2004/11/18

小学校入学   ( 1-15 )

  私が瀬戸内の豊かな自然の中で元気に遊びまわっている内に、二年近く過ぎ、小学校入学の年になった。 父と母は私をどこの小学校に入れようか迷っている風だった。 姉や兄は電車に乗って遠くの学校に通っていた。 しかし、小学一年生になる小さな私に電車通学は無理だと考えていたようだ。 しかし、地元の小学校は、漁村の子供が多く、私が入学して“いじめ”に会わないか心配しているようだった。
 私も以前のアサリの件もあり、父母の心配が伝わってきた。 色々考えた末に、下の兄が在学中の遠い小学校に私は通学することになった。

 私は“寄留”してその学校に入学する為、試験を受けに、その学校に連れて行かれた。
 「数を数えてごらん」 私は1から10までスラスラ言った。 
 もう少し先まで言えると思ったが、自信が無かったのでやめた。 次は三角形や丸、四角を見せられて、他の絵の中から同じ形を探すように言われた。 これは簡単だった。 帰りの道々、私は入学できるかどうか一寸心配だった 頑張って11、12、13まで言った方が良かったように思えた。 

 数日後、その小学校の入学許可の通知が来て、四月、私は、小学校の入学式を迎えた。 学校は私の家からは、宮島線に乗って二つ目にあり、後ろに山を控えた小高い所にあった。 校門を入ると大きな桜の木があり、入学式の日は、満開の花が私達を迎えてくれた。 校庭を入った右手奥に、竹で出来た登り棒があり、私は良く上まで登って遊んだのを覚えている。 下の兄は始業時間にすれすれ間に合うように家を出たが、私は遅れたくなかったので、兄よりいつも30分位早く一人で登校していた。 定期を持って電車に一人で乗り降りする時、何だか自分が一人前になった様で嬉しかった。

                  kyuushoku
                      給食の時間

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/11/17

西洋人形    ( 1-14 )

seiyouningyou この飲み会には高橋さんという人が来ていた。 高橋さんは「満州」で奥さんと娘さんを亡くしたという。 その亡くなった娘さんが、私と同じ年頃だというので、高橋さんは私のことをとても可愛がってくれた。  といっても当時の私は、恥ずかしがり屋で、家族以外の人の前に滅多に出ていかなかった。 母がなだめすかして高橋さんのそばに連れて行くと、高橋さんは、ある時は真っ赤なスカートをはいた西洋人形、又あるときはピンクの可愛らしいバックをプレゼントしてくれた。 前にデパートで見たことはあったが、高価そうで私には縁の無いものだと思っていた。
                                               
  ずっと後になって知ったことだが、高橋さんはとても悲しいニュースをその時母に告げていた。 母には妹が二人いた。 信子おばさんと鶴子おばさんだ。 信子おばさんは、「満州」の地方官吏をしている人と結婚し、「満州」に渡った。 パッチリとした目をしたおばさんそっくりの八郎ちゃんや、その他の従兄弟が写っている家族写真を見たことがある。 戦後、鶴子おばさんは、どうにか引き上げてきたが、信子おばさんの消息は分からず、母はずっと心を痛めていたようだ。 その母に高橋さんの口から伝えられた事実は、かなりつらいものだったと思う。

 敗戦濃厚の「満州」に、突如ソ連軍が国境を越えて攻めてきた。 国境近い町に住んでいた信子おばさん一家は、町の人達と共に、避難を開始した。しかし数日後にはソ連軍に追いつかれ、大多数の人が命を落とす中、おじさんは、信子おばさんと子供達の命を絶ち、直ちに自刃して後を追ったという。

 私がこの話を知ったのは、その後三十年経ってからだった。 日中国交が回復し、残留孤児の帰国が始まろうとしていた。 ある日、母と上の姉が、テレビを見ながら話していた。 
 「八郎ちゃん達、ひょっとして残留孤児の中に入っていないかしら」
 姉の言葉に、母は力無く首を振った。
 「最後を見た人が、報告してくれたんだから無理よ」
 そう言いつつ、母の目はテレビに次々と映し出される孤児の顔を、食い入るように見つめていた。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/11/15

