2005/02/04

合格        ( 3-8 )

 人間は悲しみはいつまでも覚えているのに、喜びは直ぐ忘れてしまうのだろうか。というか、悲しいことは、無意識のうちに記憶の深部に埋めてしまうので、そこから掘り出されたとき、かえって生々しく感じられるのかもしれない。
 東大合格を知ってどうしたのか、今ではあまり思い出せない。たぶん、母に電話で知らせたと思うがそれさえ定かでない。
 日記帳には、
"合格できて涙が出るほど嬉しかった"
"大学では、しっかり勉強して世の中に役立つ人間に成長したい"
などの言葉が並んでいたと思う。ただこの日記帳は、その後、色々な出来事の中でなくなってしまった。

 合格発表から数日後、父が出張ついでに、名古屋方面の旅行に連れて行ってくれた。父が仕事中は、一人で市内を探索した。
“庶民文化を、発祥の地で体験するのだ”
とかなんとか理由付けして、恐る恐る、パチンコ店に入ってみたりしたのを覚えている。

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2005/01/31

中国の赤い星  ( 3-7 )

 一方、受験を捨てていたわけではなかった。 二度の失敗から、私は、数学、英語、古文は蓄積した力の必要を感じていたので、毎日一定の時間それらの勉強にあてることにした。
 数学はいくら理解していても、計算で間違ったらおしまいなので、毎日、4、5桁の掛け算、割り算を10問程行なった。
 古文は、岩波文庫に収録されている物を、片っ端から読んでいった。 ただ、『源氏物語』だけは、時間の都合で1巻のみにした。

 英語はちょっと困った。 当時北爆が続行され、私は嫌米的感情に支配されていた。 そのため、その国の言語に対しても、素直に触れる気がしなかった。 それを救ってくれたのが『中国の赤い星』だった。 どういう経路でこの本を知ったかは忘れたが、私は、中国革命の指導者達の素顔に引きつけられた。 原書を書店で購入し、これをメインの教科書にし、他は気のむくままに乱読した。 『怒りの葡萄』、『黒人少年』、『タバコ・ロード』、他に『不思議の国のアリス』、『トムソーヤの冒険』なども読んだと思う。

 秋になると“受験勉強”に集中せざるを得なかった。 やはり、今度落ちたら東大に行くのはあきらめないといけないという気持ちもあった。 この時期、一番困ったのは歴史の勉強だった。

 東大受験には、高校の教科書さえしっかり勉強していれば、大丈夫というのは先輩からも聞いていた。 ただ、私にとっては、これは三回目の繰り返しだった。 いわば結果を知っている推理小説を三回読め、と言われているようなものだった。 新しい発見もなかった。 新鮮な驚きがないため、学習意欲は少しも出なかった。 教科書を開くと不思議なほど、すぐ眠たくなった。 睡魔と闘い、アクビをかみ殺し、私は記憶の底の知識をほじくり返した。

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2005/01/28

ベトナムの少女  ( 3-6 )

  合格発表の日、私は一人で夕方見に行った。 そして私の名前が無いのを知った時、私は泣いていた。 自分の泣いている姿を人に見られたくなかったので、暗くなった道を家まで歩いて帰った。 一時間位の道を、ずっとしゃくりあげていた。

 それから一ヶ月余り、私は初めて、ルートに乗っていない人間の惨めさを味わった。どこにも属していない。社会のどことも関わりの無い自分。

 そうだ、予備校に行こう。 私はある予備校に行った。 そこは、自分と同じ様な人達が集まっていた。 いくらか気分がまぎれた。 テストの成績も国語などは、上位に張り出された。 でも私は、そこで行われている授業が好きになれなかった。 東大の受験には、余り役立つとも思われなかった。 それで数ヶ月でやめてしまった。

 社会とのつながりを持ちたい。 その頃の私は受験より、自分自身の存在感をつかみたかった。 そんな模索の中で、社会人向けの合唱団と、登山クラブに参加した。
 その合唱団は、ソ連や朝鮮の民謡、労働者の歌などを教えてくれた。 大きな口を開けて、大きな声を出すことは、それなりに気分転換になった。 自分達で詩を書き、それに曲をつけるような事もやった。
 当時、米軍による北爆(ベトナム北部爆撃)が行われていた。 ちょうど東大受験のころ開始されたが、私はなるべく考えないようにしていた。 自分の気持ちを動揺させたくなかった。 その後も北爆は激しさを増していた。

