2004/12/24

O校受験     ( 2-17 )

 当時は、都立高に進学するのが普通だった。 クラスで数人の人が私立大学の附属に進み、都立が落ちた場合の滑り止めとして私立校を受験する人もいた。 私は当然の事として都立高の中から一校をを選び、願書を出した。 そんな中、母がO校の願書を貰ってきた。
 「都立受験前に、場慣れのために受けてみたら」
 たしかにそれまで、会場模試も、1~2回しか受けていなかった。 大勢の中で落着かないせいもあってか、模試の成績は悪かった。

 O校の試験は2月にあった。 当日試験のため、学校を休んだのは私だけだった。 後から級友に聞いた事だが、その日朝礼の時、Z先生は、私の欠席の理由を皆に説明した後、こう付け加えたという。
 「山川さんは、大丈夫、受かると思う」
 私は意外に落ち着いて受験できた。 体育の実技でドリブルをしたり、音楽で和音を当てたりするのは面食らった。 ペーパーテストも、重厚な問題で、学校のテストとは訳がちがった。 数学では手のつけられない問題もあった。 発表を見にいった時、自分の名前が50名の中に含まれていた。 私は早速母に電話で報告した。
翌日、Z先生に報告しに行った。 Z先生が喜んでくれた。 私は合格して良かったと思った。
 都立高の入試もせまっていた。 私は随分迷った。 母や姉達はO校への進学を勧めた。 私の心もO校に傾いていた。 しかし、都立に当然進学するつもりで準備してきたので、試験だけでも受けたかった。 そんな私に父が言った。
 「良く考えて自分で決めなさい。 O校へ行くことに決めたなら、都立の試験は辞退しなさい。 お前の受験で他の一人が傷つく事になるかもしれないから」
 都立の試験当日、学校は休みだった。 私は母と新宿に買い物に出かけた。 帰りの電車は、制服姿の中学生でいっぱいだった。 皆試験の帰りだった。 私はちょっと寂しかった。

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2004/12/21

Z先生のこと   ( 2-16 )

  中学3年の時のクラス担任は、職業家庭の先生で “Z先生” だった。 名字は山田だが、他にもう一人山田先生がいたので、名前の頭文字を取ってZ先生と呼ばれていた。 一学期の初めの頃、先生は自作のクラスの歌を作ってきて、まず自分で歌ってみた。 少々音痴だったが、歌は悪くはなかった。 私達も少々照れながらも一緒に歌った。
 Z先生はその頃 “禅” に熱中していた。 良く禅の話もしてくれた。 ある時、足の組みかたを教壇の上で実演してくれた。 私は家に帰ると早速真似をしてみたが、足首が痛くて、先生のようには組めなかった。

 ある時は、雑巾がけの禅的修業方法を話してくれた。 雑巾の洗いかた、いかに床をふくか、すべての動作に禅の極意を読み取れるらしい。 先生にかかると、日常のいやな事でも、面倒くさい事でも、とても有用な修業の対象になってしまった。 職業家庭の授業で簿記を習った事がある。 帳簿それ自体から、作り始めた。 白い紙にペンを使い、青インクと赤インクで線を引いていく。 始めから終りまで、均質に同じ太さで書くように言われる。 私達が苦心惨澹していると、先生はすまして言った。
  「ちゃんと線が引けるようになるには、何年もの修業がいる」
定規を使って書くので、真っ直ぐではあったが、インクの濃淡や、線の太い細いが出来る。
慌てると、インクのシミまで所々に作ってしまう。 それでも何度もやり直しているうちに、少し目を離して見てみると、結構見られるようになってきた。
  「オッ、きれいに書けたな」 
 先生に誉めてもらってとてもうれしかった。 私は職業家庭の時間が好きになった。

 この年は、安保闘争で日本がゆれていた。 新聞では毎日大々的に、安保をめぐる様々な動きが報道されていた。 しかし私は、余り政治には興味がなく、毎日の動物の世話や学校生活で忙しかった。 姉達は違った。 よくテレビを見ながら、上の姉と下の姉が話し合っているのも見られた。 姉達の話しの雰囲気から、私は何か大きな事が起きているのだと感じていた。
 そして、6月のある日、上の姉が目を真っ赤に泣き腫らして家に帰ってきた。 同じ大学の文学部の女子学生が、警官との衝突の中で亡くなったという事だった。

