2004/12/03

理科部生物班   ( 2-8 )

 中学校は、私の家から小学校と対称な位置にあった。 運動場は道を隔てて別にあり、そこに立つと私の家の二階が見えた。 部活動は活発で、皆何かの部に所属していた。 私は卓球部と理科部生物班というのに入った。 卓球部は当時人気があり、沢山の部員の中で、レギュラーに残るのは難しかった。 練習はレギュラー中心に行われ、他の部員は練習日も、卓球台の数も少なく、練習の順番を待っている時間の方が長かった。

 ある日の放課後、その日はレギュラーの練習だったが、仲良しの友達に誘われて一緒に練習をしていた。 そこに顧問の教師が入って来た。
 「今日は関係無い人が混ざっているな」
 冷たい教師のこの一言は私の心をグサッと刺した。 その教師は練習の指示を伝達するとまた、教室を出て行った。皆、私の回りに来て慰めてくれた。
 しかし、私はその日を境に卓球部から足が遠のいた。 それ以後も、私がスポーツ全体に余り親しみを感じなくなった遠因かもしれない。

 理科部生物班の方は楽しかった。 顕微鏡で見る極小の世界は、私をワクワクさせた。 金魚のしっぽを流れる血液の流れ、植物を形づくっている細胞の姿、プランクトンの奇妙な動き…・。私は週一、二回のその日が待ち遠しかった。
 ある時、ニワトリの解剖の実習があった。 といっても先生がやってくれた。 一羽のニワトリが、先生の手であれよあれよという間に羽をむしられ、内臓の説明が終るや、肉と骨に別けられた。
 私達が目を白黒させている前で、先生はその日の実習の終りを告げた。
 後は楽しいスキヤキパーテイーに変わった。 箸でつまんだ肉片が、ニワトリの心臓だと言われた時には、さすがにドキッとした。

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2004/11/30

卒業の頃      ( 2-7 )

 3学期も残り少なくなったある日、朝礼の時間、先生からこんな話があった。
 「昭和基地に残した犬の慰霊碑の除幕式に、S君が子供代表として呼ばれました」
 この年の2月、第二次南極観測隊が、悪天候に阻まれ、越冬隊員と数匹の犬しか救助出来ず、15匹の樺太犬が厳寒の南極に残された。 それを悼んで作られたと言う。
 S君が新聞に犬を救って欲しいと投書したらしい。 そんなこともあったので、翌年タローとジローが生きていたとのニュースに、私達は大喜びした。

 この頃、宇宙への関心も強くなっていた。 前の年の10月、ソ連が人工衛星の打ち上げに成功し、11月には犬が宇宙を飛んだ。 この年の1月にはアメリカも人工衛星打ち上げに成功した。 卒業文集に私は次のような夢を書いた。
 「将来ロケットに乗って、月や火星に行ってみたい」

 そうこうしている内に、小学校卒業となった。 卒業式の父兄代表として父が謝辞を述べた。 これは私の仲良しの友人の父親がPTA会長をしていた縁で、頼まれたものだった。
 「・…右も左も区別できない未熟な子供達を、ここまで育てていただいて・…」
 父の謝辞を聞いていて、私は顔が赤くなるのを感じた。  そうなんだ。 私は本当に右と左の区別が苦手だった。 

 「ご飯茶碗を持つのが左手、お箸を持つのが右手よ」
 母は何度も、繰り返し言ってくれたが、しばらくすると忘れてしまった。 東西南北を憶えるのも苦労した。
 ある時など、理科で方位を習った後のプリント練習で0点近い成績を取ってしまった。
母に見せるのがとても恥ずかしかったのを覚えている。
 九九の暗記も苦手だった。 家で何度も何度も練習していると、下の姉にまだ覚えられないのとからかわれた。 

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2004/11/28

赤胴鈴之助    ( 2-6 )

