2007/09/17

阿久悠さん、ありがとう

阿久悠氏が亡くなられて一月以上たった。ニュースで耳にしたときは、ああ・・・また時代の寵児が一人世を去ったな・・・という感慨と少々の寂寥感を感じたが、じきに日々のニュースの洪水に押し流され忘れてしまった。

先週テレビで“巨星・阿久悠の世界”という追悼番組があり、たまたまチャンネルを合わせた。氏の代表的な歌をエピソードを交えながら次々と紹介していた。

 上野発の夜行列車降りたときから・・・・♪

 青春時代が夢なんて 後からほのぼの想うもの・・・・

 また逢う日まで 逢えるときまで・・・・

 街は今 眠りの中 あの鐘を鳴らすのはあなた・・・・

あの時代、テレビから毎日のように流れ、いつの間にか口ずさんでいた歌の数々、気に入っていた歌、そうでもなかったけれどいつの間にか覚えていた歌、・・・・いずれも出だしを聞いただけで当時の時代が蘇ってくるような懐かしさに包まれる。

 銀河を離れイスカンダルへ 運命背負い 今飛び立つ・・・・♪

 ウルトラの父がいる、ウルトラの母がいる・・・・

え!これもソウなの、これもなの・・・・・。

時間の経過と共に私は、氏の書き残した世界の広さと多様性にしだいに圧倒されていった。生涯を通じて作品は5000曲を超えるという。

氏は作詞家であった。言うまでもなく歌は詞と曲と歌手による総合芸術である。いい曲がなければいい歌は成立しないが、いい言葉を得て始めて歌は心に響いてくる。しかし一般には歌手により歌われて初めて私達の耳に届いてくる。私もごく一般の愛好者の一人なので、誰が作ったかは余り関心がなかった。

氏は1937年、瀬戸内海の淡路島に生まれ、8歳で終戦を迎える。少年の頃から、東京に、“東京弁”(標準語)にあこがれていたという。大学進学で上京し、以来戦後日本の青春期の息吹を言葉を通して鋭敏に感じ取り、次々に作品に反映して行ったのだろう。氏の歌詞の言葉の新鮮な輝き、生き生きとした映像性、心にじわっと来る共感力・・・一つ一つの歌が、当時の日本の精神的断片を見事なまでに掬い取っている。

それはまた、標準語を全国津々浦々に浸透させていったテレビの普及と歩を一にしていた。

私達が氏の歌を聞いて懐かしく心が揺さぶられるのは、氏の歌が映し出したあの頃を心の中に再現されるからなのかもしれない。

時代が阿久悠を通じて歌を生み、その歌が時代に永遠の命を吹き込んだ幸福な出会いだったのかもしれない。

番組の中に出てきた写真を見ながら、一見ごつい感じだが、誠実な暖かさがにじみ出ている阿久悠さんの生前の笑顔が思い出され懐かしかった。

 

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2007/04/30

サクラと日本人  続

前回で見たように、水田稲作の開始(弥生時代)とともに数千年にわたり私達日本人と一緒に歩みを続けてきたと思われる桜だが、奈良時代に編まれた我が国最古の歌集、万葉集では梅に比べ桜は陰が薄い。

花粉考古学によると奈良(なら)の平城京跡からは、ムクゲ(芙蓉の仲間)の花粉が出土するという。韓国の国花がムクゲであるように、ムクゲは古来朝鮮民族に非常に好まれてきた。大和朝廷の創始者が、朝鮮半島からの渡来者という説が有力だが、花の好みからも朝鮮文化の影響の強さが伺える。万葉集に登場する朝顔は一説にムクゲのことという。

日本に定住した大和人によるナラの都の建設には、吉野山の原生林が大量に切り出され、二次林の雑木林に山桜が育ち、咲き誇るのにさほどの時間は必要としなかっただろう。次の平安時代に編纂された古今集では花といえば桜である。大和人の精神的な土着化が進行したのだろう。喜びにつけ悲しみにつけ、桜に託して歌われた。

