2009/01/15

“東大落城”を見て

 見なければよかった・・・・。

昨日の夕食後、テレビ欄を見ていた。何か面白そうな番組があるかな?何、東大落城?

また当局目線で、全共闘"暴力"学生全員逮捕までの大捕り物劇か・・・。もういい加減にしてくれ。とはいってもあの時代に少しでも関係ある番組には惹かれてしまう。色々葛藤があったが、8時からのドユメンタリー風ドラマを見始めてしまった。

警察当局指揮官を主人公にしてはいたが、ドラマの細部には意外と学生側に対する誠意が感じ取れた。いつの間にか感情移入していた。

新緑のまぶしかったイチョウ並木で夢中になって討論していた頃・・・・

黄金色に輝くイチョウの下での心踊る数々の集会・・・・

屈辱と落胆に打ちのめされて重い足を引きずり後にした落葉の並木道・・・・

2時間の映像により呼び覚まされた、当時の記憶の数々は余りに生々しく、重たいものだった。

安田講堂の最後の攻防戦を見ながら、涙があふれ出てきた。いけない・・・。明日は外出の予定があるのだ。目を腫らすわけにはいかないのだ・・・・・。

心の奥に封印していた感情を又押し込めて、いつもながらの生活に戻った私だった。

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2005/04/29

“正常化”     ( 4-31 )

 大学は急速に “ 正常化 ” されていった。 

その動きに反発した人は多かったと思う。 私も心の中では、一番反発していたかもしれない。 もし私に勇気と、自信があれば、その時点で退学していただろう。それが、一番格好良く思えた。 でも当時の私には、退学する勇気がなかった。資格もなく、経験もなく、社会に出ていって生き抜く自信が無かった。

当時の私は、心の中でこう思うことで、自分を正当化していた。 

「 我が家で、私は早く一人前になることが期待されている。それには、今の私にとって、研究者となって大学に残る事が一番の近道なのだ。それに東大に残って、将来、教授会で “ 1.18、19  ” の機動隊導入は大きな誤りだった、という声明を出せるかもしれない。そのために私は大学に残る 」

当時、中文研究室からT先生が去っていた。 その研究室は、T先生とM先生の共用であり、また私達中文学生会の部屋でもあった。 いつの頃からか、民青系の人は日共系の教師の研究室を使用していた。 しかし、私達が愛用していたその部屋に民青系の人が出入りを始めた。 というより民青系の人は “ 大学の正常化は俺達がやった ” という意識が見え見えだった。 ノンポリの人も出入りした。

言ってみれば、“ 全共闘 ” の私がそこに居ることが不似合いだった。私は一切を無視した。 “ 学問 ” だけに打ち込もうとした。

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2005/04/25

菊屋橋101号  ( 4-30 )

この時期、私達の間で菊屋橋101号という呼称が口コミで流布していた。

当時の司法当局は、東大闘争の本質を問うことなく、個々の刑事事件として、分割し処理する方針で学生に臨んできた。 それに対し、全共闘は “ 完黙 ” という戦術を編みだしていた。 その為、この頃の逮捕者は、皆、収容された刑務所名と部屋番号で呼ばれていた。 その中でも菊屋橋101号の存在は、一番目立っていた。 というより、次々と名前を名乗り保釈されていった中で、その人は最後まで完黙を通し、自分が一番最後に保釈される事を選んだ。

私の心の中で “ 菊屋橋101号 ” という名前は夜空の北極星の様に輝いていた。        

その人は理系の大学院生ということだった。 その人は、東大闘争の理念を身を持って守ろうとしたことにより収監され、“ 改心の情 ” が見られないという事で、裁判を受けることなく7ヶ月余り刑務所から保釈されなかった。

「gokutyuushokan.jpg」をダウンロード

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2005/04/22

戦いは続いた  ( 4-29 )

 

