2007/11/26

再会

 ここの所ついてない。登山で左膝を痛めたがどうやら日常生活には問題なくなったと思ったら、またの故障である。

  数日来の冷え込みで冬物が間に合わず、重ね着してしのいでいたが、先週23日に本格的に冬物を出す事にした。押入れからセーターの入ったビニール袋を出し、シャツやマフラーの詰まった、洋服箱を出しと、ただでさえ狭い部屋が文字どおり足の踏み場もなくなった。そこでうかつにも、セーターの入っているビニール袋の上に片足を置きもう一方の足を上げたとたん見事滑って、よりもよって洋服箱の角にしりもちを付いてしまった。余りの痛さにしばらく声も出ずにその場にうずくまっていた。


 それでも主婦の悲しさ、夕食の準備に買物に行ったが刻々と痛みは募り、もう歩くことも椅子に座ることもできず、ベッドで痛い痛いとうめいていた。夜半帰宅した息子とお茶でも飲もうとフラフラ立ち上がって居間に顔を出した。そんな私を一目見るなり息子が言った言葉。


“ゾンビみたい!”・・・母親に対してそれはないだろう。確かに髪振り乱し、激痛に顔をしかめていた私の顔はこの世のものと思われなかったかもしれない。しばらくして

“年なんだから注意してよ。打ち所悪かったらあの世に行ってたかも知れないよ!”・・・御もっともです。

 そんなわけでもっと感動的文章で始めたかった報告がなんともトホホな前書きになってしまった。

 “あれから39年経っていた。11月22日、かっての日大全共闘の闘士と東大全共闘のシンパ女子学生が大都会の片隅の喫茶店でひっそりと落ち合った・・・・。”

 こう書き始めると一編の小説の冒頭にもなりそうなワクワク感も出て来るのだが、事実はいかにも散文的に進んだ。そもそもの事の始まりは、数年前にさかのぼる。私が慣れないブログに挑戦し、自叙伝的なものを投稿していた時、大学闘争のくだりで、暖かいコメントをいただいた。当時インターネットのジャングルを案内人もなく、恐る恐る手探りで進んでいる心境だったのでとても心強く嬉しかった。その後も何回かコメントをいただき力づけられた。1968年全共闘だった時代の管理人Yさんである。


 先々週、友人の見舞いで上京する折に会いたいとのメールを頂いた。もちろんOKである。最近NHKのハイビジョンで全共闘が取り上げられた際に、日大全共闘のメンバーの一人として登場されていたのでどんな方か、大体予想していたが初対面であった。しかし1968年の11.22の集会の時それぞれの全共闘のメンバーとして参加していたので、ある意味再会といってもいいだろう。

 一見したところ小柄で、穏やかな雰囲気のYさんの何処から、当時のあの猛々しいとまで思えた日大全共闘のエネルギーが出てきたのだろうと戸惑うほどだった。昼食でも一緒にと思ったが、年末には間があるというのに街は喧騒に包まれ、ゆっくり話もできないので、Yさんの先輩がやっているという喫茶店を訪れた。

 話していて気が付いたのだが、Yさんの表情に時々少年のような面差しが浮かぶ時がある。きっと純粋な方なのだろう。時候の話や、それぞれの全共闘の誰彼の噂話や、自分達の息子の愚痴とも自慢話とも付かない話で盛り上がっているうちに、Yさんの飛行機の時間が迫ってきたのでお開きになった。

 最寄り駅までの道々、さっきの先輩の身の上話を聞いた。獣医を目指していたが闘争の過程で多くの仲間と一緒に日大を除籍され、追い討ちをかけるように親から勘当されたという。将来の夢と人生の理念と家族を一遍に失い、地方をさ迷ったらしい。今は都会の片隅でささやかな店を開いて新しい家族もできたが、実家の敷居は未だに跨いでいないという。

 一人の庶民、一つの家族の上に未だに生々しい傷跡を残している、日大闘争とは何だったのだろうか。ワンマン経営者による、学校経費の巨額の使い込み疑惑。一度は非を認めたのに政治的圧力で居直り、結果として不正を働いたものが権力に居座り、正義を求めたものが社会的制裁を受けた形になってしまった。

