2005/03/11

アルバイト    ( 4-13 )

 しかし、母の稼ぎだけでは到底足りず、当然私はアルバイトを始めた。
大学の学生課の廊下の壁には、家庭教師求人ボードがあり、そこから適当なのを選ぶと、先方と事務が面接日を設定してくれる。 その家に行くと、母親と当人、または父親も含めて待っている。 ちょっと話した後、たいてい決また。 “たいてい”と書いたのは、一度だけ事務の方へ断りの電話が入った事がある。

 これは、まさに最初の時の事で、その日私は緊張して随分早めに、指定された家の近くまで着いてしまった。 時間つぶしのために、その家の付近をぐるぐると歩き回った。 その時会った買い物帰りのおばさんが、どうもその家のお母さんみたいだった。
 しかも初めてのことで、面接もオドオド、ドキマギしてしまった。 きっとお母さんは、受け答えもしどろもどろ、家の周りをうろうろ物色しているおかしな学生は、“大事な娘”の“家庭教師”としてふさわしくないと判断したのだろう。
 
 しかし、以後の私の家庭教師人生は順調だった。 小学校四年生から見てあげたT君は、私立中学御三家の一つに合格し、中学でも常にトップクラスを保った。 もっともT君によると、小学校のクラスで以前から“数学の神様”と呼ばれていたという事で、本人の資質に寄るところが大きい。

 下町の家具職人の息子N君は、野球の話をさせるといくらでも話が尽きなかった。
が、こと、学業成績となるとサッパリだった。 目は利発そうでキラキラ輝き、頭は良かった。 ただ、関心のありようが違っていたようだ。

 大学は獣医科に進んだS子ちゃんは、こつこつと真面目な頑張りやさんで、成績は中の上を保っていた。 
 この他にも、お医者さんの兄妹とか、心臓の悪い妹を持つM子ちゃんとか、私の生徒は通算すると10人は軽く越えた。

 余談だが、M子ちゃんの妹はその後手術を受け、成功した。 M子ちゃんのお母さんは、万一の場合のショックに耐えられるためにと、もう一人子供を産んでいた。 結果として、M子ちゃんのお母さんは二人の女の子と一人の男の子の幸せな母親となった。

 私は子供を教えることはイヤでなかった。 どっちかというと楽しかった。
それに勉強後、出してくれる夜食が、それぞれ心のこもった家庭料理だったので、それも私の楽しみの一つだった。だから、家庭教師は私にとっては、仕事と言うより、楽しい息抜きの場だった。

 当時の月謝は、大学一年の時が、週二回、月八回で、八千円だった。 最初の月謝でベッドを買ったのを覚えている。 それによって、私は押入で寝る生活から決別した。 次の大きな買い物は、腕時計だった。 当時、最新の自動巻装置のついたもので、それにより毎日のネジ巻きの煩わしさから解放された。
 その後、中国語の短波が聞ける、高品質ラジオを買った。 当時、中国語教材はほとんど手に入らず、直接短波でヒヤリングを学ぶしか道が無かった。
 それに続いて、本箱、石油ストーブ、ステレオ…と私の部屋はだんだんリッチになっていった。 学費や旅行費用、生活費をすべてまかなっても充分やっていけた。
 大学院の頃は、月に二万円、母に食費として渡せるまでになっていた。

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2005/03/09

父の失業     ( 4-12 )

 私が東大に入学して一年ほど経った頃、父が失業した。 当時国家公務員は、かなり若年で退職し、以後 “天下り” して生活するのが普通だった。 
 「この若年退職という慣行が、日本の官僚制度を老害から守ってきた秘訣だ」
 かつて父の友人である高山さんから聞いたことがある。

 しかし、この “天下り” は昨今言われているほど、すべての公務員に保証されているわけではなかった。 特に父のように、母に言わせると「人に頭を下げるのが苦手」な人種にとっては、なかなか大変な事で、しばしば失業という憂き目を見た。
 母はこの苦境の中、保険外交員を始めた。 日曜ごとに行っていた教会の友人に勧められたらしい。 外交員といっても、母のようなズブの素人の“奥様”にはなかなか大変だったみたいだ。 だから実際には、母の知り合いをベテランの人に紹介し、その人が説明、勧誘するというものだったようだ。 

 時には仕事がうまく行って、うれしそうに私達に話すこともあった。
 「今日は、昔の知り合いが会社ごと入ってくれたのよ」
 母は毎日出かけ、疲れていたので、当時の食事の片づけと洗濯は、私が引き受けていたと思う。 私は母に感謝していた。