大学構内はその頃、妙によそよそしかった。 中文研究室も櫛の歯が欠けたようだった。 講堂に残った人達はいつ保釈されるか解らなかった。

何人かは救対の活動で忙殺されていた。 2月の中旬、中文のT教授が東大執行部を批判し、全共闘支持を表明してくれたが、文学部教授会を動かすことも出来ず、先生自ら東大を去っていった。 T先生は先の日中戦争の時も、日本の中国に対する戦争の正当性に疑問をぶつけ、一兵卒として激戦地へ送られたというエピソードがあり、私達の間では尊敬されていた。

東大闘争に対し、今度は司法まで弾圧してきていた。 分離裁判を受け入れた学生は比較的早く保釈されたが、東大闘争全体の中での講堂に残った意義を主張して、統一裁判を要求した学生に対し、長期拘留という手段を使ってきた。 それは、権力に屈服を迫るやり方だった。 精神的奴隷化を強要していたのだ。

その頃、“ 東大闘争獄中書簡集 ” というパンフレット状の刊行物が作られていた。獄中の学生が獄外の友人、家族に宛てた手紙を幾つかずつ載せていた。

獄中の人は、私達の突き詰めた理念を、純粋に守り続けて獄中にいた。 私達は外で様々な雑事の中、消耗し、風化し続けていた。 その格差に慄然とすることもあった。このパンフは意外と好評で、中文研究室でも欲しい人に売っていた。 よその学部からわざわざ買いに来る人もいた。 他大学の学生も買いに来た。


1969.9.5全国全共闘連合結成大会 共闘グラフィティ 


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何回か買いに来ていたので、顔見知りだったK大のAさんがある時、憮然として言った。    「 ○○の集会の時だけど、後ろを取り囲んでいる機動隊員にひどいこと言われたのよ 」 

 「 なんて言われたの 」

 彼女は口にするのをしばしためらった後、吐き捨てるように言った。

 「 私の顔を見て、“ 公衆便所 ”ていうのよ 」 

 「 ひどいわね 」

 私は言いながら、その頃の公衆便所の汚さを思い浮かべていた。 駅や公園のそれは、悪臭に満ち、汚物があふれ、壁は卑わいな落書きで埋まっていた。

 私は機動隊が彼女に対し、ひどく汚い言葉、例えば “ クソッタレ ” と言ったと同様の響きで、この言葉をAさんにぶつけたのかと思った。 場合によっては、バラだ、百合だ、野菊だ、と例えられてもいい若き女性に対する言葉とは思えなかった。

私の反応がAさんの期待している程でなかったので、Aさんは更に言葉を続けた。

「 この言葉には、口では言えないような侮蔑的な意味がこめられているのよ 」

しかし、私がその言葉の本意を理解するには、その後、かなりの時間が必要だった。


70年安保闘争 全共闘グラフィティ


jidainokishu

 機動隊の学生に対する暴力は、精神的面にとどまらなかった。 その後、学外デモや集会で、機動隊は学生に至るところで襲いかかった。 編み上げ靴で蹴飛ばし、警棒で殴りつけ、ジュラルミンの盾で押し倒した。 けが人が激増し、逮捕者は拘置所の収容能力をはるかに超えた。 もし物理的制約が無かったなら、少しでも自分の意志を表現しようとする学生一人残らず、刑務所にぶち込むのが、警備当局の目標のように思えた。

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2005/04/15

救対       ( 4-28 )

その後、中文でも急きょできた救対(救援対策部)を通じ、逮捕された学生の現状が次々と知らされた。 目を催涙ガス弾で打ち抜かれた人は、失明をまぬがれそうもない。体中に催涙液を浴びた多くの学生が、全身火膨れ状態で、ベッドに体を横たえるのもつらいそうだ。 逮捕時の機動隊の暴行により、大多数が体中何らかの傷を負っている。

 私の心はこれまでにも、もう十分切り裂かれ、ズタズタになっていた。 これら逮捕者の惨状を聞いても、何ら反応を示すことなく、ただ救対に言われたノルマをこなしていった。 街頭カンパ、週に何回かの差し入れ、差し入れ用の弁当作り、…。

