2004/11/07

砂浜       ( 1-7 )

 海辺は少し遠かったので毎日の遊び場ではなかった。 それでも週1、2回は行ったと思う。 砂浜には色々なものが打ち上げられていた。 海草、流木、貝殻、時として犬や猫の死骸もあった。 海が荒れた日の翌日は、その量がぐっと増えた。
 いつもは砂浜に出ると右手の方角で遊んだ。 流木の上に登ったり、飛び降りたり、下の隙間をくぐったり…・。 海辺ではヒトデやフジツボやクラゲを棒でつっついたりしながら、のんびりと歩いていく。

 途中、砂とそっくりな模様のある小さなカニが、無数に砂浜を歩き回っている。
私達が近づくと、あっと言う間に小さな穴に入ってしまってシーンとしてしまう。
どんなにそっと近づいてもダメだった。 私達が少し遠ざかると、又穴からぞろぞろと出てきて、何もなかったように歩き回る。 私達はしばらく知らん顔をして、次の瞬間素早く走り寄る。 カニはさっとまた穴に潜る。 カニは私達と鬼ごっこをしているみたいだった。

 なおも歩いていくと、広い松林に出る。 迷路のようで中にはいると迷子になりそうなので、いつもそこが私達の探検の終点だった。 そこからもと来た道を引き返す。
今まで左手に見てきた海が、今度はずっと右手に見える。 ポッポッポッと蒸気船が通り、カモメが流木に止まる。 トンビが空高く舞い、ピーヒョロロと時折鳴く。
寄せては返す波の音。 海がみんなでお喋りしているようだった。
 そんな中で、私は桜貝を探すのが好きだった。 これは上の姉と一緒に来たとき、姉がとても喜んで拾うのを見てまねたものだ。 アサリやハマグリなどの二枚貝、サザエなどの巻き貝に混じって、薄紅色の桜貝の小片でも見つかれば、私は大事に家に持ち帰った。 空になった菓子箱に綿を敷き、その上に丁寧にならべていった。 それは私の大切な宝物であり、現在も捨てがたく、押入れの奥にしまわれている。
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竹の子      ( 1-6 )

 ある日、裏山の竹林で私と和雄ちゃんは竹の子を折って遊んでいた。 背丈ほど伸びた、子供でも握れるくらいの細目の竹の子だった。 最初一本折ってみたら、ポクリといとも簡単に折れた。 その折れっぷりの良さに、私達はうれしくなった。 そこら中の竹の子をポクリ、サクリ、ポクリ、サクリと折って大はしゃぎだった。 手近な竹の子を皆折ってしまうと、そろそろ飽きてきたので、次の遊びを探しに、山の中に入っていった。

 夕方、和雄ちゃんの家の方から、大声で怒鳴る男の声が聞こえてきた。 私は、いつも和雄ちゃんの家へ行くとき通る生垣の穴からそっと覗いてみると、裏山の農家のおじさんが折れた竹の子を縄でしばってぶら下げて立っていた。 その前で和雄ちゃんのお母さんがさかんに謝っていた。 私にも何となく状況がつかめた。 私と和雄ちゃんは 大変な事をしてしまったらしい。 どうしょう。
私は怖くなって裏庭の木の下にうずくまっていた。 あたりが暗くなってきた頃、母が探しにきた。 
 「こんなところにいたの。心配しなくていいのよ」
母はやさしく言ってくれた。

 私は母に連れられ、すごすご家の中に入った。 食卓には夕食が既に用意されていて、兄や姉はもう座っていた。 食事中、母が父に言った。
 「それにしても子供のやったことに、あんなにむきになって怒らなくてもいいのに」
私はやっとほっとして食事を食べる気になった。 私は確かに悪いことをしてしまったらしい。 でもそんなにひどく悪くもないみたいだ。 それにしても今度からは竹の子を折るのはやめよう。 それがこの日得た私の一つの教訓だった。