 私は数日後、同級生数人を誘って日比谷公園に出かけた。 何が起こっているのか。
 自分の目で見たかった。 日比谷公園周辺は、警官隊とデモ隊で騒然としていた。 怒声が聞こえた。 規制の笛の音が響き、激しく人波が動いた。 私達はこわごわ遠くからその様子を見ていたが、恐ろしくなって地下鉄駅に降りると、ホームに着いた電車に一目散に乗り込んだ。

 二学期になると進路指導が行なわれ、就職希望者と高校進学希望者それぞれ指導が行なわれるようになった。 Z先生は就職組の指導にかかりっきりになった。 その頃、50人のクラスの中で、就職希望者は10人前後だった。 私達のクラスではなんだか就職希望者の方が輝いてみえた。 その頃の私は、彼らに軽い嫉妬心さえ感じていた。 私が高校進学を希望したのは、何も特別に考えた結果ではなかった。 兄や姉も行ったので、それが普通の事と思っていただけだった。

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2004/12/19

囲碁熱      ( 2-15 )

 上の姉が、大学で “碁” を覚えてきて、父に相手を頼んでいた。 それを見ていた下の弟や妹達の間に囲碁熱が蔓延した。 私も暇さえあれば、姉や兄と碁を打った。 私達はまったくの素人で、手探り状態だった。 初めの頃の私達の碁は一見、挟み将棋の様だった。 真ん中の線をはさんで、代わりばんこに打っていく。 二本の白黒の線が両端に到達すると、それで、大体二分できたような気になった。 次に相手陣地に切込んでいく。 勝敗はオセロのように、生きるか死ぬかであり、何百目の差がつくのは日常茶飯事だった。 その内にだんだん、所謂 “碁” らしい布陣に変わっていった。 生か死かではなく、陣地の大小が主要な争点になってきた。

 この頃になると、父の暇な時を見つければ、誰か彼か相手をしてもらうようになった。 私が初めて相手をしてもらった時は、井目風鈴といって13目、主要な所に石を置いてから始めた。
 しかし、父は決して私の陣地を殺そうとはしなかった。 私の布石は、穴だらけであり、父がその気になればどれ一つとして生き残れなかったと思う。 が父は、私を一人前の “碁打ち” として扱い、無理のないところに打ってくれた。 だから父との勝敗は驚くほど差が少なかった。
 だが、決して勝てなかった。 そのうち、私の置き石は井目になり、四つに減った。 でも父には勝てなかった。 父は素人ではあったが、後に四段の免状をもらった。
  「もっと上は、お金の問題だ」
 実力があっても、免状をもらうためには、かなりの額のお金が必要になるらしかった。
父には一生、そんな金銭的余裕は無かった。

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2004/12/17

ミ ケ       ( 2-14 )

 クロは残された一匹を、前にもまして可愛がった。 三毛猫だったので “ミケ” と名づけた。 これで万事うまくいくと私は安心していた。 ところが、その内にチビが家から姿を消した。 私は迷子になったのかと心配して、近所を探し回った。 家から程遠くない家の前でチビを見つけて、ホッとして家に抱いて帰った。
 「ほら、チビを探してきてあげたわよ」

 私はクロが大喜びで、チビに近寄るものと思っていた。 次の瞬間、私は自分の目を疑った。 クロが突然、体中の毛を逆立てて、シッポまで、いつもの四倍くらいに太くして、フギャーとチビに飛び掛かった。
  「どうしたのクロ」
 私がクロを止めようとした時、チビは後をも見ずに、我が家から飛び出していった。 その後何回か、以前見かけた家のそばでチビを見かけた。 その家の庭の芝生で寝そべっていることもあった。 “器量良し” のチビは、どうやらその家に安住の住家を見出したようだった。
 
 動物の世界は厳しい。 きっとクロは、チビの独立の時期を知っていたのだろう。
その後、クロとミケの平和の日々が続いた。 ある日私は、家の前の道で、子供たちが騒いでいる声に気がついた。
  「子猫が死んでいる」
 私は不吉な予感に襲われ、二階から階段を駆け下り、サンダルをつっかけ、玄関から外に飛び出した。 道の隅にミケが横たわっていた。 その体をクロが一生懸命なめまわしていた。 幸い、ミケの体はきれいだった。 跳ね飛ばされたのだろう。 キズらしいキズも見当たらなかった。