 一度権力を握ったものが、それを手放さないために若者を犠牲にする。この国で何度見せ付けられてきた構図だろう。少子化を嘆く前にもっと若者を大事にする政治風土を作り上げるのが先決のような気がするのだが・・・・。

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2007/03/12

東京をどうしたいか、私の提案。

 都知事候補の浅野史郎さんがマニフェストを公募している。有力候補の方だけに、もし参考にしていただけたら、実現の可能性も高いので、今まで思っていた多くのことからいくつか取り出しまとめてみた。

地震対策2016年のオリンピック東京開催は事実上ないだろう。したがって都民にとって今最も緊急で必要な対策は、大地震が来た時に如何に命を守るかだと思う。

阪神大震災 鎮火直後の航空写真によると消失した家屋に囲まれて、公園の緑の葉をつけた樹木が目を引いたという。

関東大震災 死者約6万人(9割が焼死)。

  広さ、周囲の状況がほぼ同じ2箇所の例を比べてみて欲しい。

    陸軍被服廠跡〈裸地〉避難者の殆んど(38千人)焼死

   旧岩崎邸(樹木が豊か)避難者(2万人)無事

これらの例から見て取れる事は、樹木の防火効果である。地震後発生した火事の延焼を防ぐため、まず公園、学校などの広域避難場所に常緑樹の植樹をして欲しい。“鎮守の森”作りである。又民間とも連携して東京都全体に樹木を主体にした延焼防止網を構築して欲しい。

東京を国際都市へ

景観、機能的面も大事だろう。しかし何より心のありようが問われると思う。

平和は、相互理解の土壌に芽吹き成長する。小学校で今行われている、英語偏重の“国際化”教育を見直し、アジアの国々の言葉や文化に、より軸足を置いた、真に国際的視野を持った日本人を育てる時間にしてほしい。

他にも、食の安全、医療・老後の安心等々やっていただきたいことは山ほどあるが、より詳しい方々に提案していただきたいと思う。

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2006/10/25

デイープ薬物疑惑といじめ問題

コメントへの返事大変遅れて申し訳ありません。海外での出来事でもあり、事実をちゃんと確認した上で自分自身の考えをまとめたいと思ったためです。

 現在までに明らかになった事は、フランス側の薬剤投与をめぐる諸事情を、日本側の関係者が十分に把握していなかったというコミニュケーションギャップ(理解不足)に在ったようですね。

当初まさかとは思っても、いずれかの悪意が介在している可能性も有り得るため寂しい気持ちになっていたので、ほっとしました。

 しかし不満は残ります。100パーセント周囲の人間の不注意から起こったミスです。ディープインパクトは動物なので、この間のごたごたを知ることもなく、実害はなかったと思いますが、これが人間の子供だったらどうでしょうか。

 

 守ってあげるべき周囲の不注意により、子供が傷つき、最悪の場合命までなくする。昨今の、幼児虐待や学校でのいじめ問題の報道に接するたびに感じる、やりきれなさ、怒りと底では繋がる問題だと思います。

 先日、NHKテレビで赤ちゃんの成長過程が放映されていました。多くの可能性を秘めた新生児が母親(育児担当者)を中心とする周囲とのコミュニケーション(やりとり)の中から、これから生きていく上でのスキル(技術)を取捨選択していくという内容でした。

 これが義務教育課程になっても基本は変わらないと思います。学校での教師は、子供の価値基準を形成していく上で重要な役割を担っていると思います。知識の習得だけならわざわざ学校まで行かなくても、他にいくらでも習得の方法はあります。集団のなかでいかに互いに尊重し思いやりを持って生きていくかの基礎訓練こそが、学校教育の要とさえいえると思います。

 子供を、一人の人格を持った存在として尊重することに異議はありません。しかし未だ成長過程にあり、保護と教育が必要です。学校内でのいじめが原因で死を選ぶまでに追いつめられた生徒の存在は、教師とそれを取り巻く社会の責任放棄を示す以外の何者でもないと思います。


