼻水でぬれていました。よく見ると、ふっくらした顔のなかの細い目が、上目使いにまるで笑いかけているようです。

 私達は“よしよし”とかまいながら、彼らに名前をつけました。1頭はとても太っていて全身だぶついた皮が輪っかのようだったので“円円”、もう一頭はとても白かったので“雲雲”と名付けました。

                                       ( 続く)

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2006/04/24

8.おばあちゃんとにわとり 続

 その頃、私は鶏の言葉がわかりました。おなかがすいた時は、抑えた低音でいつまでもククッと鳴き続けますが、食べ物が目の前に置かれると、とたんに嬉しくてたまらないという感じの、せっかちで、甲高い声に変わります。怒っている時は、低く沈み何かうったえるようでもあり、時には興奮して威嚇しているようでもあります。なかでも私が一番待ち望んでいたのが、卵を産む“予告”でした。母鳥の苦しそうなうめき声を聞くと、私は大喜びで鶏小屋の前に駆けつけると、じっとしゃがみこんで待ち続けます。そうして生み出されるや否や、未だ体温が残って暖かく、殻も柔らかな卵をそっと拾いました。

 家で鶏を飼うというのは、ペットを飼うのとは訳が違います。祖母の家の台所は、そんなに広くなかったので鶏小屋が大半を占めてしまい、祖母が料理していると、小屋から首を伸ばした鶏に、ズボンの裾を突つかれて困っていました。

 狭いのも閉口しましたが、もっと厄介だったのは、糞の始末です。毎朝、家族に朝食を食べさせた後、祖母の最初の仕事が鶏小屋の掃除でした。大きなシャベルで、一日分の糞を掻き出します。この匂いが一種独特で、私にとっては、慣れ親しんだせいか、今では大好きだった祖母の家の懐かしさと分かちがたく結びついています。

 祖母は毎日新鮮な卵をゆでてくれましたが、これは当時としてはとても贅沢な事でした。私が家の前で、石に腰掛けゆっくりとゆで卵の皮を剥いていると、匂いと、私のいかにもおいしそうに食べている様子に引かれて近所の子が集まってきます。

“おいしい?”

“もちろんおいしいよ!”

私は、得意の絶頂です。

“ほんとに?どんな味なの?”みんな熱心に聴きます。

ところが味の描写は、当時四、五歳の私には難しすぎました。でも美味しいと自慢した手前、証明しなければなりません。仕方なく、気前いい振りをして少し割ってあげます。

“味見したら分かるよ!”その子は食べ終わると、おおげさに

“うん、ほんとにおいしいね!”といいます。

 二日目、私は例のとうり、みんなの前でゆで卵を食べ、みんなも私を取り巻いて“無邪気”に聞きます。“どんな味?”・・・・・・・・・以下同文。これが毎日続きました。

 祖母は、いつも私のそばで笑いながら見ていましたが、時には

“お前はお馬鹿さんだね!”といいました。今考えると、確かに私は“お馬鹿さん”だったようです。



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    大田和美さん、おめでとうございます。

 政治家は、選ばれてからが本当の勝負だと思います。若さにはエネルギーがあります。各方面の経験と知恵を取り入れ、有権者の期待を裏切ることなく、がんばって下さい。

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2006/04/21

8.おばあちゃんとにわとり

父は退役後、直ぐにある工場の警備関連の仕事に就きました。父の気持ちとしては、余り満足のいくものではなかったようでしたが、なんと言っても国営企業です。給料はあまりよくなかったのですが、工場の収益に関係なく、安定した収入が保証されていた点に魅力を感じていたようでした。

 父も母もとても忙しくなり、私の世話まで手が回らなくなって、私だけまた祖母の家で暮らす事になりました。

 祖母は社会に出て働いた事はありませんでした。しかし、七人の子供を育て上げる一方、夫の世話をし、両家の年寄りの面倒も見なければならず、休むまもなく働き続けました。その中で、孫娘の世話をするのは、祖母にとっては息抜きできる楽しいひと時だったのでしょう、とても私を可愛がってくれました。

 祖母の家で過ごした日々は、楽しい思い出でいっぱいです。祖母はとても温和な人で、他人に対して怒ったのをみた事がありません。私が機嫌悪い時は、何かかにか私の好物を出してなだめてくれました。