 そんな折り、下の姉が遊びに行っていた、おじの家から帰るなり言った。
 「おじさんがね、人の情実を利用して契約を取る、今の保険業界のやり方は賛成できないね、だって」
 当時は“社会主義的言説”は、なんとなく光って見えた。 ソ連や朝鮮も輝きを持って語られ、その国の民謡を歌うことは、何となく晴れがましい感じがした。

 そんな中、おじさんの“進歩的”言辞は姉にとって大きな影響力を持っていた。 私も姉を通して、おじさんには尊敬の念を抱いていた。
 でもこの、母を間接的にせよ、批判しているおじの意見に、私は反発を感じた。
 「お母さんは、私達のために慣れない仕事をがんばってくれている」
 私は母を誇らしく思った。

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2005/03/07

大樹と広尾   ( 4-11 )

 次に大樹町に行った。 ここは数年前、冷害で小豆が壊滅的被害を受けた所だった。 それを新聞で見た母が、救援物資を送ったことがあり、その縁で何回か手紙のやりとりをしていた農家があった。 私が北海道旅行を思い立ったときも「是非寄れ」と言ってくれていた。 大樹の駅から車で一時間くらい行った、日高山脈の麓の農家で、私は数日間農作業を手伝った。 干し草を車に積んだり、牛の乳搾りをしたり、麦の刈り入れをしたりと、私は汗まみれになりながらも大満足だった。 これが労働というものだと思った。

 食事はボリューム満点だった。 どんぶりご飯にうどんがおかず。デザートにお汁粉がでた。 秋の刈り入れの時には、昼食のおにぎりはどんぶり二杯を合わせて作ると聞いて、私の頭の中にはドッジボールの様なおにぎりが浮かんだ。
 なにしろ皆良く食べた。 そこは日高の山麓なので、クマも良く出没するらしく、数日前荒らされたというエン麦畑も見せてくれた。

 数日の間、充分農村生活を満喫した後、私は迎えにきてくれた母の知り合いの農家のおじさんのオートバイの後ろに乗り、小豆被害に遭ったという開拓地に向かった。山中を一時間くらい走り続けて、日高山地の尾根沿いの開拓農場に到着した。
 ここは、千島諸島から引き上げてきた人が入植したとの事だが、数年前の小豆の冷害の時には、首をくくった人が何人も出たと淡々と話してくれた。 一時は“赤いダイヤ”ともてはやされ、皆小豆作りに切り替えた矢先のことだったという。 今では離農した人も多く、おじさん自身、先の見通しがつくなら離農したいと話していた。

 その次ぎに行った広尾町では、汽車で隣に座って話を交わしたおじさんの牧場に案内してもらった。 根室に行く途中だったので、名刺だけもらい、帰りに寄ると約束していたのだ。 
 駅を降りて、電話をすると、小型トラックで迎えに来てくれた。 終戦後、樺太から引き上げてきて、未開の原野に入植した。 星の見える早朝から星の瞬く夜中まで、夢中で働き続け、今の牧場を作り上げたという。
 それでも、息子と娘は牧場に興味を示してくれないので、自分の代で終わるかもしれないと寂しそうだった。

 広尾を後に、国鉄バスに乗って襟裳岬に向かった。 補助席も満席の混み具合だった。 私が更に驚いたのは、私が見る限り、乗降客はすべて周遊券のお客さんだった。 当時、私のようなリュックを背に周遊券を持った学生の旅行姿は、夏休みともなると全国各地にあふれていた。

    ( リンクはイメージ映像として張らせていただきました)
 

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2005/03/04

北海道旅行   ( 4-10 )

 二年の夏休みは、北海道を旅した。 やはり周遊券と有り金全部を持って、私は上野から東北本線に乗った。 青森で青函連絡船に乗り、3等船室でごろ寝をして、早朝私は北海道に着いた。 北海道は、母の故郷だったので、宿泊地には困らなかった。 札幌も根室も北見も親戚の家に泊めてもらった。 
 札幌では、月寒牧場でジンギスカン料理をご馳走になった。 広々と続く牧場の緑に、心も広々となる気がした。

 根室は北海道の中でも、東端に当たる。 根室本線の鈍行でごとごと揺られている内に、いつの間にか眠ってしまった。 しばらくして、私は寒気ににブルッと身震いして目が覚めた。 窓から、白く霧が流れ込んでいた。
 外は、今まで見たことのない風景に変わっていた。 エゾ松、トド松の大木からサルオガセが垂れ下がっていた。 魔法にかかった森にでも迷い込んだような気がした。
そこは根釧原野であり、その霧を地元の人は“ガス”と呼んでいた。
 