さつまいも    ( 1-13 )

  その頃のおやつでもう一つ印象に残っているのは“爆弾あられ”だ。 定期的に“爆弾あられ製造機”を積んだ小型トラックが回ってきた。 母はお米とザラメを持って、決まった場所に出かけて行き、帰りにはバケツ一杯に膨らんだ爆弾あられを持って帰ってきた。 それは米ビツに移され、毎日のおやつの時間にコップ一杯づつもらえた。私は今でも、似たお菓子をスーパーなどの店頭に見かけると言い知れぬ郷愁に満たされる。

サツマイモのふかしたのも私の大好物だった。 というより私は、生まれてこの方、食べ物に関しては好き嫌いがない。 何でもおいしく食べられる。
 これは戦後の何もないときに生まれ、五人兄弟の末っ子として育ったという環境によるところが大きいと思うが・…。私は食べ物に対する自分のこの適応性をあり難いと思っている。 私が成長して色々なところに行ったとき、その地に違和感を感じない要因の一つだと思うからだ。

 さて、サツマイモの話しに戻る。 私はある時、自分でサツマイモを作りたいと思った。 母に相談すると、農家の人に苗を分けてもらうといいと教えてくれた。
 私は早速、線路を越えて直ぐの所にある農家に行って、おじさんに頼んだ。 この農家には以前にもちょくちょく遊びに来たことがあった。 脱穀の時など、箱の中に稲の束を入れて、面白いように米と藁を別々にしていく。 

 農家の庭には家畜小屋があり、そこで馬や牛を見るのも楽しかった。 その頃は、牛は水田や畑を耕す時、活躍していたし、馬車は郊外では主要な運搬手段だったように思う。 道には、いたる所に牛や馬の糞が落ちていた。 誰かに“牛の糞を踏むと背は伸びないが、馬の糞を踏むと背が高くなる”と聞いたことがあったので牛の糞は注意深くよけて通り、馬の糞は乾燥したのを確かめてからおもむろに踏んだ。 

 おじさんは快く一握りほどのサツマイモの苗をくれた。 私は家に帰ると門の横にあった空き地にシャベルで一つ一つ苗を丁寧に植え付けた。 水をやり、雑草を抜き、一生懸命世話をした。 ある日苗の上に古新聞のかけらがついていた。 この光景はその頃の畑では良く見かけられた。 農家では当時人糞を肥料にしていた。 我が家にも定期的に農家の人が汲み取りに来て、その代わりに野菜をくれた。 その農家の人が私のサツマイモ畑にもちゃんと肥やしをまいてくれたのだ。
 そんなこんなで、収穫のとき、私の小さな畑から、バケツ一杯のサツマイモが採れた時は本当にうれしかった。 母がふかしてくれたそのサツマイモは、少し細めだったけど、今まで食べたどのサツマイモよりもおいしく感じられた。

 “ごちそう”といえば、私の誕生日に母が作ってくれる“おはぎ”と“あんみつ”も私の楽しみの一つだった。 私は今でもあんこといえば、あっさりした味の粒餡が大好きだ。 それは、母の味だった。
 とっておきのごちそうは、年に何回か、父の部下が家に来て飲み会をやる時に出された。 母がいつも用意するものに、チーズの薄切りとコンビーフがあった。 私は母の用意する傍らにつきっきりで、チーズの切れ端とか缶に残ったコンビーフをつついた。 まさにこの世の珍味だと思った。

| | コメント (1) | トラックバック (1)

2004/11/14

女中さん     ( 1-12 )

 当時の母の労働は大変なものがあったと思う。 三度の食事はすべて、かまどを使う。 枯れ枝や新聞紙にマッチで火をつけ、薪に燃え移らせるのがまず一苦労だった。
火吹き竹で風を送り、随分時間をかけて、火の準備をする。
それから、研いだ米を釜に入れご飯を炊く一方で、味噌汁や煮つけを作る。