 私はミケの亡骸を庭に運び、クロがいなくなったスキに庭の一隅に埋めた。 早くクロに忘れて欲しかった。 それからしばらく、クロにとっても苦しかっただろうが、私にとっても苦しい日々が続いた。 私はクロの子猫には、もうコリゴリしていた。
 “避妊” 、以前どっかで聞いたことがあったこの言葉が、脳裡を横切った。 野良猫、野良犬の増加を防ぐため、都では避妊を奨励している。 こんな内容を新聞か何かで読んだことがあった。 その時は、気にも止めなかったが、ここにきてこの言葉が救いのように浮かび上がってきた。
 そうだ、クロに避妊手術をしよう。 そういえば、クロはこのところ、精神的疲れのせいもあろうが、短期間の二度の出産で、体力を消耗したみたいだった。 以前の黒光りしていた毛のつやもすっかり無くなっていた。 動きも心なしか鈍くなっていた。

 私は保健所に電話して、避妊手術をしてくれる病院を聞き出し、クロをカゴに入れ、山手線の、とある駅を目指した。 その駅の改札口を出る瞬間、クロがニャーと鳴いた。 改札係は耳ざとかった。
  「猫を連れてますね。 猫の乗車券を頂きます」
 その時、三倍取られたか、人間並みだったかは忘れたが、その後に続く手術代、帰りのタクシー代と私にはかなりの出費だった。 麻酔からさめず、手足を硬直させて、腹に包帯を巻かれたクロは痛々しかった。 その後数週間、包帯が取れ、すっかり毛も生え揃って、また元気に走り回るまで、私の心は重かった。 私のした事は、クロにとって良かったのかどうか自信がなかった。

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2004/12/14

チ ビ       ( 2-13 )

 数年するとクロも大人になった。 当時、私は二階の東南向きの部屋を使っていた。 この部屋は初めは長兄、長兄の独立後は次兄、そして次兄が就職して地方に行った後、私が使用していた。 その部屋の北側は押し入れとなっていた。 私は上段を改造してベッドに、下段はカーテンをつけて物入れに使っていた。 ある日、そのカーテンの中へクロが入って、ゴソゴソしていたが、そのまま出てこなかった。 私は用事で階下に降りていくついでに、カーテンを開けて覗いてみた。
  「クロ、そんな所で何しているの」
 驚いたことに、クロは四匹の子猫のお母さんになっていた。 まだ目が開かない子ネズミみたいな赤ちゃんを クロは丁寧になめまわしていた。

 しかし、数日のうちに、次々と三匹死んでしまった。 初めてのお産で、クロも慣れていなかったのだろう。 残された一匹はスクスクと育った。 きれいな毛並みのキジトラで、シッポが体の長さと同じくらい長く、先まで真っ直ぐにスラッと伸びていた。 私はそんなに見事な子猫のシッポを それ以前見たことがなかった。 私はこの子猫を “チビ” と名づけた。 クロはチビをとても可愛がった。 私がチビをかまっても 機嫌を悪くした。 いつも一緒に行動していた。

 チビの運動神経は、クロを上回っていた。 親指ほどの小枝でも、難なく登ってしまった。 まるでリスが枝の上を駆け回っているように見えた。 それから数ヶ月して、クロが又子猫を産んだ。 それも四匹。 今度の子猫は準備期間が短かったせいか、毛並みがひどくバラバラだった。 顔半分が黒で、半分は茶トラだったり、口の回りが黒くて、その他はホルスタインみたいだったり、まるで一貫性に欠けていた。 その上、シッポは四匹とも短くて、しかも先端が曲がっていた。 どうしよう。 これじゃ、誰も貰い手が見つかりそうにない。 といって家で皆飼うなんて言ったら、母はびっくりしてしまうだろう。 クロとチビ、それに他の生き物の世話で、私は手一杯だった。 悩んでいる内に子猫はどんどん大きくなった。 目はパッチリ開き、庭を駆け回って遊ぶようになっていた。 どうにかしなければ。

 その頃、私の頭の中では “捨て猫” という言葉が、行ったり来たりしていた。 可哀そう。 でも当時の東京には、まだ野良猫の生きる十分な空間があった。 我が家にも、クロの友達の野良猫の何匹かが出入りしていた。 近所でもよく見かけた。 自分で生きる道を探して。
 私は意を決して、ある日、四匹の内三匹をカゴに入れて家を出た。 行き先は多摩川。
その川岸の草の茂みにそっと三匹を置くと、私は心を鬼にして、ミャーミャーという声を振り払うようにして、その場を去った。 あそこなら野鳥や虫も多いし、空間も広いから食べ物も探しやすいと、何となく自分に言い聞かせていた。

                               chibi
      チ ビ        

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2004/12/11

ク ロ       ( 2-12 )