 私が根室の母の親戚の家を訪ねると、
 「お母さんそっくりだからすぐ分かった」
 「東京からはるばる来た人に、風邪をひかせたら大変だ」
 親戚のおじさんはそう言いながら、ダルマストーブにじゃんじゃん薪をくべてくれた。
赤く燃える火を見ながら、夏にストーブなんてと思ったが、実際に少しも暑すぎると感じなかった。 ガスに包まれた根室はビックリするほど冷えていた。

 根室の次は、摩周湖、阿寒湖と見て、北見に出た。 そこの親戚の家では、緑色のアスパラをフライパンでバターを加え、サッと炒めてくれた。 その頃、アスパラといえば、缶詰めの白いのしか見たことがなかったので、すごく新鮮に感じた。

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2005/03/02

阿蘇山      ( 4-9 )

 阿蘇山は、この旅行でもとっておきの場所だった。 “世界一の大カルデラ”、以前教科書でこの説明を見て以来、私はずっとこの地に来てみたかった。 狭い日本に世界一広い場所があるという事に、何より興味を引かれた。 その全貌をこの目で見、足で確かめたかった。 豊肥本線の車窓から見える風景は、緑豊かな普通の農村と変わらなかった。 阿蘇駅は意外と小さな駅で、そこからバスに乗り、阿蘇の中心部に向かった。 

 しばらく行くと視野が開け、一面の草地が広がり、馬や牛が三々五々、のどかに草をはんでいる。 こんなに広々と続く草原を見るのは、私にとっては初めてだった。 火口を見た帰りは歩くことにした。 草千里を越え、ススキの原を越え、雑木林に入り、深い森を越え、また阿蘇駅の麓に出てきた。 森のはずれで見た大木はカイズカイブキだろうか。 ゴッホの絵で見たことのある糸杉のように、照りつける太陽の下、青空に向かってもくもくとわき上がる入道雲に負けじと、緑の炎が燃え上がっているように見えた。
 この旅行から帰ると、駒場祭が待っていた。

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2005/02/28

広島        ( 4-8 )

 広島では原爆ドームを見た。 幼い日の記憶がかすかによみがえって来た。
 宮島ではこの記憶がより強く、私の体を揺さぶった。 幼い日、休日に良く父が連れてきてくれた。 船着き場、紅葉の木、紅葉饅頭、厳島神社…・私は自分ながら不思議な気持ちだった。見るもの皆、昔から良く知っている懐かしさに包まれていた。

 江田島に行ったのは、自分なりに考えがあったからだ。 今から見ると“無謀”とも思える戦争へ、なぜ当時の若きエリート達は突き進んでいったのか。
 私は少しでも真実を知りたいと思っていた。
 江田島の港に着くと、しばらく近所を散策した。 当時の私には、ここは来てはいけない所、見てはいけない場所というような漠然とした気持ちがあった。 いわば、タブー破りのような、緊張感があった。

 私は自分の気持ちを静めるため、近くの神社の階段を登った。 急な階段を登り詰めると、突然視界が開け、瀬戸内の穏やかな海の景色が広がっていた。
 陽光をキラキラと反射させている波間に船が行き交い、青空には入道雲がひしめいていた。 真夏の日差しは、朝とはいえギラギラと照りつけ、神社の周囲のうっそうとした常緑樹の葉の濃い緑と、樹間の陰影が鮮やかなコントラストを描いていた。蝉時雨が耳を圧した。

 私はしばらく神社の縁側で休んだ後、“旧海軍兵学校”の見学に出発した。
 赤レンガの建物、練習船などを案内された後、建物内部の一室に通された。 そこには特攻隊員の遺書が展示されていた。 私は、一つ一つ丁寧に読んでいった。 “お国のために”、“天皇のために”という文字が仰々しく並ぶ文面の奥から、自分達の愛する人達を守るために、自分の命を捧げた、彼らの気持ちが痛いほど伝わってきた。 私は戦争のむごさを感じた。 なぜ、日本はあの時期、戦争を避けられなかったのだろう。