追記   初稿で“子供を、一人の人格を持った存在として尊重することに意義はありません”と転換ミスをしていました。読者の指摘で気が付きました。異議に訂正します。  

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2006/08/25

15.小学校入学  続

 小学校から合格通知が届くと、大叔父は大喜びでその日のうちに、通学かばんと大きな弁当箱を買ってくれましたが、弁当箱を入れただけでかばんがぷくっと膨らんでしまいました。

 それから数日して大叔父に連れられ、空っぽのかばんを肩に掛け教室に行き、私の小学校生活は始まりました。入学式も無く、新しい服もお祝いの言葉もなく、今の子供達に比べるとなんとも物足りない学校生活の開始でした。

 “授業中は、発言したい時は必ず手を上げなさい。先生が指名したら、発言を許可します。分かりましたか?”先生が言いました。

 “分かりました!”皆異口同音に答えます。私も精一杯大きな声で

“分かりました!”と叫びました。続いて先生は何か説明しながら、黒板に字を書いていくのですが、私には先生が何を言っているのかさっぱり分かりませんでした。そのうちに、黒板そのものに注意が移ってしまいました。大きな板が真っ黒に塗られていて、未だ墨のにおいもしてきます。廊下側の窓ガラスには大きな穴が開いていて、見ているうちにおなかがすいた化け物の口のように見えてきます。・・・

 先生が質問をしました。周りの人が静かに挙手します。皆背筋をピンと伸ばし、手をまっすぐに高々と上げています。私はそのとき先生が何を質問しているのかぜんぜん分かっていませんでした。でも皆の真剣な表情に釣られて、身体をしゃんとして、思わず手を上げていました。

 先生は教室をゆっくり見回した後、一番前の席に座っている小さな私に目が止まりました。

“それでは李浩さん、答えて御覧なさい”

その瞬間、教室中の視線が私に集まったのが分かりました。先生も微笑んで一寸首を傾けて私の答えを待っています。私は勢いよく立ち上がったのですが、急になんだかとてもおかしくなって、思わず笑い出してしまいました。もちろん先生の質問にも答えられませんでした。何日もこんな頓珍漢な事ばかり繰り返したので、ついに先生が言いました。

“李浩さんは授業を受けるのに慣れるまで、教室の一番前で立ったまま聞いてなさい!”

そんなわけで、背も飛びきり小さな私は、いつも教室の一番前に立たされ、何につけ一番目立つ人になってしまいました。

 
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 しばらく浩さんの物語をお休みしていました。理由は、今浩さんが資格試験の受験勉強の真っ只中だからです。中国の東北地方出身の浩さんが、東京の夏を扇風機だけで過ごしているので大変みたいです。又お子さんは夏休み、お仕事も続けているし・・・・。

 

 試験が終わったら又書いてくれるとのことなので楽しみにしています。

 

 

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2006/07/28

15.小学校入学

父の職場から家が支給される事になり、家族は皆大喜びしました。“張作霖”のお屋敷住まいは父にとっては誇りでしたが、実際には狭くて、薄暗くて、じめじめしていて、四人家族の生活には、余りありがたいものではなかったからです。

 新居は郊外のとても静かな場所にありました。“新居”といっても、壁のところどころは剥がれていて、築10年やそこらは経過している感じでした。初めてその家に行った時は4階だったせいもあり息を切らせてたどり着いたあとも、しばらくは興奮が収まりませんでした。その家には二間ありましたが、それぞれの部屋にオンドルかありました。

 冬季、部屋を暖めるために、以前と同様まきを割り、石炭を燃やさないといけないなんて・・・。これは私がアパートに抱いていたイメージと違いすぎます。アパートは暖房が完備していて、フワフワしたマットのベッドで眠れるとばかり思っていました。でも何といっても私達にとっては始めての自分達の家だったのです。

 新しい家に隣接して、小学校がありました。たまたま、大叔父(祖父の兄)がそこで働いていました。大叔父は七十歳に近く、人望もあり学校でとても影響力がありました。そんなこともあって私は未だ5歳だったのですが、入学試験を受けられる事になりました。当時の中国では7歳入学が普通でしたが、8歳で入学する人も多く年齢制限は比較的自由でした。とはいっても、入学するためには、入学試験に受からなければなりません。これは私にとって始めての人生の関門であり、その前後の事は今でもはっきりと覚えています。

 試験が近づくと父は私に数の数え方を教えてくれました。一から百まで覚えると次は百から一まで戻ります。幼稚園に行かなかったので、数字に触れた初めての経験でした。でも数字の音を聞いているとリズミカルでまるで音楽を聴いているみたいで、十まで覚えると後はとても簡単に覚えられました。こんな特訓を受けてどうやら入試に合格できました。


“浩ちゃん学校に行くんだって!”