 猫に関しては、色々と悲しい思いでもある。
 先ほども書いたが、我が家には常時一匹の猫が飼われていた。 その一匹が何かの事情でいなくなると(大抵は老衰で死んだ)、次のは空白の数週間のうちに、誰かが拾ってきた猫に決まった。 後になるが、私が高校生の頃から、家にいた猫 “クロ” は私が拾ってきたものだった。

 母は家族の世話やら何やらで忙しかったので、私が拾ってきた時条件をつけられた。
 「全部、明子ちゃんが自分で世話をするなら、飼ってもいいわ」
 猫の世話をするのは、私も初めてだった。 その真っ黒な捨て猫は、泥で汚れていた。 私は先ず風呂場で石鹸を使ってきれいに洗った。 いかにも小さな子猫は、水で濡れると、ますます小さくなり、消え入りそうな声でミャーミャー鳴いた。 この “猫の入浴” はクロの成長とともに、私にとって一大難事業となっていった。 体は大きくなり、力は強くなる。 ある時など、石鹸を付け終ったと思ったら、窓から外に逃げ出してしまった。 それ以来、クロの入浴中は窓をしっかり閉めることにした。 逃亡予防のほかにもう一つ目的があった。 クロは入浴の間中、まるで私が猫虐待でもしているみたいに、ギャオギャオ大声で鳴き続けるので、私も “世間体” をはばかったのである。

 クロは運動神経抜群の猫だった。 子猫の頃はよく後ろから、歩いている私の肩に飛び乗った。 たまには、乗り損なって、私の背中に爪を立てた。 その痛いこと、私の背中には数本の赤い筋が残った。 裏の家と我が家は1m半程の段差があったが、いとも簡単に飛び上がった。 庭木のてっぺんから顔を覗かせている事も良くあった。 スズメ獲りはクロの得意技だった。 庭の所々にスズメの頭が落ちていた。 最初私はその黒い丸いものを、マツボックリかと思って拾った。
 スズメの頭だと分かった時は、キャと言ってあわてて投げ捨てた。 当時はキャットフードもなく、我が家で肉や魚の残り物がでる事などほとんどなかった。 ご飯に味噌汁の残り、たまにニボシの食事では、クロにとっては物足りなかったのだろう。

 ある時は、山鳩(キジバト)を捕まえた。 この時は私もさすが、クロを山鳩から引き離したが、傷が深かったため、山鳩はすぐに死んでしまった。
 ある日、廊下にあったスリッパの上に、何か灰色っぽい物が乗っていた。 顔を近づけてみると、それは死んだネズミだった。 私は一瞬ドキッとした。 何てことをするの。 でも次の瞬間、私はクロの気持ちが分かったような気がした。
 「ワタシだってニンゲンに役に立つ事できるのヨ。 コレは、ワタシからアキコちゃんへのプレゼント」
 ただ、クロの気持ちが、他の人に誤解されても困るので、私は急いで、そのクロからの贈り物を片づけた。
                             koneko
                                 こねこ

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2004/12/10

十姉妹      ( 2-11 )

 我が家へ十姉妹のきた経緯は忘れたが、私の小鳥の最初のペットだった。 私はミカン箱を改造してカゴを作った。 片面に金網を張り、入口と糞の掃除用の引き出しを作った。 餌入れと水入れを買ってきた。 近くに小鳥屋さんがあったので、何かかにか教えてもらった。
 毎日、餌と野菜と水を取り替え、新聞紙を取り替えと、結構手間がかかったが、私にとって最初の本式ペットだったので、一生懸命だった。 野菜は小松菜やはこべをやった。 一度、小松菜を自家調達しようと庭に種をまいたが、10cm位に育った所で、青虫に全部食べられてしまった。
 十姉妹は良く卵を産んで、20数羽に増え、人にあげるまでになった。

 その内に、サクラ文鳥とカナリヤを、母が同級生の親と話をつけて貰ってきてくれた。 カナリヤは猫が箱をひっくり返した拍子に、入り口が開き逃げてしまった。 大学の薬学部に通っていた上の姉が、実験用のラットを二匹、貰ってきてくれた。 15cm位ある大きな白ねずみで、目が赤くて可愛かった。 ラットの箱は、りんご箱の上面に金網を張り、入口を付け、底一面にワラを敷き詰めた。 しかし、ある日、このラットは箱の木をかじって穴を開けて逃げてしまった。その後随分探したが、行方は分からなかった。