 私は『ベトナムの少女』という詩を作った。
 “平和なジャングルの中の一つの村に、ある日、爆弾が落ち、愛する家族を総て失った少女が、戦いに立ち上がる”という内容だった。
 先生はとても、その詩を誉めて、後で曲をつけて、皆で歌ってくれた。 私はうれしいような、恥ずかしいような気持ちで、皆の歌声の中で小さくなっていた。

 登山クラブの方は、長続きしなかった。 なにしろ、社会人が主体なので、夜行、日帰りが主なパターンだった。 ある一日を書いてみる。 
 
 夜10時、上野駅集合、夜汽車で数時間仮眠をとり、真夜中に目的地に着く。 それから歩いて10数分、大きな川原に出た。 月明かりの下、テント設営の訓練を受ける。散々苦労して出来あがったテントの中で、朝まで就寝。
 5時頃、空が白むのと同時に起きて各自用意した朝食を食べる。 それから出発の準備。
 それぞれのリュックの重量が測られ、男性は30kg、女性は20kgに調整される。
私のリュックは軽すぎたので、川原の石を5、6個入れられる。 そして出発。
 私はそのリュックを背負って立ち上がろうとした。 でも、びくともしなかった。いくらがんばっても同じだった。 見かねて他の人が、リュックを持ち上げてくれて、私はどうやら二本の足で立った。少し腰を曲げて何とか重心をとった。
 それから数十分、登山口までの道のりが、長く長く感じられた。 私はロボットのように、機械的に足を前に運んだ。 

 登山口から道は急に登り坂になり、背中の重量が、一気に増加したように感じられた。 数十分で、私はもう一歩も前に進めなくなった。
 リーダーが来て、黙々と石を2、3個出して道端に置いた。 少し気を取りなおして、しばらく歩きつづけた。 でも私には、やはり無理だった。 貧血気味になり、頭がボーとして、目眩がした。 
 今度もリーダーは、私のリュックから石を取り出した。 しかも折角ここまで運んできた石を全部取り出した。 それ以後は、何とか皆と同じペースで歩き通し、その日の行程をすべて無事終了した。 ただ私には、二度とそれと同じ様な行動を繰り返す気力が残っていなかった。

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2005/01/24

東京オリンピック ( 3-5 )

  この年、10月10日から二週間、東京オリンピックが開催された。 抜けるような青空の下、国立競技場の開会式から始まって、我が家でも皆テレビの前に釘付けになった。 オリンピックにあわせて、テレビもカラーに買い換えられていた。
 私もテレビ観戦の強い誘惑と戦って勉強するより、二週間の停戦を選んだ。

 女子バレーボールの快進撃には胸が躍った。 以前から血のにじむような練習風景を、何度もテレビで見ていたので、回転レシーブで必死に球を拾う姿には、胸が熱くなった。 そして“東洋の魔女”日本女子バレーボールチームが優勝したときは、心から拍手を送った。
 もう一つ私の印象に強く残ったのは、マラソンでのアベベの優勝だった。 幸いマラソンコースに甲州街道が入っていたので、私は充分な時間を見て幡ヶ谷に出かけた。
それでも駅周辺は、既に幾重にも人垣が出来ていた。 何とか道路が覗ける場所を確保すると、私はひたすら選手の到着を待った。 しばらくすると遠くから、潮が満ちてくるようなどよめきが伝わってきた。 それは大きな歓声となって周囲を包み、人垣の間から一人の褐色の選手が悠然と走ってくる姿が見えた。 
 「アベベだ!」
 呼吸の乱れも感じさせず、ただ黙々と走り去った。 大分遅れて日本選手が来た。
疲れが体中から感じられた。 思わず声援を送った。

 その日の夕方から、私は毎日走ることに決めた。  幸い、近所の公園に隣接してグラウンドがあったので、夕闇迫る頃、私はポチを連れて出かけた。 ポチは我が家の代々の犬の名称として定着していた。 この時期のポチはちょっと頼りないが、極めて性質の良い、茶色の毛が少し長めの雑種犬だった。 私が走っている間、ずっと柵につないでおいたが、文句も言わず待っていてくれた。
  最初の数日は、私の意気込みに反して、走りは極めて惨めだった。一周もしない内に、息切れして心臓が飛び出しそうになり、胸が痛くなった。
 それから数週間、遅々とではあったが私の走行距離は伸びていった。走り終わると、体中から汗が吹き出て、実に爽快な気分だった。 汗をかくってこんなに気持ちがいいことなんだと、この数年間ほとんど忘れかけていた記憶がよみがえってきた。 頭の中までスッキリした気分だった。 将来マラソン選手になるのも悪くないな、なんて考えたりした。