 よく“歴史の必然”という言葉を聞く。 でも私は、それを信じない。
 いつの時代、いつの時点でも、いくつかの選択肢があったに違いない。 その選択の点の集まりが後から見ると、一つの流れとなって見えてくる。 歴史は必然と偶然と、そしてその時代の人間の意志の複雑な絡まりによって、織りなされるのではないだろうか。

 下関では、父方の親戚のおじさんが、寿司屋に連れていってくれた。ぜひ食べさせたいと言って注文してくれた、ウニの握りの美味しかったこと。以来、その味を越えるウニにはまだ遭遇していない。
 翌日は、免許を取って間もないというその家の娘さんが、青海島までドライブに連れていってくれた。 どこまでも続く、白く乾いた国道を、猛スピードで飛ばす運転ぶりに少々冷や汗もかいたが、窓の外に拡がる海沿いの風景は、それなりに楽しかった。

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2005/02/25

中国 ・九州旅行 ( 4-7 )

 駒場生活に入って、最初の夏休み、始めの一週間位は、中国語の補講で過ぎ、その後の一週間は那須合宿に、半強制的に参加させられ、瞬く間に過ぎた。
 しかし、残りはまったくの自由だった。 私は中国、九州地方の周遊券を手に入れると早速旅に出た。 リュックサックにスカート。 一寸ちぐはぐな格好だが、当時の私は服装にはすごく保守的だった。 スラックスなんてはいた事がなかった。

 私だけでなく、一般的にもこの傾向はあった。中国語クラスこそ、一人だったが、英語の授業には、数人の女子学生がいた。
 ある日、その中の一人Fさんがノースリーブのワンピースを着てきた。 これは、私達には革命的に映った。
 「どうしたの。何か心境の変化でもあったの」
 私達は寄ってたかってFさんを冷やかした。しかし数年後、一番Fさんを冷やかしていたTさんが、ミニスカートをビシッと決めて、私達の度肝を抜いた。

 私は、ガイドブック片手に、気の向くままに、広島、江田島、下関、阿蘇…と訪れた。 宿は、父が岡山県出身だったので、各地にいた親戚の家を利用させてもらった。 ユースホステルも利用した。 ユースホステルは、当時、夕方急に行っても、どっかに寝る場所を確保してくれた。 夜行の乗り継ぎを待つため、駅のプラットホームのベンチで仮眠をとった事もある。 当時、学生の一人旅がはやっていた。社会も学生に優しかった。

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2005/02/23

駒場祭      ( 4-6 )

 夏休みが過ぎ、9月ともなると、私達は駒場祭の準備に追われた。 配役、演出を決め練習にとりかかる。 東大の女子として、劇に出演した方がいいという意見も多かったが、私は舞台で皆に注目されると思っただけで、恥ずかしかった。 そこで裏方の仕事を引き受けた。

 当日は、皆の熱演により、まずまずの成功だった。 客観的には文Ⅰによる解放軍の戦記物の方が、動作がキビキビしていて分りやすく、人の入りも良かったという。 私達の劇は、革命の中で、揺れ動くインテリ像みたいなのが主題で、いきおいせりふが長く、見せ場も余りなかった。

 それでも終った時の達成感は大きかった。 何しろ中国語を習ってまだ半年の私達が、本邦初演の中国劇を、私達の力だけで上演したのだ。私達は打ち上げコンパで、ビールを飲み、すき焼きをつつき、歌を歌った。 私達の青春はバラ色に輝いていた。

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2005/02/21

那須合宿     ( 4-5 )

 K先生は毎年夏休み那須合宿というのを行なっていた。 出るも出ないも自由だけど、出ない人には前期の単位をあげる保証はないという、半ば強制的なものだった。 私はもともと山が好きだったし、その電気もガスもない山の中の三斗小屋温泉での生活にわくわくしていた。 米、ミソから始まって、野菜、飲み物など、当地での必要品は、全部皆で手分けして運んだ。 山道は結構険しかったけれど、山登りに慣れていた私は、先頭グループで山小屋に着いた。
もっとも私は、自分の荷物だけで良く、男子学生は、米とか食料を分けて運ぶというハンデイはあったが。

 K先生は刺激のある都会、即ち“俗世間”から離れたところで、学生達に自分の考えを理解してもらおうと目ろんでいるようだった。
 しかし多くの学生は、午前中のK先生の授業中は、アクビをしたり、居眠りをしたりした。度胸のある人は、抜け出して、近所の山の探索に出かけたりした。 何しろ回りは深い山だった。 私もしばしば、脱出の誘惑にかられた。 そんな私の心を見透かしてか、先生はしばしば私に質問をぶつけて、脱出の機会を封じた。