 でもその頃は、食べ物は少なく、配給制だったので、たとえお金があったとしても欲しいものが手に入らなかったのです。祖母自身の身体も弱く、真っ先に栄養を取る必要があったのに、いつも“目の中に入れても痛くない”孫娘の私のことを最優先に考えてくれました。

 

 国が貧乏で、国民の生活まで手が回らないなら、“自力更生、豊衣足食”、自分達で何とかするしかありません。祖母はアパートに住んでいましたが、台所の一角に、十数羽の鶏を飼っていました。雄鶏は大きく育てて、お正月のご馳走になりますし、雌鳥は毎日卵を産んでくれます。

 夜が明けると、雄鶏は競い合うように甲高い声で時を告げます。雌鳥も負けじとククッ、ククッと鳴きます。まるで音楽会のようです。

毎日同じ頃夢の中から呼び戻されますが、寝返りを打ち又中断された夢の中に戻っていくのもまた心地よいものでした。大きなベッドには、年の近いおじさんおばさんも一緒に寝ていてみんなも、鶏の声で一斉に目を覚まします。それに連れ、ベッドが上に下に、まるで鶏の合唱に合わせているように揺れるのです。そのたゆたいのなかにいると、親しい人たちに囲まれているという安心感が沸いてきて、私はまた夢の中に戻っていきました。


 今でも時々、その時のなんともいえないぬくもりを思い出します。同じベッドに45人一緒に寝る事も無くなったし、気心を知り尽くした者同士、同じ時、同じようなことをして、同じような気持ちを共有する機会が、それ以後ほとんどなくなったせいかもしれません。

                 ( 続く)

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2006/04/14

7.張作霖のお屋敷

楽しかった軍隊での生活も瞬く間に終わってしまいました。あるおだやかな朝、母は重い荷物を抱え、部隊の宿舎を出ました。

それから間も無く、父が退役するという連絡がありました。母はうれしくてたまらないようでした。

“パパがもうじき帰ってくるのよ。もうパパと離れ離れの生活をしなくていいのよ!”

このニュースを聞いても、私は戸惑いこそすれ、ちっとも嬉しくありませんでした。

私は、生まれて以来、あの半年の軍隊生活を除けば、ずっとおばあちゃん子でした。祖母に抱っこされ、祖母に添い寝してもらって眠りに入る毎日だったので、父が帰ってきてこれらの生活がガラッと変わってしまうなんて考えただけで不安になりました。

父がついに帰ってきました。

秋も深まったある日、母の手作りの、真っ赤な地に、ピンクの小さな花柄模様のある綿入れを着て、父を迎えに駅に行きました。駅は、寝具からなべ釜まで背負った出稼ぎの人たちでごった返していて、小さな私は、ともすれば弾き飛ばされそうになります。

急に母が手を挙げ大声で叫びました。

“ここよ、ここに居るわよ!”


父が出稼ぎの人と同じように大きな荷物を担ぎ、私達の方へ大またで急いで歩いてくるのが見えました。この時私には、何人もの兵士を引き連れオートバイで迎えに来てくれた初めてあった時のかっこいい父の姿が浮かんできました。でもあの時の父と、今、目の前に居る父はどこか違います。同じ軍服を着ているのですが、良く見ると、帽子のあのキラキラ輝いていた赤い星がありません。星の跡が付いているだけです。肩章も無くなっていて、たくましい肩がなんだか寂しげです。

父は大きな両手で、以前と同じように私を引き寄せ

“パパだよ!早くパパって呼んでくれ!”といいますが、私には、軍人だった父と、今の父が何だか違う人のような気がして、どうしてもパパと呼べませんでした。

父が居ない時期、私と母は、母方の祖母の家に住んでいましたが、父が退役後、家が見つかるまで、臨時に軍人宿舎に住むことになりました。父はこの住居を後々までとても誇らしく思っていたようです。これは並みの宿舎ではなくて、張作霖が東北地方に駐屯していた時、住んでいた、由緒在る宿営地だという事でした。

                                                 (  続く )

  追記  題名は浩さんの原文では “張作霖的大院” となっています。はじめ大院を旧居と訳したのですが、屋敷の方がより適切な気がしたので修正しました。

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