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みかん畑     ( 1-5 )


 私が広島に住んでいたのは5才から7才のころだった。 家の後ろは山あいの小さな水田や竹林を抜けるとみかん畑が続き、それを抜けると中国山地の山並みへと続いていた。 前方、直ぐのところを山陽本線が走り、その踏切を越えて小さな坂を下ると後は、瀬戸内海の砂浜まで水田と畑が続いていた。  砂浜の少し手前には宮島線が通っていた。 家を中心に半径1km位の円を描くと、丁度、当時の私の遊びの世界と重なる。

 私の遊び友達は、隣の和雄ちゃんと妹の良子ちゃん、あと和雄ちゃんちの向こうの家の小学生の陽子ちゃんだった。 裏山の水田では、春にはレンゲで花冠を作ったり、畦に生えるスカンポを食べたりした。 陽子ちゃんは物知りで、色々な事を教えてくれた。 食べられる草も色々知っていた。 みかん畑では、小さ目なのを選んで食べることも教えてくれた。 あまり大きなのを取ると、おじさん達に見つかった時に怒られるということだった。
 みかん畑は日当たりの良い斜面にあり、冬でも天気の良い日はポカポカと暖かかった。
甘酸っぱいミカンを口にほうばりながら、瀬戸内海を眺めると、島々が連なり、小船がのどかに行き交っていた。
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2004/11/06

ロボット電話   ( 1-4 )

 1950年、広島市の郊外、草津町に移る。 家は山陽本線沿いの山側にあった。 家の中に便所が三ヶ所もある広い家で、いつもは使っていない離れに行くのは、私にとって、一大冒険だった。 離れに行く廊下の途中に一ヶ所、夕日の時だけ、西日に照らされ赤く見える壁があった。 板で出来ているのだが、節がまるで生き物の目のように見えて、何か怪物のように見えた。 

 便所も、私には不思議の世界だった。 当時は、ボットン式で、私はいつも下を覗くたびに深く暗い中に何かが潜んでいるような気がした。 何がいるのか知りたくて、ある日、私は懐中電灯をもって便所に入った。 そして謎が解けると思った時、“ポチャン”、私は懐中電灯を中に落としてしまった。 そして私の謎は謎として残ったままになった。
  当時の電話も面白かった。 私にはそれがロボットの顔に見えた。 大きな目玉が二つあり、突き出した口があり、受話器を置く耳もある。 電話を使っている父や母は、ロボットと話をしているように見えた。

 海側と西側には、長い廊下が続き、その雨戸の開け閉めは兄や姉の仕事だった。 夜など本当に静かで、物音一つしなかった。 いかにも無用心な所で、事実私達が住んでいた時にも一度泥棒に入られ、父の一張羅の背広が盗まれた。 父はその後随分苦労していたみたいだ。
 当時、父の革靴もひどいものだったらしく、何かの宴会で、旅館に行った時、父が一番上席につくはずだったのに、女中さんに一番下の席に案内されたという。

 家の造りはいかにも古く、土間があって、そこのかまどを使って、薪で煮炊きをしていた。 風呂も五右衛門風呂で、浮き蓋を沈めてその上に上手く乗っからないと足が熱くてやけどしそうになる。 私一人ではどうしても上手く入れなかった。 休みの日は、父の薪割りを兄達が手伝っていた。 近所に附属の農地もあり、農家の人に半分貸してあげる代わりに、半分の手入れを頼んでいたみたいだ。 収穫は一家総出で当った。 自然には恵まれていたが、住み勝手は決して良いものではなかったので、父の後任者からは、市内のもっと便利な所に官舎が変わったという。

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前橋時代     ( 1-3 )