“浩ちゃんは小学生になるのね!”周りの人が皆喜んでくれるのですが、私には小学生になるってどんな事かぜんぜん想像できませんでした。

                    ( 続く)

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2006/03/29

6.飴泥棒 (浩さんの物語)

 駐屯地の隅に小さな飴工場がありました。ミルクと飴の混ざり合ったなんともいえない香りが、いつも腹ペコの餓鬼集団を、居ても立ってもいられないほど強烈に誘惑していました。母に飴を買うお金をおねだりするなんて、正月でもないのに考えられません。でも飴が、鼻水よりおいしいぐらい誰だって知っています。

私達は鼻水をたらしながら、いつも飴工場の傍にたむろし、中を覗いていました。

作業場はそんなに広くなく、中央に大きな、長い作業台がありました。10数人がそれを取り囲み、台の上になにやら白い粉を撒き、その上に柔らかな飴を乗せ、麺を練るみたいに練り上げ、ゆっくりと伸ばしていき、最後に包丁で大小均等に切り分けていきます。全体の流れは、祖母が家でやっていた餃子の皮作りにとても似ていました。

 男の子達は、鼻水をすすりながら、横に一列に並び、飴工場の入り口に張り付き、私もその中に割り込み、一心不乱に中を覗き込みます。それなのにおばさん達は誰一人、私達に飴を分けてくれません。このようにして、冷たい風の吹きすさぶ中、毎日毎日、辛抱強く待ち続けました。飴工場のおばさん達の気を引こうと、思いつく付く限りの事は全部やってみました。例えば・・・

 大きな声で歌う。

喧嘩のまねをして、大騒ぎする。

お腹を擦りながら「あー、腹減ったなー!腹減り過ぎて、お腹痛いよ!」という。

でも、どんなに知恵を絞っても、飴はもらえず、冷たい風の吹きすさぶ中、鼻水はますます垂れてくるし、なんとも惨めな気持ちになりました。

 ついに、私達の中では年かさの男の子が言いました。

「おばさんたちが、くれないんなら、自分達でとってこようよ!」

「自分でとってくるて、それ泥棒するってこと?そんなことしたらママに怒られるよ」私は懸命に反対しました。

「盗むんじゃないよ!みてご覧、飴を作る時、台にいっぱいこびりつくだろう。それをみんなではがせばいいんだ!」

言われてみれば、台の上には、厚い飴の層ができています。

こうして、年かさの男の子の発案に従い、次の日の昼休み、作業員が昼ごはんを食べに出て行った後、私達は飴工場に侵入しました。

 その飴作りの台は私が想像していたよりずっと高く、背伸びをしてやっと台の上を覗く事ができるのでした。飴はかなり厚く固まっていて、ちっとやそっとの事ではびくともしません。これは予想外の事でした。年上の男の子の指揮下、私達は手分けして道具を探しました。敷地内には、道具どころか、鉄片や、ガラスの欠けらさえありません。そこらじゅうずいぶん探し回った末、丈夫そうな数本の枝を見つけました。しかし枝は泥だらけです。でもそのときは、泥なんかちっとも気になりませんでした。                                             ( 続く )

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2006/03/26

5. 黄河の氾濫

私達家族が来てから、部隊の宿舎近辺は段々にぎやかになってきました。私みたいな軍人の子供が増えた外に、周囲の農家の子供達が沢山押しかけてきました。この農家の子供達との交流は私の世界をとても広げてくれました。