戦国を統一し久々に平和をもたらした豊臣秀吉は生涯の集大成として、吉野の桜のもと盛大な花見を催している。

この後も、政治の中心の移動によるもの、村の人口の増加など様々な理由で周辺の開発が行われ、原始の森は伐採され、雑木林が誕生し、桜が人々の目に触れる機会が増える。

関東の未だ葦原が広大に広がる地に江戸幕府が開かれ、新田開発、農地の開墾を通じて周辺に桜の名所が誕生する。お花見は江戸時代を通じて庶民の最大のレクレーションとなる。

この流れは明治時代にも引き継がれたと思われる。桜は一貫して、日本人の生活の豊かさを実現していった喜びの象徴だったのではないだろうか。

それが一時期とはいえ、アジア侵略政策に伴い、国家(時の権力者)に日本人の命を粗末に扱う象徴として使われたのは、桜にとって迷惑この上なかっただろう。戦後お花見が復活するが、年々大きく育つ桜の木を見るに付け、この平和がこれからもずっと続く事を願わずにいられない。

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2007/02/20

ウメ (梅)

Ume1 今年の梅の開花は早かった。梅といわず、いろいろの花木の開花が前倒しになり、暖冬をいやでも実感する。

温暖化のストレートな表現なのか、細かい波の一つなのか分からないが、素直には喜べない。


 例年だと、寒さの未だ厳しい中、一輪、二輪とかすかな芳香を伴い開花する白梅に春の遠からず来ることを予感し、光がそういえばずいぶん明るくなってきたなと感じたものだった。それからだいぶたって、我が家の庭の八重のピンクの梅も咲きそろった。

 それが今年は、あちこちの梅の開花情報に誘われ、見て回るうちに、我が家の梅もいつの間にか見頃を迎えている。

 ウメは花としても、実としても日本人の生活のなかに溶け込んでいる。梅干といえばおにぎりの具の定番だし、私の経験では体調が悪い時でも、ご飯と梅干だけは受け付ける。夏の飲料といえば幼い頃からずっと梅酒と麦茶だ。

 しかし私が花それ自体を観賞するようになったのは、あんがい最近かもしれない。日常の雑事に追われていると花をしみじみ見る余裕もなかった。

各地の梅の名所も、実梅林起源のものが多いようだ。近くの里山には、未だ現役バリバリの実梅林が幾つかある。わざわざ見にくる人もいないのだが、風に乗って遠くまで花の香りが漂い、満開の時は、一帯が白雲に包まれたようで美しい。メジロやホオジロなどが枝を飛び交い、田舎のよさを満吃できる。

 こんなに日本人の生活に溶け込んでいる梅だが、中国の南西部が故郷のようだ。奈良時代に薬用として渡来したというが、同時に花を愛でる文化も渡来したようで、万葉集には在来のハギを歌ったものに次ぐ、118首が詠まれているという。

 

 わが園に梅の花散る

      ひさかたの天より雪のながれくるかも               (大伴旅人 730年)


  東風ふかばに匂ひおこせよ梅の花 

      あるじなしとて春を忘るな  

                                      (菅原道真 901年)

  前者は散る花びらを雪にたとえて美しい。後者は平安時代に詠まれたものだが、作者の悲しみが読む人に伝わってくる。

 本家中国でもこの二つの潮流が見られる。

   

 疎影横斜水清浅  暗香浮動月黄昏。 宋 林逋 

  

  澄んだ水面に枝影映し、

     ほのかに香り漂う朧月夜

   

 故山風雪深寒夜 只有梅花獨自香。 宋 朱熹

  吹雪のなか深夜家路に向かう、

     梅の花のかぐわしい香りが迎えてくれた


 花と枝ぶりの美しさ、芳香、寒さのなかで咲く強さ。古来多くの歌に読まれ、愛されてきた。


 特に近代においては、民族としての存亡の危機のなかで、寒さに屈することなく、凛として気高く咲く姿に自らの理想を重ねた人も多かった。1911年、辛亥革命で成立した中華民国の国花とされたのも、当時の中国人の気持ちが投影されたのだろう。