 時間は瞬く間に過ぎていき、また受験の季節を迎えた。
 二度目の受験を、私は東大理科Ⅱ類と決めた。

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2005/01/21

浪人時代     ( 3-4 )

 ひそかに憧れていた浪人生活が、茫洋として私の前に現れた。 何をしてもいい時間、何もしなくていい時間。 私は時間の支配者になれたのだ。 それにしても、来年の二月までには、まだまだ時間があった。 十分すぎるように思えた。

 そこで私は、秋までは、今までは読みたくても我慢してきた読書の時間に充てようと考えた。 こんなに自由に読書に浸れたのは、随分、久しぶりの気がした。
 まず手始めに独文学の本を読みふけった。 『車輪の下』、『若きウエルテルの悩み』 …。上の姉が薬学部卒業後、文学部独文学科に学士入学していたので、以前から憧れていたのだ。 姉の部屋に行くと色々あったので、私は手当たり次第に読んでいった。
 もし、私が現役で合格していたら、多分独文に進学し、姉のように独語の先生を目指していたと思う。 そのうちに私の関心は、社会科学系に移っていった。

 その頃、中学時代の友人Nさんも浪人していたので、よく会って話すようになっていた。 Nさんは心理学に興味を持っていた。 人間を理解するには心理学が最も有効だと信じ、大学でも心理学を専攻するつもりだった。
 私は、人間は社会的に規定される存在だから、社会、経済を勉強することが先決だと思っていた。 二人は良く議論した。 私達の頭から、受験なんて吹き飛んでいた。意見はしばしば膠着状態に陥った。

 ある日、私はおじさんの家をNさんと訪問した。 おじさんは“進歩的知識人”だったので、下の姉は尊敬して、良く遊びに行っていた。
 私もKさんとの議論に何か前進のきっかけを与えてくれるのではないかと期待していた。 去年、鶴子おばさんが癌で亡くなっていたので、私達が行くと、とても喜んでくれた。 鶴子おばさんが入院した頃、私もよくお見舞いに行った。 従兄弟が母親のために作ってきたアイスキャンデーを、おばさんは私にも食べなさいと勧めてくれた。 
 病気が進行すると、私はお見舞いに行くのを母から止められた。 おばさんの憔悴した姿を、感受性の強い年頃の私に、見せたくなかったようだった。
 数ヶ月の病気の進行と共に、黒かったおじさんの髪は、真っ白になった。 おじさんはお酒が入ると良く言った。
 「あの時、鶴子にモルヒネを使ってくれと看護婦に言っても、聞き入れてくれないんだ。
モルヒネは、習慣性があるので、使えませんの一点ばりでね。 その時、鶴子は数ヶ月の命だと宣告されていたんだよ」

 私達の質問におじさんは、色々丁寧に話してくれた。 共産主義の事、社会主義の事、ソ連や朝鮮の話など、熱心に話してくれた。 
 ただ中国共産党については、正当な共産主義とは違った、亜流と考えている様だった。
私は大いに啓蒙された気分で、その夜、父に議論を吹きかけた。 父は色々私の議論を聞いた後、一寸考えて言った。
 「明子は、今はもっと広く勉強する時期だと思う。 おじさんの思想は一つの考え方だと思うけど、それがすべてではない」

 私はその後も、しばらくは唯物史観から日本史を見直した本を読んだりしてみたが、だんだんと私の関心は自然科学に移っていった。
 その頃、テレビの教育番組で、色々な物理現象の実験を、身近に見せてくれる番組があった。ドライアイスの板が、床をどこまでも滑っていく。 摩擦が限りなくゼロになると、物体の動きは止まらない。 冷凍バナナで釘を打ちつけた。 常温の現象が物質の性質の総てではない。…・・。