 部隊の敷地内に入ってきて私達と遊んだのは、大体男の子でした。顔は泥だらけで、着ているものは見るからに、お下がりをまた何回もつくろった感じで、いつも鼻水をたらしていました。青洟はゆっくりと鼻の穴から流れ出し、だんだんと勢いを増して唇に達します。もう口に入ると思った瞬間、慣れた様子で、ぺロッと舐めてしまいます。さっきまで鼻水が流れていたところには、2本の黄色っぽい痕跡が残ります。これはその子達にとって一番簡単な鼻水の処理方法でした。


「気持ち悪いよ!」こんな場面を見るたびに、私はしかめつらして言いました。

でも男の子達は口々に言います。

「どうってこと無いよ、鼻水っておいしいんだぜ!お前もなめてみろよ!」

私はやっぱり鼻水をなめる気はしませんでした。

土地の人は、子供の鼻水を“黄河の氾濫”と呼んでいました。子供たちが鼻水を舐めるのも別に珍しい事ではありません。私もだんだんと見慣れてしまい、そのうちになんとも感じなくなりました。

 ある日、私にも鼻水が出てきました。これはチャンスです。私は、ゆっくりと舌を伸ばし、恐る恐る鼻水に近づきました。こんなとこを母に見つかったら、きっと怒られます。でもみんなが、豪快に自分の鼻水を舐めている様子がずっとうらやましかったのです。


「私だってできるよ、私だって!」自分を励ましながら、舌の移動を続けました。

少しずつ少しずつ近づいていきます。

「やった!」私はついに到達しました。本当に思ってもみませんでした。鼻水はしょっぱかったのです。それもあっさりした・・・。私は今でも、あのなんとも言えない味をはっきりと覚えています。大きくなって、初めて海に泳ぎに行った時、海水の味が鼻水の味にそっくりなのを知りました。

皆さんも、うそだと思うなら、自分で試してみてください・・・。

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2006/03/10

3.パパの三つの名前   続

この時期、私のように、部隊のお父さんに会い来た子供は他にも何人かいましたが、来る列車の中でみんな、とっくに友達になっていました。兵士が使用していない時は、練兵場は、駆け回ったり、ふざけたりできる私達の楽しい遊び場になりました。兵士たちも暇な時は、一緒に遊んでくれました。


 ある時、私が、訓練用の縄梯子をブランコ代わりにしていると、高く高く揺らしてくれました。他の子供たちは、下のほうでうらやましがって叫んでいます。私は本当は、怖くて心の中では

「早く停めて!」と叫んでいたのですけれど、そんなことはおくびにも出しませんでした。私は地面に降りるなり皆に言いました。

「私、空高く飛んだよ。空の真ん中まで行ったよ!」友達はすっかり感心して聞きます、

「本当?空の真ん中ってどんなだった?」

「空の真ん中は、海のように青いよ。水の中みたいに冷たかったよ!」そんなわけで、みんな空の真ん中は青くって、冷たいとしばらくの間信じていました。何しろ私が体験したんですから!

 そんなある日、たぶん夕方だったと思いますが、背の高いがっしりとした体格の男の人が私の家に来ました。父とその人は部屋の中で、何か立ち話しています。父はとても緊張して、身体もしゃきっとして、その人の質問に大きな声で恭しく答えています。しかも答える度に“報告首長!(上官殿、報告します)”といちいち始めに言うのでした。こんなおしゃべりの仕方を見たのは初めてでした。何で父がこんなに緊張しているのか知りたくなったので、ゆっくり近づいて二人の顔を見上げました。


 その“上官 ”と呼ばれていた人は、私に気が付くと、にっこりして穏やかに父に言いました。

「君の娘さんだね、とても可愛いね」父はすぐに気を付けの姿勢をとると答えます。

「報告首長!これは私の娘であります」

「君は女の子一人なの?男の子はいないのか?」

父は又気を付けして言います。

「報告首長!我が家には男子はおりません。女子一人のみであります」


 私はそばで聞いていて、とても変に思いました。父が子供のことを話しているのが分からなかったので、家には父という立派な男の人が居るのに、と思ったのです。

「家に男の子いるじゃない!」といって父を指差し更に付け加えました。

「パパは家の男の子でしょ」

 父の顔は真っ赤になり、私を後ろに押しやるといいました。

「報告首長!子供が訳の分からないことを行って申し訳ありません」

 その後上官が立ち去った後の父の反応は、今でもはっきりと覚えています。父はそのまましばらくの間、無言で立ち尽くしていました。それから突然、怒りが爆発したように顔を真っ赤にして、腕を振り上げると私を平手で打ちました。