 その後、中国本土には中華人民共和国が成立し、建国時の混乱も収まり、豊かな国づくりに励んでいるなか国花が制定されたという。牡丹、梅、蓮、菊、蘭の候補の中で梅派、牡丹派の間で議論伯仲したらしいが、最近投票で牡丹に決まったという。しかし梅人気はまだまだ健在で、女性の名前や、衣服の模様など多くの場面で目にする事ができる。

 訂正  最近国花が牡丹に決まったと紹介したが、実際にはまだ大論戦の最中で梅、牡丹両方を国花にという案も浮上しているという。

     

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2007/01/15

茶の歴史  続

 今回は経済、政治の観点から茶の歴史を簡単に振り返って見てみたい。

ヨーロッパ人にとって、不味い塩漬け肉をなんとかおいしく食べるための香辛料、特に胡椒は生活必需品だった。

インド、東南アジア産の胡椒は長い間、中東、地中海経由で運ばれ当地の商人に莫大な富をもたらしていた(ルネッサンスの原動力)。当時ヨーロッパでは、胡椒と銀は同じ重量で等価交換されたという。もっと安価に胡椒を手に入れたい。その動機が新航路の開拓に繋がっていく。

アフリカの南端を巡る新航路は、海路によるアジアへのルートを開き、コロンブスによる西方への航海は新大陸の発見(ヨーロッパ人にとって)へと連なる。以後世界各地でポルトガル、スペイン、オランダ、フランス、イギリスと次々と主役の変わる激しい覇権争いが繰り広げられた。

一方日本では、戦国の世も終息に向かい安土桃山文化は豪華絢爛の花を開いていた。茶道文化は時の権力者豊臣秀吉の庇護を受け、経済を握る堺の商人出身の千利休によって日本的美が追求された。

17世紀初頭オランダによりヨーロッパに紹介された茶は、東洋の文明の香りを伴って、初めはオランダの上流階級に浸透していく。はじめは香料中心であった交易品も、17世紀中ごろ以降中国産の茶が最も中心的商品になっていった。当時豊かな文明国であった中国にとってヨーロッパから欲しいものはなく、対価としては銀が用いられた。 この頃世界有数の産銀国であった日本の銀を独占的に扱っていたオランダの繁栄は、銀の産出の減少による幕府の銀輸出の停止(1668年)と歩調を一にして衰退に向かい、覇権はイギリスに移っていく。オランダでの喫茶の流行はイギリスに移り、一般庶民の間にも広く浸透していった。

1718世紀を通じて中国茶の輸入は増大しイギリスでは18世紀末には貿易額の首位を占めるようになり、見返りとしての銀の流失が増大する。北アメリカの植民地を巡るフランスとの戦争(七年戦争175463の一環)で勝利したものの、戦費を茶の関税の重税化で植民地の住人に押し付けたため強い反対運動が起こり、ボストンテイーパーテイ事件が発生(1773年)する。イギリス政府により独占権を得ていた東インド会社の大量の茶をボストン港に投げ捨てたというものだ。これを契機にアメリカ独立戦争(17751783年)へと発展していく。

アメリカ独立戦争の鎮圧のために要した戦費はイギリスの財政をさらに圧迫し、18世紀末には貿易バランス是正のため、中国へのアヘンの密輸に乗り出す。当時植民地化していたインドで大量のアヘンを栽培し、中国政府の目を盗んで売り込んだのである。

アヘンは当時長期の太平に慣れた中国人の生活に忍び込み心身を蝕む。度々の政府の禁止にもかかわらず、年々アヘンの密輸量は増大し1820年代には、清からの銀の出超にいたる。清朝は1839年密売人逮捕とアヘン没収処分という断固とした姿勢を見せるが、イギリスはこれを不満としてアヘン戦争(184042)を仕掛ける。敗れた清国は、南京条約により上海など5港の開港と香港の割譲(1997年中国へ返還)、さらに多額の賠償金を支払わされる。