 私は、条件が変わることにより、普段の常識とはまったく違う動きをする種々の実験を息を呑んで見つめた。 人間の感覚の不確かさを感じた。
 人間の存在自体が、宇宙の流れの中での、過渡的出来事に過ぎないと思ったとき、限りない虚無感におそわれた。 そのうちに、偶然であれ、存在しているという事実に限りない愛着が湧いてきた。 人間の存在を自然科学の目で見つめなおしたいと思った。

 秋を迎えた頃、自分の将来像が浮かび上がってきていた。 細胞の神秘を探り、生命の根源に迫ろう。 頭の中には、白い実験着を着て、顕微鏡をのぞく私の姿があった。

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2005/01/17

大学受験     ( 3-3 )

  色々内面的葛藤はあったが、それでも表面的には、しごく穏やかに学園生活は過ぎていった。 学園祭、音楽祭、体育祭と行事も盛沢山の中に、二年間は瞬く間に過ぎていった。 
 大学受験が近づいていた。 O校では女子校ではあったが、大学受験は当たり前であった。 どの大学に行くかだけが問題だった。
 "どこにしよう" 当時の私の成績はあまり良くなかった。
 「私立のW大にしたら。 先輩もいっぱい行っているし、皆大学生活を楽しんでいるわよ」とC教師が言った。

 しかし、"大学生活を楽しむ" という発想に、当時の私は反発を覚えた。 自分を厳しく鍛えてくれるところに、自分の身を置きたいという漠然とした願いがあった。私が東大を受験したいと言った時、C教師の反応は冷ややかだった。
 学年初めの学力試験では10数番だった私の成績順位は、日を追って下がって、その頃は学年で30番位を低迷していた。 当時O校から東大に受かるのは10人前後だった。浪人してでも行きたいという私の希望にも、先生は余り乗り気ではなかった。
 
 女子が浪人するという事自体、C教師は反対だった。 しかし、D教師は私の希望を認めてくれた。  
 「やりたいようにやってごらん」
 その頃、私が東大にこだわったのは、今考えると、大した根拠があったわけではない。父と姉が出た大学だったので、一番親しみが持てたことと、過去の大学入試問題を解いてみて、他大学に比べて、東大の問題が一番解きやすく感じたためだ。 その時解けなくても、自分なりに頑張れば解けると思えた。

 一次試験は、ごく基礎的な問題だった。 でも結果を見るまでは、心配だった。もし、一次で落ちたら “みっともない” という見栄があった。 
 一次は受かっていた。 さあ二次、私の力がどこまで通用するか、少々楽しみでさえあった。 当日、思ったより難しくないと思った。
 「やさしいと思ったときは、落ちる」 
 誰かに聞いたことがあった。 私は上滑りをしていたのかもしれない。
 結果は不合格だった。 しかし、落ちたと知った時、私は余りがっかりしなかった。
これで、公立高校、一浪、東大の最もオーソドックスな路線に私も仲間入りできると思った。

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2005/01/13

友人        ( 3-2 )

 O校に入学してしばらくすると、私の日記帳にはこんな言葉が並んだ。
 「私は生まれて初めて、本当の友を得た。 その人の名はAさん」
 「Aさんは日記を英語で書いているという」
 「Aさんはピアノの演奏がうまい」
 「Aさんは話していてすごく面白い。 ユーモアのセンス溢れる人だ」
 「私はAさんが好きだ」
 そして、数ヶ月後、私の日記にはこんな記入がなされている。
 「Aさんなんか大嫌いだ」
 「もうAさんとの友情は終わった」

 私の心がこうも変わった原因は、ごくつまらない事だった。 いつもの様にAさんと昼食を食べに行こうと思って、Aさんの所へ行くと、Aさんは、Nさんと愉快そうに話していた。 私はしばらく二人のそばで所在なげに待っていた。 随分長い時間に感じた。 おしゃべりに夢中になっていたAさんが、私に気づき、「じゃ皆で食事にいきましょう」と言った。 その時、私は機械仕掛けのように、Aさんに背を向けた。
 Aさんがびっくりして呼ぶ声を後に、私は図書室に駆け込んだ。涙が溢れてきたので、誰にも見られたくなかったのだ。