 昼食は当番学生の作ったメニューを食べた。 何を食べたか覚えていないが、健啖家の私には、とてもおいしく感じられた。 この食事当番は、K先生の講義に出席しなくていいので、皆に結構人気があった。 他大学の女子学生も招待していたので、私は彼女たちとおしゃべりするのも楽しみだった。

 午後の時間は、駒場祭に上演する劇の翻訳に当てられていた。 入学して間もない頃、この話は上級生から聞かされていた。 自分達で一つの脚本を選び、それを翻訳して、駒場祭で上演しろという話だった。 上級生も手伝ってくれるという事だったが、私達には気の遠くなるような話だった。 合宿前に、何とか一冊に絞ってあった脚本を何等分かにして、いくつかのグループ毎に責任を持って訳さなくてはいけない。
 私達は、辞書を片手に一語一語訳していった。 “解体新書”の翻訳もかくやと思われるほど遅々とした進行状況であった。 それでも何となく筋が浮かび上がり、全体で持ち寄り、一貫したストーリーが見えてきた。

 そんな合宿も、瞬く間に一週間過ぎ、最後の日は那須縦走のスケジュールが組込まれていた。 東大の学生、特に文学部の学生には体のひ弱な人も結構いた。 そんな学生がフウフウへばっている中、私は那須岳の山並みを楽しんだ。
 この那須合宿は、その後何回か参加した。 二回目以降は、上級生として下級生の面倒を見る役だった。

 何回目の合宿でだったか忘れたが、この山歩きの途中、山頂付近で大雨に遭った。 用意してあったヤッケをかぶり、私達はほうほうの体で下山した。 雷も遠く近く鳴り響いていた。 駅の近くには、公営温泉があり、そこでびしょ濡れになった洋服を着替えサッパリとした。次の年だったか、その山頂付近に落雷があり、死者が出たと新聞に出ていた。 ヒヤッとした。

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2005/02/18

K先生と文法   ( 4-4 )

 K先生は中国語の文法を教えなかった。 文法と称して、文章をいじる事は、結構時間をかけたが、私達には、先生が何をいわんとしているか良く解らなかった。 その時の説明と以前の説明が矛盾している事もあった。
 先生は、日本において、中国語文法研究は形成過程にあるから、皆で考えて作り上げようとしていたのかもしれないし、そもそも文法なんてどうでもいいと考えていたのかもしれない。
 「東大生は、文法から入って一つの言語を理解したつもりになる」
 先生は良く嘆いていた。 言語は実体なので、一つ一つの単語の正確な理解から、実体にせまっていく以外に、中国語の真の理解は得られないと言いたいようだった。

 教材は一年生の頃は、中国の小学一年生の国語教科書をプリントしたものだった。
 「我把椅子。 山川君、どういう意味かね」
 「私はイスを持つです」
 「どんな風に持つのかな」
 「握って持つのです」
 「どういう風に握るのかな」
 私はしょうがなく机の上の筆箱を握ってさし出す真似をした。

 先生はきっと、イスの背を握って運ぶ動作までしないと、その時の小学生の気持ちを本当に理解できないと 言いたかったのかもしれない。 授業はこんな調子で、表面的にはダラダラしたものだったが、私は何となく引きつけられていった。
 実際の中国語学習は自分でやればいいんだ。 私は神保町の中国専門書店に行き最新の本を買ったり、短波放送を聞いたり、人民日報を読んだりした。
 K先生はある時、ポツリと言った。
 「山川君が男だったらなあ。 女は結婚するとクルッと変わってしまうからなあ」
 きっとK先生は、過去に苦い経験があるのだろう。 期待した女子学生が結婚と同時に学問を止めて家庭に入ってしまったとか…・。

 私は、高校のある先生の言葉を思い出していた。
 「あなた達は将来、二者択一を迫られる時が来るかもしれません。結婚するか、研究者として進むか。その時は迷うことなく結婚を選びなさい」
 この言葉はその時のショックもさる事ながら、時にふれ私の頭の中に重く響いた。
その都度、私は、ますます反対の意志を強めたのだが。
 「私は研究者として一生歩み続ける。結婚するかしないかは、副次的な問題だ」
私の頭の中では、結婚と、親しい友人を持つ事の間に大した差はなかった。 高校時代、何人かの女の友人との心の葛藤に苦しんだ私には、男の友人との付き合いの方が、気楽じゃないかとういう期待さえあった。

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