これは先祖(バイキング)がえりともいうべき暴挙で、当時英国議会でさえ「こんな恥さらしな戦争はない」と反対論が強かったが、出兵に関する予算案は賛成271票、反対262票の僅差で承認される。

この武力による成功が、後の中国の運命を方向付けた。すなわち、列強による武力の横暴が野放しになった。

 一方で、イギリス国内で年々増えていく茶の需要を、何とか自前で補いたいという努力も続けられた。1820年、インドのアッサム地方で見つけられた自生の茶はその後生産拠点を広げ大量生産されていく。

安価になった紅茶と、やはりインド起源(後に西インド諸島)の砂糖、自前のミルクの合体したイギリスの紅茶文化はまさに、七つの海を制する大英帝国の栄光の象徴となった。

当然、英国の影響の強かった地域、インド、オーストラリア、植民地時代のアメリカでも紅茶は大いに歓迎された。しかしアメリカにおいては、独立戦争のとき、紅茶を飲まない事が愛国心の表れとされたため、現在にいたるまでコーヒーが根強く支持されているという。

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2007/01/08

茶の歴史

おせち料理や新年会で少々体脂肪が増えた向きには、プーアル茶がお勧めという。見た目は黒っぽいし、味もいまいちだが減脂効果抜群というので、最近は夕食後飲むようにしている。

いつもはおさんじなどに、チョッとしたお菓子と一緒に緑茶を飲むことが多いが、日本人だなー、平和だなーと感じられるお気に入りのひと時だ。


前にサザンカをテーマにした時周辺を調べているうちに、チャに関しても私にとってはいろいろ新しい発見があったので、ここで忘れないようにまとめてみた。


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 チャの花は、梅の花を一回り大きくした感じの白い花で、10月ごろ畑の隅にひっそりと咲いているのを見かける事がある。地味だが清楚で可愛らしい。しかしチャで注目されるのは何といっても葉であろう。みずみずしいつややかな葉は人類の歴史を通じて脚光を浴び続け様々なドラマが繰り広げられてきた。

 

 チャの故郷、照葉樹林に覆われた中国の西南部では古来、木の新芽を食用や香辛料として利用する文化があり、様々な葉が用いられてきたという。チャはその後薬草として注目され中国文化圏にも取り入れられたらしい。今から5000年の昔、中国の本草学の始祖が薬草を選ぶために様々な草を試食し、毒にあたった時に解毒薬として服用したと言い伝えられている。日本にも奈良時代に薬用としてもたらされたようだ。茶を服するという言い方が残っているが、服するは本来薬を飲む場合に用いられる。初め薬として渡来した名残だろう。

中国唐代の760年頃書かれた『茶経』によると当時すでに中国各地で茶が飲料として飲まれていたという。蒸した茶葉を餅のように固めたものをその都度砕いて飲んだもので、今日のチベットやモンゴルは当時の茶の製法や飲み方の流れをくんでいると言う。宋代の抹茶風な飲み方は1190年代日本に伝わり、茶道として洗練され今に伝わる。茶葉を蒸して製茶する飲み方は日本では今日まで受け継がれている。

中国では明になると庶民出身の皇帝の命令 (1391年)により、余りに精巧化し農民に負担を強いていた固形茶の製造が禁止され、作るのが簡単な散茶という茶葉タイプが主流の、釜炒り製法に変わる。

これらは緑茶(不発酵)の系統だが、宋代あたりから半発酵のウーロン茶、全発酵の紅茶なども作られる。この場合の発酵は茶自身に含まれている酸化酵素によるものだが、冒頭に紹介したプーアル茶は緑茶を更に麹菌で発酵させて作られるという。

ヨーロッパに伝わったのは、1610年オランダ東インド会社が長崎の平戸で手に入れた緑茶が最初という。その後、食事や水質の関係で紅茶が好まれるようになったらしい。ヨーロッパにも古来ハーブティーの習慣があり、喫茶の習慣が受け入れられやすかったのだろう。