 当時、ラジオでは 『赤胴鈴之助』 が放送されていた。 私は、この六時台に放送される連続時代劇シリーズが好きだった。 以前には、NHKで 『新諸国物語』 が放送されていた。 「ヒャラーリ、ヒャラリコ…」 笛吹童子の笛の音に乗って、私の心は、はるか昔の時代劇の世界に引き込まれた。 
 遊び疲れて、家に帰ってきて、この放送劇シリーズを聞いて、それから夕食というのが、私の生活パターンだった。

 「剣をとっては日本一に、夢は大きな少年剣士… 」
 この放送劇に端役で出演していたYさんは、私の友人の幼友達だった。 私達より一年先輩で、中学時代、夏期の林間学校の時、地域別グループで一緒になった。
 仕事が忙しいとかで、遅れて参加し、早く帰ってしまった。広いつばの赤い帽子と、パステルカラーのワンピース姿は、まるでファッション雑誌から抜け出てきたように見えた。 気楽にYさんと話す友人が 私にはちょっとうらやましかった。
 「どこの誰かは知らないけれど、誰もがみんな知っている… 」
 少し後になるが、この歌詞で始まる 『月光仮面』 も好きな番組だった。

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2004/11/27

サイクリング    ( 2-5 )

 渋谷区といっても我が家の近辺には未だ所々に自然が残っていた。 幡ヶ谷駅近くの玉川上水には、水も少量流れていて、夏ともなるとホタルも飛んでいた。
 か細げな光が、闇の中をスーと飛び交っていた。 近所を小一時間も歩くと、何ヶ所か畑が残っていて、季節の野菜が植えられていた。 畑の隅には大抵、桑やサンショ、桃やミカンなどの木が数本植わっていた。

 自転車にもよく乗った。 一番よく行ったのは、八幡神社(代々木八幡神社)の境内に寄り、明治神宮に行くコースだった。 神社は、こんもりとした木々に囲まれた、小高いところにあり、境内には、日本史の教科書にも載ったことのある、復元された竪穴式住居があった。 秋には、結構盛大な祭りがあった。 入り口の石段を登ると、露店がぎっしり並び、ゆかた姿の人で賑わった。

 神社を過ぎて、小田急線の踏切を渡ると、広い道に出る。 向こう側にはワシントンハイツが現れる。 アメリカ軍用住宅で、以前は陸軍練兵場だったという。
 後に、日本に返還されて、オリンピック選手村に使われ、今では、代々木公園と青少年総合センターになっている所だ。 ワシントンハイツの高い金網に沿って、しばらく行くと、明治神宮の参宮橋門につく。 そこに自転車をおいて、中に入る。

 昼でも薄暗い、大木に覆われた砂利道をしばらく進むと、前方が明るくなり、広いなだらかに起伏した芝生に出る。私達はそこで鬼ごっこをしたり、ボール投げをして、思いっきり駆け回った。 体中汗をかき、疲れると、広い芝生の上に寝転がって、空を行く雲を眺める。

 ある時は、広い牧場でのんびり草をはんでいる羊の群だったり、又ある時は、天の羽衣をなびかせ、天空を舞う天女の姿だったりした。 時には、走馬燈のように、次々と場面が変化した。 親子連れのアヒルの後から、これ又親子連れの象が来たと思うと、サバンナの動物達が大挙して押し掛けてきて、その後を、一匹の巨大なゴジラが、口から炎を吹き出しながら追いかけてきたりした。青い大きなキャンパス、白い雲の絵の具。 私達は、想像の絵筆を自由自在に走らせた。

 時には、結構遠出をした。 友達四、五人と甲州街道沿いに芦花公園や多摩川べりまでサイクリングしたこともある。ある時、友人の一人が車道と歩道の間に積んであった砂に車輪をとられ、歩道側に転倒した。 その直ぐ横を、ダンプカーが排気ガスを黒く噴出して飛ばしていった。 もし、車道側に倒れていたらと思うと、私達はゾッとした。