 Bさんとの場合はこうだった。
 ある日の帰り、都電を待っていた私に、Bさんが紙切れを渡した。 後で読んでという。
 それには、「以前から友人になりたかった。良かったら付き合ってください」
という内容が書かれていた。
 以前からBさんとは面識があったが、余り話したことはなかった。 Bさんは、何でも突き詰めて考えるのが好きな人だった。 英語の文法でも、疑問があると図書室で分厚い辞書で調べ、それでも分からないと、職員室で先生に納得出来るまで質問した。数学では、その頃は“0の起源”に興味があり、分厚い英語の原書を読んでいた。二進法だ、三進法だと、私を議論に巻き込みたがった。
 
 私は、今まで考えたこともなかった新しい世界に、興味は湧いたが、その頃の私は文学の方により興味があった。それでも二人は休み時間も、昼食の時も、いつも一緒でよく議論した。 私はこれが親友というものかなと思った。

 ある日、私はまた彼女から一通の手紙を渡された。 それには、私との交友に疲れたからもう別れよう、という内容が書かれていた。 読み終わった私は、一瞬、心臓が硬直したような気持ちがした。 なぜ、どうして、私のどこがいけなかったのだろう。私は彼女に聞く勇気も出ず、そのまま私達は別れた。
 それから何年も経って、突然彼女から電話があった。 一度会いたいというものだった。

 私達は、渋谷のある喫茶店で待ち合わせた。 Bさんは、ハンドバッグから1枚の写真を取り出して、私に渡した。 それは自由の女神を背景に、ピンクのスーツ姿のBさんだった。 軽くウエーブした髪をポニーテールにして、写真の中で、にっこりと笑っていた。
 「私、今通訳の仕事しているの。 アメリカにも何回か行ったわ」
 すっかりあか抜けしていて、センスの良いスーツ姿で、口にはうっすらと口紅を塗っていた。 
 「あの頃、私のエネルギーの源はあなただったの」
 私は、しばらくぽかんとして彼女の顔を見つめた。 それなら何で、あんな手紙を私によこしたのだろう。 あの後、私は随分苦しんだ。 私は一瞬彼女に聞きたいと思った。 でもやめた。 そう、あの頃、私達は“思春期”だったのだ。

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2005/01/10

思春期 -O校と、浪人生活ー ( 3-1 )

               O校時代   
  O校は女子大学の附属高校で、同じ校内に幼稚園から大学まであった。 正門を直進すると大学があり、私達の校舎は右側にあった。 幼稚園からずっと居る人、小学校で入ってきた人、中学校で入ってきた人と様々だった。 中学までは男女共学で、高校は女子校となるため、中学までの男子分50人を、外部から補充した形で私達が入学した。 従って、学校生活は旧来からの在校生ベースで進むことが多かった。 実際、附属から進学した人の中には、日本舞踊の名取りだとか、スポーツ万能の人とか、芸術的センスに優れている人とか、多才な人が多かった。

 入学してまず私が直面した難関は、学校までの道のりの難行苦行である。 小田急で新宿まで出る。 代々木上原は当時普通駅だったので、新宿までの満員電車は結構長く感じられた。 夏ともなると、体中から汗が吹き出て、サウナにいるみたいだった。新宿で山手線に乗り換えるのが、雑踏の中をかいくぐる、一大難関だった。 大塚までの車中、満員電車につきものの“痴漢”に悩まされたことも何度かある。
 ある時、私は意を決して、その男の手をつかんで顔を睨みつけてやった。 次の駅につくや、その男は私の手を振りほどき、雑踏の中に逃げ込んだ。 

 大塚から、学校までの都電はもう修羅場だった。 押し合いへし合い、又押し合って何とか乗り込んでホッとする。 車内では、カバンは伸びきった手の先にかろうじて握られ、うっかり足を上げたら、下ろす場所は見つからなかった。 こんな中で手を撫で回すような“痴漢”にあった日には、もう目も当てられなかった。 今度は降りるのが、また一大仕事だった。 多くの人は、その先の茗荷谷まで行くので、O校前で降りる人はそんなに多くなかった。

 「降ります」 と叫びつつ、何とか学校前に降り立った時、私のセーラー服はヨレヨレになり、ネクタイは青菜に塩の様にダラッと垂れ下がり、胸の校章はしばしばちぎれて無くなっていた。 それでも私は、最期の力をふりしぼって、始業ベルが鳴るすれすれの教室にダッシュした。 私の一日の大半のエネルギーはそれで使い果たしてしまったのか、昼休み後の五時間目は、いつの間にか居眠りしてしまう事が良くあった。 
       

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