19世紀から20世紀にかけて茶は世界的な飲料として飲まれるようになった。日本では日常茶飯事という言葉があるくらい生活の中に根付いているし、イギリスでも、三度の食事のときは勿論、ティーブレイク(おやつ)、アフタヌーンティー(午後のお茶)、ハイティー(夕方の軽食)など毎日の生活に無くてはならないものになっているという。

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2005/11/11

中国文化と日本

 前回紹介した黄河太鼓に、和太鼓の源流を見るのはあまり違和感を感じない。

 私は以前、日本文化への、特に庶民文化への影響は、中国南方の方が強かったのではないかと考えていた。

<南方文化の影響と考えられること>

① 稲作文化

② 日本の言葉に生きていると思える中国南部方言

  例  ○父親の通称 中国南部   ティエ (tie)、 

                        ティエティエ (tietie)

              日本   テテ (tete) 

                    テテ君 ( 父上 ) テテ御 ( 尊父 ) 

           ・・・・・古文に普通に見られる庶民言葉 。

               現在では "テテ親" "テテ無し子" などの俗語にわずかに残る。

              → トト (toto)    トト(toto) さま

              → おトウ (to)   トウ(to) ちゃん  

                おトウ (to) さん ( 現在最も普通に用いる )

    ( テ→トの例 ) ふテえ野郎だ ( 神経がふトい )

               人生テものは ( 人生トは )

               辛くテも    ( 辛くトも )

 これらの例はテよりトの方がより改まった感じがする。そのため父の呼び名テテがトトに変わって行った可能性は十分考えられる。

    ○ 呼び名につける接頭語   あ (阿)→お (御) 

            ・・・・・ 発音の変化の理由は解らない

      中国南部   あQ ( 阿Q正伝 ) あ扁  ( 陳水扁の愛称 ) ・・・・中国南方、特に台湾では、男女いずれにも、愛称として多用されているようだ。

               あ爸 ( お父さん )   あ哥( お兄さん )

               あ媽 ( お母さん、乳母 )

               あ姨 ( おばさん、保母さん )  

      日本      おしん( NHKドラマの主人公 ) 

               出雲のお国 ( 歌舞伎の創始者 )

               お滝さん ( アジサイの学名になる )  

               お菊 ( 番町皿屋敷 )

 ・・・・・・ 日本では、個人名の場合女性に限られていたみたいだ。

               おかあさん  おにいちゃん 

               おばさん  おじいさん

③ 日本各地における銅鐸の出土

 しかし今回、黄河太鼓を見た事で、唐文化の影響を改めて認識した。

<唐の影響と考えられること>  

①漢字の漢音 ( 音読み )

 遣唐使が唐の首都洛陽の標準語を学んで帰国。以後正式な音読みとされる。

 南方 ( 江南地方 ) の方言も、仏教などに伴って伝わるが、現存する数は少ない。

② 太鼓  雅楽と、各地に伝わる太鼓の伝達ルート、時期は異なる気がするが、どうなのだろう。

③ 獅子舞  遠くシルクロードを経てインドから伝わったものが、唐の時代流行したという。日本で一般庶民の間に広まったのは、時代を下って江戸時代という。

④ 東北地方の祭り、竿灯やねぶたなど、日本各地に提灯の祭りが伝わっている。中国では漢時代から見られたというが、唐の時代盛大に行われ現在の中国でも盛んな提灯の祭り “元宵節” の影響があるのかもしれない。

 こうして見てみると、日本における中国の影響は、時代、地域の違いにより幾つもの層を成しているのが解る。

 以上思いつくままに、列挙してみました。中国、日本の各地の伝統芸能や、方言を比較してみるときっと、より具体的な両国の文化交流の歴史が見えてきて面白いでしょう。この方面に詳しい方の、教えを請いたいと思います。また上記の論の運びに無理があれば、ご指摘ください。

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2005/05/27

革命現代京劇  ( 4-39 )

中国は当時、文化大革命の真っ最中だった。 私達中国語を学ぶ者は、“ 白毛女 ”や“ 東方紅 ”の歌を聞き“ 革命現代京劇 ”の映画を通して、中国の文芸に触れていた。