 大学の農学部だった上の兄が、蚕の卵を貰ってきてくれたことがある。 兄に教わった通り桑の葉を箱に敷き、上に卵を置いた。 数日すると黒い小さな幼虫が生まれた。 この “ケゴ” も脱皮を繰り返すうちに、見る見る大きくなり、薄ねずみ色の幼虫となり、又色が少し変わったなと思った時マユを作った。 私はその間、ワクワクしながら、せっせと桑の葉を近所の畑から貰ってきた。
  ある日、マユを破って蛾が出ていた。 箱の外に出ていたので、私は羽をひょいとつまむと箱の中に戻した。 その時、自分ながらビックリした。 今まで大抵の虫なら平気で持てたが、蛾だけは苦手だった。 夏の夜など、部屋に飛び込んでくると、ワアワア言って姉達と一緒に逃げ回っていた。 世話をしていたので情が湧いたのだろう。 そんなこんなで、私の周りは生き物だらけだった。 そんな私を、下の姉は “虫愛ずる姫” とからかって呼んでいた。
                            gomadara
      ゴマダラチョウ

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2004/12/07

ペットについて  ( 2-10 )

 私の家の西側は段差で高くなっていて、コンクリート壁と家との間は、何となく湿気も多く、じめじめしていた。 シダやドクダミなどが好んで生えた。 そこに数匹のガマガエルが住みついていた。 夕立の後ともなると、そこから這い出してきて、居間の前の庭をノソノソ歩いている。
 私が割り箸の先にご飯粒をつけてゆらしてやると、サッと舌を伸ばして食べる。 このガマガエルも、広い意味では私のペットだったのかもしれない。

 他にも、この時期、私は様々な動物を飼育していた。 十姉妹、カナリヤ、サクラ文鳥、ラット、蚕、…・そして犬と猫。 犬は、私のというより父のペットだったかもしれない。 父が友人の引っ越しに伴い、手放さざるをえなくなったスピッツを引き取った。 ピー子という名前だった。 母が食事、下の兄と私が散歩を引き受けた。 もうかなりの老犬で、程なく病気にかかり、獣医さんに見せたが死んでしまった。 父は今思うに動物が好きだったと思う。 私の記憶にある限り、我が家には必ず犬と猫がいた。 前橋時代、父がポインター種の犬を貰ってきた。 喜んだのもつかの間、数日後に盗まれた。 以後は大抵雑種だった。

 広島では、日本犬の血が混じっているという、なかなか立派な犬がいた。 耳がピンと立って、尾はクルッと巻き上がり、ひげと指の爪は黒かった。 これらは日本犬の特徴ということだった。
 しかし、山陽線ぞいの家が軒並み泥棒に入られた時期、この犬は庭で泡を吹いて死んでしまった。 多分毒を盛られたのだろう。 その数日後、我が家も泥棒に入られた。
 猫に関して言えば、父は自分からは大して可愛がる風には見えなかった。 しかし我が家の歴代の猫は、皆、父のあぐらをかいた上に丸くなって寝るのが、お気に入りだった。 広くって、暖かくて、何も干渉されないのが良かったみたいだ。 とにかく、父がくつろいでいると、たいてい、猫も気持ち良さそうに父のあぐらの上で丸くなっていた。

             jitensha
             ピー子と 私と自転車

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2004/12/05

部屋の掃除    ( 2-9 )

 その頃、私の部屋は、下の兄と共用だった。 父の座卓の足を継ぎ足して兄は使っていた。
 その横に、私は、新聞紙を広げるとはみ出してしまう位の小さな座卓を置いていた。 もっとも宿題をやる時以外は、使うことはほとんどなかった。 当時の私は “潔癖症” だった。 畳の上に髪の毛一本落ちているのを見つけても我慢できず、部屋の隅から隅まで掃除機をかけまくった。

 当時、二人の姉の部屋は、結構汚れていた。 部屋の隅に綿ボコリがあっても平気だった。 私は、その図太い神経にあきれるとともに、ひそかにうらやんでさえいた。私も姉達のようにおおらかな神経を持ちたい。
 下の兄も汚れにはいたって無頓着だった。 そんな訳で、何となく私がその部屋の掃除責任者になっていた。

 この話を息子達にしても、二人とも根っから信じない。 そういえば、今の私の部屋の隅には綿ボコリが積もり、机の上は、本、パンフレット、ハンドクリーム、テレビのリモコン、テイッシュ、鉛筆、と乱雑に積み重なり、目を凝らすとその上に土ボコリが薄っすらと積もっている。  人間は “進化” するものなのだ。

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