2007/03/19

こぶしの花

  近くの里山を歩いた。ここ数日風が冷たくて又冬に戻ったような感じだが、自然は着実に歩を進めている。小高いところから眺めると、少し前まで、梅林が白く浮き出て見えたのに代わって、今はこぶしの木が、少しくたびれた常緑樹や、まさに新芽が展開を始めようとしている落葉樹の林の中に白い花をつけて点在して見える。

亭亭白 悠悠碧空 微微南来
木蘭花(こぶし)
開山崗上 北国之春天 

啊北国之春天已来
城里(都会〉不知季
節変換
妈妈(母〉猶在寄来包裹 送来寒衣御
啊故 我的故 何能回你 

これは今中国で人気の歌で、カラオケの定番という。春未だ浅い他郷で故郷を懐かしむ歌だ。臨海部に限られていた建設の息吹が全国に及び、地方から出稼ぎに都市に来る人、出張で他省に出かける人等々、中国で今故郷を離れ他郷で生活している人は一億人に上るという。厳しい寒さが緩みかけた時、ふと故郷を、懐かしい人を思い出す気持ちは誰でも共通のものなのだろう。 

この“北国之春”は実は日本の“北国の春”が中国語に訳されたものだ。したがって厳密に言えば木蘭花はこぶしではなく近縁のもくれんである。しかし春の到来を告げてくれる花として特別な愛着を持たれているのは日本と同じであろう。

   コブシのプロフィール

コブシはモクレン科の落葉高木で高さ15メートル以上になる。名前は果実が握りKobushi_2 こぶしに似ているためという。日本中の山野で見られるが、どちらかというと湿った平坦地を好むという。これによく似たタムシバは急斜面や尾根筋を好むというが、花は両者とても似ているため余り区別されていない。

 地方によっては、“田打ち桜”と呼ばれ、春の農作業の開始の目安にされたという。北国では春を告げる花として開花が待ち望まれたのである。

 モクレンは中国原産で古くから日本にも渡り、神社や庭園で大事にされている。

モクレン科には他に、東海地方固有のシデコブシや、芳香の有る大きな花をつけるホオノキ(朴の木)、タイサンボク、神社によく植えられているオガタマノキ、最近街路樹としてよく見かけるユリノキなどがある。

都知事選が近づいている。“よそ者”にも暖かい政治を行ってくれる知事さんになって欲しい。

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2005/11/07

黄河太鼓

 先週金曜日、パルテノン多摩 ( 多摩市 )で、黄河太鼓を聴いてきました。

 和太鼓の源流・・・、1400年の歴史を経て・・・、農民の間に代々受け継がれた・・・、日本初公演・・・等々のキャッチコピーに惹かれ会場に足を運んだ。

 二胡奏者でもある司会の許可さんの説明によると、黄河上流域の農村に戦国時代からあった伝統芸能で、本来は農作業の応援、休憩時の娯楽として発達してきたものだという。< 世間話 >、< ネズミの嫁入り >、< 犬が鴨を追いかける >など、農村の日常生活を題材にユーモラスに描写していて、ほのぼのと楽しめる。< 黄河太鼓の韻律 >など聴いていると、日本の祭りとオーバーラップしてくる。

 私は以前から和太鼓の響きが好きだった。太鼓の響きは胎児が聞く、母親の心音に似ているという説を聞いた事がある。世界各地に脈々と受け継がれている太鼓文化を見ればむべなるかなと思う。私は本能に素直に反応する人間なのかもしれない。しかし今回は、より身近に、歴史の継承を実感した。

 黄河と一口に言っても、下流から上流へさかのぼると流れの様相は一変する。激しく逆巻く激流に抗して、船を遡上させるのは、かっては人力に頼っていた。船につけられた綱を、多くの船曳きが渾身の力で引いたという。黄河太鼓は、その動きを統一し、力付けたという。

 < 黄河の船曳き >は、荒れ狂う黄河の濁流と戦っている、力強い人々の息吹を私達に直接感じさせてくれる。

 唐の事実上の創立者李世民は、軍隊の士気を高め、動きを統一させるためにこの黄河太鼓を活用したという。そのため黄河太鼓は唐の朝廷で洗練された形で儀式の時に演奏された。( それを見た遣唐使が日本に持ち帰り、雅楽として今日に伝わるという )