 洗濯ももちろん手で洗う。波形のついた洗濯板でゴシゴシと汚れた部分をこする。
天気の良い日、庭先の井戸水を使ってやっていた。 何やかやと、育ち盛りの五人の子供の世話で当時の母は体調を崩してしまったらしい。
 そんな訳で、家にお手伝いさんが来ることになった。 当時は“女中さん”と呼んでいた。 最初の女中さんは近所の農家の人でとても怖かった。 私が便所から出て、手を洗うのをサボったりしたら、すぐにしかられた。

 次に来てくれた女中さんはとても優しかった。 お人形さんを作ってくれて、その洋服も色々と作ってくれたので、着せ替え遊びが出来た。 買い物に行くときは、必ず連れていってくれた。 帰りには決まって“よろず屋さん”に寄り、キャラメル一箱を買ってくれた。 そのキャラメルにはおまけがついていた。 おまけの小さな箱を開ける瞬間、私はワクワクした。 どんな物が出てきても私には宝物だった。 空き箱にきれいに並べて大切にしまっておいた。 その後、我が家は何回か引越しを繰り返したが、その宝物はずっと私と一緒だった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

広島の街     ( 1-11 )

 ずっと後になって解ったことだが、和雄ちゃんのお母さんは、被爆者だった。
家の縁側で“ピカドン”(広島の人達は原爆のことをこう呼んでいた)を直接目撃したらしい。 その為に被爆後に生まれた和雄ちゃんと良子ちゃんにどのような影響が出てくるのかを、追跡調査していたらしい。

 でも当時の私には、ピカドンはあまり意味を持っていなかった。市内に母の買い物についていったとき見た原爆ドームは、錆びた鉄骨で屋根を作った変な建物だと思ったし、石の上についた、人の座った跡も、石の上にポッと黒っぽい円形の跡があると思っただけだった。

 街で大きなケロイドのある人を初めて見たときは、さすがびっくりした。 顔に伸ばした風船を張りつけたのかと思った。 でもそういう人は、街の中にも、デパートにも、電車にも沢山いたので、そのうち慣れてしまった。 それより私にとっては、市内はもっと面白いことがいっぱいあった。 デパートには色々な珍しい物が沢山あったし、買い物の終わった後、母がご馳走してくれるあんみつや夏の氷あずきは、何よりの楽しみだった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/11/12

チョコレート    ( 1-10 )

  隣の和雄ちゃんの家の庭には大きな池があった。 中には緋鯉が何匹も泳いでいた。私が遊びに行くと、おばさんは池の水辺で食用カエルをさばいている事がよくあった。
そのカエルは池に住んでいて、時々池の縁で見かけることがあった。 私が目を凝らしてみているうちに、少しバタバタしていたカエルは、あれよあれよという間に、半透明のプチプチした刺身のようになった。
 私が和雄ちゃんのお母さんのすることで、目を見張った事がもう一つある。
 おばさんは、家の中の大きなビンにいつもメダカをいっぱい飼っていた。 時々、ガラスのコップに5、6匹移すと水と一緒に一気に飲み込んでしまう。その度に私はキョトンとしておばさんを見つめていた。 私なら、もしメダカをもらったら、飲まないで大切に飼ってあげるのにといつも思っていた。

 和雄ちゃんの家は私にとって行くたびに新鮮な驚きに満ちていた。 おばさんは時々、押入れから大きなチョコレートを取り出して、それを割って私にくれた。 そんな大きなチョコレートの塊が次々と出てくる押入れは魔法の部屋のように思えた。
 時々、和雄ちゃんの家には、黒塗りの大きな自動車が横付けになり、正装したおばさん、和雄ちゃん、良子ちゃんがいそいそと乗り込んで、どこかに出かけた。そんな日は、前日から和雄ちゃんは、「明日は自動車に乗れるんだ」とうきうきしていた。 
 そんな和雄ちゃん達の話しを聞いて、父が、
 「GHQは、あの人達から、自分達の実験の資料を集めているようだ」
と苦々しく母に言うのを聞いたことがある。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2004/11/10