 1947年、父が前橋に転勤になり、私達は前橋市の官舎に移った。 その官舎はびっくりするほど広くて、正門を入って玄関まで続く道の両側には、一抱えもあるヒマラヤ杉の大木の並木が続いていた。 庭には小川が流れ、おたまじゃくしや メダカが泳いでいた。 私はメダカを獲ろうとしては、よくこの小川に落ち、ずぶ濡れになって母を困らせたらしい。
 上の兄は玄関前のニレの大木の上に、自分だけの“家”を作っていた。 私はそれがうらやましかったが、そこまで登れなかった。 仕方なく家の中で、椅子を横に倒し、その中に座布団を敷いて、自分の家を作って喜んでいた。

 クリスチャンだった母に連れられて教会にも行っていたらしい。 クリスマス前後、風呂敷きを背中にかけ、羊飼いの真似をして、家族を笑わせていたという。 忙しい母に代わって、私を風呂に入れるのは上の姉の役目だったようだ。 頭を洗うとき、一杯石鹸のついた泡だらけの髪を真ん中に寄せて、
 「ほら、キューピーさんみたい」
といって姉は笑った。 私もキューピーさんになるのが嬉しくて、姉に髪を洗ってもらうのが好きだった。
             kusatuonsen
                  草津温泉にて

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2004/11/05

多摩へ      ( 1-2 )

 終戦を迎え、私達は東京の多摩農林省鳥獣実験場内の宿舎に住むことになった。 父は当時のことを、「また、家族がそろって暮らせるようになり何よりうれしい」と日記に書いている。 当時の食糧事情は最悪だったらしく 
 「その頃の明子ちゃんの頭は、栄養失調のせいで、おできだらけだったわよ」
と下の姉に言われたことがある。 

 父は配給食料だけでは足りないため、母の着物をリュックサックに入れて、八王子まで良く買い出しに出かけた。農家でその着物を、米や野菜と取り替えて又満員電車で帰ってきたという。 玄米で配られる配給米を上の兄が自転車で多摩川を越えたところにある友達の精米所で精白してもらい、上の姉は未だ幼かった私を、いつもおんぶして遊んでくれたという。 
 そんな中、満州(今の中国東北地方)から母の妹、鶴子おばさんが、二人の幼い息子を連れて帰ってきた。 舞鶴まで父が迎えに行ったらしい。 着の身着のままで、憔悴しきって帰国した叔母と二人の幼い子供を、父と母は暖かく、迎え入れてあげたらしい。 叔父は満州で大学の先生をしていたが、終戦と共にソ連に抑留され、帰国したのは、数年後の事だった。

 「良く食べていけたわね」
 私が驚嘆して聞くと母は、
 「当時は、皆お互い助け合うのが当たり前だったのよ。近所の人も色々と食べ物を分けてくれたわ」
と懐かしそうに話していた。
そんな中でも、子供たちは元気に、近所の野山を駆け回って遊んでいたらしい。
昨年、母が亡くなった時、お通夜に来ていた従兄弟が言っていた。
 「あの頃は、楽しかったね。自然も豊かだったし」

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幼年時代  -広島の海と山並みー   ( 1-1 )    

   誕生
fujidana
 1945年9月、群馬県前橋市の郊外のS農園で生まれる。
 父39才、母35才だった。当時東京はBー29の空襲が激しく、母は下の兄を連れて、S農園に疎開していた。 上の兄は学童疎開で群馬の安中に、姉二人は岡山の父方の親戚に預けられていた。 数年前に肋膜炎を発病し、完全に復調していない父を、仕事とはいえ、東京に一人残しておくことは、母にとってはつらかったらしい。
 
 特に、3月の東京大空襲の日には、東京方面の空が一晩中赤々と光っているのが、市内からも見えたという。

 何はともあれ、私は空襲におびえる東京から遠く離れた、平和な群馬の農家で無事生まれることができた。 私自身、当時の記憶は全くないが、S農園は花の季節には人が押しかけるほど見事な藤の大木があり、傍らの池には沢山の鯉が泳いでいたという。  
           

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