        

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2004/11/26

代々木上原    ( 2-4 )

  1955年9月 父の退官にともなって、官舎を出なければならず、転居先を探した。
私も父と母に連れられて何軒かを見て回った。 本郷近辺や、小田急線の柿生周辺も見た。 最終的に西原の家に決まった。 代々木上原で下車、歩いて10分位の所にあり、京王線幡ヶ谷駅にも近かった。 敷地50坪の二階家だった。 5Kという間取りが父の気に入ったらしい。
 部屋数が多いので子供部屋がたくさん取れるからだ。 築20年で、借地権付き戸建てということで割安なため、父の退職金で手が届くという事も決めた大きな要因だったようだ。

 引っ越しの翌日、私は母に連れられて近所の小学校に行った。 私にとって四つ目の小学校だった。 学校は歩いて10分位の所にあり、校庭はコンクリートで覆われ、木造校舎はかなり傷んでいた。 事実、6年生の時、同級の女子が職員室の前を歩いている時、廊下の板が割れて足が中に挟まった。 どうしても抜けず、先生が鋸で板を切って救い出すという騒ぎもあった。 可愛そうに当分の間その女子生徒は、男子生徒から “デブ ” と呼ばれることになってしまった。

 当時ベビーブームとかの影響で、児童数が学年を追って増えていた。 教室が足りない為、校庭の隅にプレハブの校舎が建てられ、私達のクラスもすし詰めだった。 机と机の間は、横にならないと通れないし、一番後ろの席の人は、後ろの壁に寄りかかれた。
 校庭でも、激しい動きの遊びは禁止された。

 この時期、私は読書に多くの時間を割くようになっていた。 家にあった日本文学全集を片っ端から読み、学校図書館では名作といわれる本を手当たり次第に借りては読みふけった。 その内に私は、シャーロックホームズに夢中になり、シリーズを全部読みきると、次は怪盗ルパンシリーズにあたった。 それを読みきると世界推理小説選と、図書館のその手のめぼしい本は読み尽くしてしまった。

                 kouteinite
                      休み時間

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2004/11/24

お化けごっこ    ( 2-3 )

 私と康子ちゃんの一番のお気に入りの遊びは “おばけごっこ” だった。 夏休みになると、私達は何日もかけて、お化け屋敷造りに熱中した。 
 官舎の裏手はがけになっていて、笹や雑木が生えていた。 そこをよじ登ると、寺院の墓地に出た。 私と康子ちゃんは、そのがけで沢山の笹をとり、お化けの隠れる場所を作った。 それから、色々なお化けのお面を作り、ボロ傘を集め、衣装を整えた。

 準備が整うと、夕方近所の人を招待して、お化け屋敷大会を開いた。 二人は一生懸命、色々なお化けを演じ、母や姉も大いに怖がってくれた。
 ただじっと隠れている間、蚊に刺されるのには閉口した。 翌年からは、ブタの蚊取り線香を側に置くことにした。

 当時学校ではドッジボールがはやっていた。 休み時間だけでは飽き足らず、放課後誰かの家に集まっては、家の前の道で夕方まで続けた。 私はバレーボールは直ぐ突き指してしまうので苦手だったが、ドッジボールは好きだった。 最後まで逃げ延びて、生き残るスリルはたまらなかった。 手の力は無かったが、逃げ回るのは、野山を駆け回って育ったおかげで敏捷だった。 その頃、私達の間ではやっていた遊びには、ほかに缶けり、石けり、島オニ、ゴムだん、縄跳び、花いちもんめ、などがあった。
 何しろ、いつも外で遊んでいた。 家の中は狭かったし、おもちゃも無かったせいもあったかもしれない。