 < 秦王による兵の招集 >は、力強い大地の鼓動ともいえる当時の闘いの息吹を良く伝え、私達観客は息を呑み、圧倒された。

 終演後会場は、なりやまぬ拍手に包まれた。日本で言えば、中学生、高校生の年代を中心とするという団員の顔も汗と笑顔で輝いていた。1400年の時を経て、心と心が触れ合えた瞬間だった。

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2005/01/28

ベトナムの少女  ( 3-6 )

  合格発表の日、私は一人で夕方見に行った。 そして私の名前が無いのを知った時、私は泣いていた。 自分の泣いている姿を人に見られたくなかったので、暗くなった道を家まで歩いて帰った。 一時間位の道を、ずっとしゃくりあげていた。

 それから一ヶ月余り、私は初めて、ルートに乗っていない人間の惨めさを味わった。どこにも属していない。社会のどことも関わりの無い自分。

 そうだ、予備校に行こう。 私はある予備校に行った。 そこは、自分と同じ様な人達が集まっていた。 いくらか気分がまぎれた。 テストの成績も国語などは、上位に張り出された。 でも私は、そこで行われている授業が好きになれなかった。 東大の受験には、余り役立つとも思われなかった。 それで数ヶ月でやめてしまった。

 社会とのつながりを持ちたい。 その頃の私は受験より、自分自身の存在感をつかみたかった。 そんな模索の中で、社会人向けの合唱団と、登山クラブに参加した。
 その合唱団は、ソ連や朝鮮の民謡、労働者の歌などを教えてくれた。 大きな口を開けて、大きな声を出すことは、それなりに気分転換になった。 自分達で詩を書き、それに曲をつけるような事もやった。
 当時、米軍による北爆(ベトナム北部爆撃)が行われていた。 ちょうど東大受験のころ開始されたが、私はなるべく考えないようにしていた。 自分の気持ちを動揺させたくなかった。 その後も北爆は激しさを増していた。

 私は『ベトナムの少女』という詩を作った。
 “平和なジャングルの中の一つの村に、ある日、爆弾が落ち、愛する家族を総て失った少女が、戦いに立ち上がる”という内容だった。
 先生はとても、その詩を誉めて、後で曲をつけて、皆で歌ってくれた。 私はうれしいような、恥ずかしいような気持ちで、皆の歌声の中で小さくなっていた。

 登山クラブの方は、長続きしなかった。 なにしろ、社会人が主体なので、夜行、日帰りが主なパターンだった。 ある一日を書いてみる。 
 
 夜10時、上野駅集合、夜汽車で数時間仮眠をとり、真夜中に目的地に着く。 それから歩いて10数分、大きな川原に出た。 月明かりの下、テント設営の訓練を受ける。散々苦労して出来あがったテントの中で、朝まで就寝。
 5時頃、空が白むのと同時に起きて各自用意した朝食を食べる。 それから出発の準備。
 それぞれのリュックの重量が測られ、男性は30kg、女性は20kgに調整される。
私のリュックは軽すぎたので、川原の石を5、6個入れられる。 そして出発。
 私はそのリュックを背負って立ち上がろうとした。 でも、びくともしなかった。いくらがんばっても同じだった。 見かねて他の人が、リュックを持ち上げてくれて、私はどうやら二本の足で立った。少し腰を曲げて何とか重心をとった。
 それから数十分、登山口までの道のりが、長く長く感じられた。 私はロボットのように、機械的に足を前に運んだ。 

 登山口から道は急に登り坂になり、背中の重量が、一気に増加したように感じられた。 数十分で、私はもう一歩も前に進めなくなった。
 リーダーが来て、黙々と石を2、3個出して道端に置いた。 少し気を取りなおして、しばらく歩きつづけた。 でも私には、やはり無理だった。 貧血気味になり、頭がボーとして、目眩がした。 
 今度もリーダーは、私のリュックから石を取り出した。 しかも折角ここまで運んできた石を全部取り出した。 それ以後は、何とか皆と同じペースで歩き通し、その日の行程をすべて無事終了した。 ただ私には、二度とそれと同じ様な行動を繰り返す気力が残っていなかった。

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