「今後、大人の話にでしゃばるんじゃない!」

 私はわっと泣き出しました。痛かったというより、父が怒っている事が怖かったのです。人にぶたれた初めての経験でした。

 父の激怒の原因は、私が大人の話にでしゃばったという事より、他人に「女の子だけで、男の子が居ないのか」といわれた事だったように思います。これは父にとって、最も耐え難い屈辱的な事だったのでしょう。

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2005/02/23

駒場祭      ( 4-6 )

 夏休みが過ぎ、9月ともなると、私達は駒場祭の準備に追われた。 配役、演出を決め練習にとりかかる。 東大の女子として、劇に出演した方がいいという意見も多かったが、私は舞台で皆に注目されると思っただけで、恥ずかしかった。 そこで裏方の仕事を引き受けた。

 当日は、皆の熱演により、まずまずの成功だった。 客観的には文Ⅰによる解放軍の戦記物の方が、動作がキビキビしていて分りやすく、人の入りも良かったという。 私達の劇は、革命の中で、揺れ動くインテリ像みたいなのが主題で、いきおいせりふが長く、見せ場も余りなかった。

 それでも終った時の達成感は大きかった。 何しろ中国語を習ってまだ半年の私達が、本邦初演の中国劇を、私達の力だけで上演したのだ。私達は打ち上げコンパで、ビールを飲み、すき焼きをつつき、歌を歌った。 私達の青春はバラ色に輝いていた。

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2005/01/10

思春期 -O校と、浪人生活ー ( 3-1 )

               O校時代   
  O校は女子大学の附属高校で、同じ校内に幼稚園から大学まであった。 正門を直進すると大学があり、私達の校舎は右側にあった。 幼稚園からずっと居る人、小学校で入ってきた人、中学校で入ってきた人と様々だった。 中学までは男女共学で、高校は女子校となるため、中学までの男子分50人を、外部から補充した形で私達が入学した。 従って、学校生活は旧来からの在校生ベースで進むことが多かった。 実際、附属から進学した人の中には、日本舞踊の名取りだとか、スポーツ万能の人とか、芸術的センスに優れている人とか、多才な人が多かった。

 入学してまず私が直面した難関は、学校までの道のりの難行苦行である。 小田急で新宿まで出る。 代々木上原は当時普通駅だったので、新宿までの満員電車は結構長く感じられた。 夏ともなると、体中から汗が吹き出て、サウナにいるみたいだった。新宿で山手線に乗り換えるのが、雑踏の中をかいくぐる、一大難関だった。 大塚までの車中、満員電車につきものの“痴漢”に悩まされたことも何度かある。
 ある時、私は意を決して、その男の手をつかんで顔を睨みつけてやった。 次の駅につくや、その男は私の手を振りほどき、雑踏の中に逃げ込んだ。 

 大塚から、学校までの都電はもう修羅場だった。 押し合いへし合い、又押し合って何とか乗り込んでホッとする。 車内では、カバンは伸びきった手の先にかろうじて握られ、うっかり足を上げたら、下ろす場所は見つからなかった。 こんな中で手を撫で回すような“痴漢”にあった日には、もう目も当てられなかった。 今度は降りるのが、また一大仕事だった。 多くの人は、その先の茗荷谷まで行くので、O校前で降りる人はそんなに多くなかった。

 「降ります」 と叫びつつ、何とか学校前に降り立った時、私のセーラー服はヨレヨレになり、ネクタイは青菜に塩の様にダラッと垂れ下がり、胸の校章はしばしばちぎれて無くなっていた。 それでも私は、最期の力をふりしぼって、始業ベルが鳴るすれすれの教室にダッシュした。 私の一日の大半のエネルギーはそれで使い果たしてしまったのか、昼休み後の五時間目は、いつの間にか居眠りしてしまう事が良くあった。 
       

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