汽車ポッポ    ( 1-9 )

  当時のお気に入りの遊び場の一つに線路があった。 家の目の前にあって、汽車が時々やってきて、また行ってしまう。 そこは何かワクワクする場所だった。
 汽車はしょっちゅう行き来するわけでもないし、陽子ちゃんには線路に耳をつけて、汽車の遠近を知る方法も教えてもらっていた。 それに何よりももくもくと煙突から白い煙を出し、ポッポーと汽笛を鳴らしながら走る汽車は、随分遠くからでも解った。だから線路で遊ぶのが怖いなんて一度も思ってもみなかった。

 線路ではツクシ摘みや石炭拾いをした。 何にするという目的もなかったが、私と和雄ちゃんは、何か宝物探しのようなウキウキした気分で線路の周りの石炭を缶一杯になるまで拾った。

 汽車にまつわる想い出といえば、貨物列車の貨車の数を数えるのも当時の遊びになっていた。 後で知ったことだが、その頃朝鮮戦争が勃発し、山陽本線は軍需物資の輸送に追われていたらしい。 家の前を列車が通ると、その騒音で話し声も聞こえなくなり、私は手で耳をふさぎ、通り過ぎるのを待った。

 その待ち時間がすごく長い列車がだんだん増えていた。
 家の海側の縁側からは、列車の通過が良く見えた。 姉や兄は1台、2台とその連結車両を数え、その長さを競っていた。
 「今度のは32両も連結していたよ」
 「すごい、今までの新記録!」
 こんな会話を耳にして、私も一生懸命、貨車の通る毎に車両を数えた。
一、二、三、四・…、でも私の数は十を越えると怪しくなり、とても姉や兄の32まで数えられなかった。 後で兄に聞いた話だが、当時は時には50両を越えて連結されていたという。

 その貨車には、貨車の長さと同じ位の、一見コンクリートの棒のようなものが、無造作に積まれていた。 両側に数本の支えの棒があり、紐が上に掛けられていた。
母は「事故でもあったらどうなるのかしら…・」といつも浮かぬ顔で見ていた。
 その棒は爆弾というもので、遠くの方の戦争で使われているらしいということは家族の会話から解ったが、それがどういう事かは、全然見当もつかなかった。

                                 kisha.JPG

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/11/09

あさり       ( 1-8 )

 ある日、私と和雄ちゃんは随分遠出をしてしまった。 浜辺をいつもと逆の左手にどんどん歩いていくとアサリが砂から所々で顔を出していた。 少し手で掘ってみるとザクザクと面白いように出てくる。 二人は、近くに落ちていた木箱を拾い、中に一杯になるまで夢中で掘った。 ふと気がつくと、周りに見知らない子供たちが立っていた。
 「それはうちらのアサリだ。取ったらいかん」

 私はびっくりして立ちあがった。 だって海は皆の物でしょう。 私は理解に苦しんだ。 この子供達きっと意地悪して嘘言っているんだ。 私は納得出来なかった。
でも相手は多人数だし、強そうだった。 私と和雄ちゃんはせっかく一生懸命採ったアサリをそこに置くとスゴスゴと家に帰った。 家に帰るとすぐ私は、母に今日いやな目に会ったことを話した。 慰めて欲しかった。 あの子達は嘘つきで、悪い子だと言って欲しかった。 でも母は困ったような顔をしていた。

 夕食のとき、父と母は話していた。
 「きっと漁業権か何か、あのあたりの浜辺にはあるのね」 
私にはやはり理解できなかった。海辺に持ち主がいるの? 海は皆のものではないの?

海辺にて

| | コメント (0) | トラックバック (0)