私は修士論文のテーマに“京劇”を取り上げ、それを通して中国の文芸を理解したいと思った。 中国の歴史を通じて、“ 京劇 ”のような歌舞劇は、民衆の圧倒的支持を得ていた。 各地、各時代に様々な様式が発展していた。

民衆の文芸を研究することで、今まで、とかく支配階級の好みに合わせられていた中国文学研究の新しい局面を開きたいと思っていた。 もう一つ私が修士論文でやりたかったことがある。 当時私は、人文科学系の論文に、“ある”空虚さを感じていた。 それらの多くは、事実を踏まえない、頭の中の空虚な理論のもてあそびに感じられた。 時には、結論が先にあり、事実を適当にあてはめていた。 謙虚に事実を見つめることから出発しない科学なんてありえない。

私はあえて、自分の論文を“ 事実 ”だけに語らせたかった。 “ 事実 ”の中から、物事の本質を浮かび上がらせたかった。 自分の論文の資料として、概論や、解説書などを極力排除した。 しかし、当時手に入る資料は限られていた。 その中で私は“人民日報”の中に現れる京劇の姿を丹念に拾っていった。 他に可能な限りの民間書籍も参考にした。“人民日報”は中国政府の機関誌であるため、政治主導的な面はある。 が、幸い、文革以前の京劇は比較的、政治から自由であった。

中国各地には、特色ある地方歌舞劇が存在した。 日本の宝塚の様に女性だけで演じ られるものもあった。 京劇も元は、地方劇の一つで、各地の要素を取り入れ、北京で人気を博し、“ 北京の劇 ”、即ち“ 京劇 ”と呼ばれるようになる。 しかし、北京は政治の中心でもあったため、種々の圧力も受け、出演者も男性だけに限られ、内容も支配階級好みのものへと変わっていく。 酒に酔った楊貴妃の表情を微に入り細に入り表現する事で、時代の寵児となった俳優もいた。


 そんな中で、解放後は一般民衆の好みに合う、もっと健康的な人物を登場させようという試みが、何度か繰り返された。

1964年6,7月に北京で開催された“京劇現代劇コンクール”には、全国18省市自治区から29劇団、2千人が参加し、京劇史上最大の盛大さであった。

ここで1964年6月、人民日報に載った二つの記事を見てみたい。

前者は、朝早くから、現代京劇の切符を手に入れるため、従来にないあらゆる層の人々が切符売り場に押しかけたことを紹介している。

後者には、従来の京劇にそっぽを向いていた青年層が、現代京劇を見て以来、熱心な愛好者に代わったことが紹介されている。

ticketuriba


wakamono  歴史的に見れば、文化大革命の中における“ 京劇革命 ”もその流れの一環として位置づけられた。

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2004/11/28

赤胴鈴之助    ( 2-6 )

 当時、ラジオでは 『赤胴鈴之助』 が放送されていた。 私は、この六時台に放送される連続時代劇シリーズが好きだった。 以前には、NHKで 『新諸国物語』 が放送されていた。 「ヒャラーリ、ヒャラリコ…」 笛吹童子の笛の音に乗って、私の心は、はるか昔の時代劇の世界に引き込まれた。 
 遊び疲れて、家に帰ってきて、この放送劇シリーズを聞いて、それから夕食というのが、私の生活パターンだった。

 「剣をとっては日本一に、夢は大きな少年剣士… 」
 この放送劇に端役で出演していたYさんは、私の友人の幼友達だった。 私達より一年先輩で、中学時代、夏期の林間学校の時、地域別グループで一緒になった。
 仕事が忙しいとかで、遅れて参加し、早く帰ってしまった。広いつばの赤い帽子と、パステルカラーのワンピース姿は、まるでファッション雑誌から抜け出てきたように見えた。 気楽にYさんと話す友人が 私にはちょっとうらやましかった。
 「どこの誰かは知らないけれど、誰もがみんな知っている… 」
 少し後になるが、この歌詞で始まる 『月光仮面』 も好きな番組だった。

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