 家から10分位の所に、自然教育園があった。 武蔵野の自然が残されていて、中にはいると、鬱蒼とした樹木に圧倒される。 どんどん歩いていくと、奥深い池に出る。シーンと静まり返った水面を、水鳥がスーッと泳いでいく。
 なおも歩いていくと、突然視界が開け、明るい湿地に出る。 四季折々の野草が、美しい花を見せてくれる。 家族の誰かが行くとき、私はたいていついていったので、私には庭のような感じだった。 夏休みの絵の宿題は、ここでの写生に決めていた。

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2004/11/22

自転車       ( 2-2 )

  この時期に私は自転車に乗れるようになった。 康子ちゃんがおじいさんに買ってもらったとかで、ピカピカの子供自転車を手に入れた。 私達は毎日、夢中になってその1台で自転車乗りをけいこした。 順番が回ってくるのが待ち遠しかった。
 早い、遅いの差は少しはあったが、ある時期には皆マスターして、皆それぞれ自前の自転車を調達した。 私は兄の大きな黒い自転車を横こぎで乗れるようになっていた。私達は、近所の道という道を、我が物顔になって乗り回した。

 その内に、家の近くの坂道をブレーキをかけないで猛スピードで降りてくるスリルに私たちはとりこになった。 その坂は車の通行は滅多になく、人通りも稀だったし、結構広々としていた。 降りきった所を右手に曲がると、私達の家の前の道になる。
 ある時、私はハンドルを切りそこなった。 角の家のコンクリート塀に思いっきりぶつかって倒れた。 ものすごく痛かったが、ひざ小僧をすりむいただけで済んだ。
 その後もその急坂は、私達のお気に入りのスポットだった。

        

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2004/11/20

少女時代    ー東京へー     ( 2-1 )

           転校
 1953年2月 東京、品川区小山台に転居。適当な官舎の空きが無いとのことで、とりあえず入居した家だが、2Kの平屋だった。 今考えるとどうやって寝ていたのかと思うが、私には狭いとか、不便だったとかの記憶はない。 子供は何でも現実を受容するのだろう。

 新しい学校の帰り道、私は毎日、商店街のはずれにある、今で言うペットショップに寄り道した。 小鳥、犬、ネコ、ウサギから始まって、は虫類や魚など、色々な種類の動物が、所狭しとおかれ、私はいつまでも飽きずに眺めていた。
 また、家の裏手に隣接していた、林業試験場 (今は林試の森公園) によく行った。 苗木や実験林の間にいると、何となく気持ちが休まった。

 学校では、空き時間に、担任の先生が本を読んでくれた。
 お姫様が死ぬとき、四方八方に飛び散った八個の数珠玉の行方を探し求めるという話だった。 二つ三つと玉が現れる度に、私はどきどきした。 いつも次の空き時間を心待ちにしていた。
 また引っ越しが決まったときは、残りの玉の行方を知らないままに、その学校を去るのが何とも心残りだった。

 1953年5月 少し広い官舎が空いたということで、品川区上大崎に移る。
といっても3Kの家だった。 私には三つ目の小学校だった。 私はこの時期、初めて同年代の友達と遊びまわる楽しさを知った。
 三軒同じ様な官舎が並び、我が家の隣には同い年の康子ちゃんがいた。 官舎の北側に接して、広い芝生に囲まれた洋風の家が二軒あり、アメリカ人の家族が住んでいた。
父親は大学の先生だという話しだった。 そこの子供達も私達の遊び仲間だった。

 官舎内の境界は竹垣だったし、アメリカ人の家のフエンスは低かった。 私達は正規の門を通って行き来することは稀だった。 総てが一続きの庭だった。
 アメリカ人の子供の一番のお姉さん、メアリーは私と康子ちゃんと同い年だった。
メアリーの家には時々遊びに行った。 広いダイニングキッチンは南側に面していて、広くて、窓が大きく、とても明るい感じがした。 冷蔵庫がすごく大きく、中には見たこともない食べ物がギッシリと詰まっていた。 メアリーのお母さんは時々私達にクッキーを作ってくれた。 ミルクとバターの味がするおいしいものだった。

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