 ある時、新宿で街頭カンパを集めていた。 “ ガンバッテ下さいね ”

 頭を上げると、そこには家の近所の人の顔があった。 

私はその後、中文学生会の第二代会長に選ばれた。 後で、その時私を推薦したTさんに

「 何であの時、私を推薦したの 」 と聞くと、「 あの時、山川さん、日和見しそうだったので、それを防ぐためさ 」

私は、T さんが私を全然理解していないのに腹が立った。 私は皆が一番大変なときに、自分だけ戦線離脱するような人間じゃない。 

会長になったからといって、変わることは何もなかった。 ただ、自分としてはもし何かがあったら、退学処分を真っ先に受けるかもしれないという覚悟はあった。私は何回か、文学部の学生大会でマイクを持ち、中文学科としての意見を言った。


全共闘グラフィティ

nishiguti 学科としてのアピール原稿を書いたりもした。 人前で話すのに度胸がついたせいか、西口地下街いっぱいに拡がっていた反戦集会で、飛び入りでマイクを握り、意見を言ったこともあった。

実に色々なことがあった。 その頃、私は日記をつけていた。 人名は万一の事を考え頭文字で記した。 それも中国式発音のアルファベットを使うなど、神経を使った。 その日記でさえも、もっと後になるが、庭で燃やしてしまった。

“ 集団謀議 ”の証拠にでもされたら大変だと思ったからだ。 それくらい、私達はピリピリしていた。

「tizu.bmp」をダウンロード

 全共闘グラフィティ

実際、嫌な事もいくつかあった。 ある日、道を歩いていた。 ずっと人の気配を後ろに感じていた。 余り気にとめていなかったが、急に忘れ物に気づき、振り返った。 その時、一人の男と顔が合った。 目の鋭いその男は 「 しまった 」 という様な顔をして、さっと向きを変えると人混みにまぎれこんだ。

「 尾行されている 」 と私は直感した。

また、ある夜のことだ。 その日はバイトだったので、私の帰りはいつもより遅かった。 家の前に着き、私が門を入ろうとしたその瞬間、物陰から一人の男が飛び出してきた。 その男は、私の後ろから首を片腕で締め付けた。 私は一瞬、息が止まりそうになった。 「 人殺し!」 叫ぼうと思ったが、声が出なかった。 腕を振りほどこうとしたが、体が膠着して動かなかった。 一瞬の後、私は気を取り直し、体中の力を出してもがいた。

その時、男は腕を放し、闇の中に駆け出して消えた。 私はしばらく呆然とそこに立っていた。 何が起こったのか理解できなかった。

次の瞬間、私は男の駆け去った方角を目で追った。 何の目的でそんなことをしたのか詰問したかった。 だが、その時、男の影は既に消えていた。

私は玄関の前で、少し乱れた上着を直し、息を整えた。 この事は、絶対に父母に知らせてはいけない。 父母に、これ以上の心配をかけてはいけないと思った。

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2005/04/13

私達から “私” へ  (4-27)

 これまで、私の心の中にしまっておいた東大闘争の思い出を、当時の気持ちにできるだけ忠実に、再現してみました。東大闘争といっても、その人の所属学部、学科、学年によっても感じ方に違いはあるでしょうし、個人差もあったと思います。
 したがって、今後様々な方の思い出が語られれば、より立体的に当時の雰囲気が伝えられると思います。
 
 私自身について言えば、1.18、19を境に、世界の風景が変わりました。短期的には、明から暗へ、長期的には私達から “私” への緩やかな撤退でした。
  "全共闘運動に参加していた人はその後どうしたんだ ” というような質問をよく聞きます。これには参加していた人の数だけの “その後” がある、としか答えられないと思います。

 以下、私の “その後” を 、一例として紹介していきます。更新は、週1回か2回のペースになると思います。
 

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2005/04/11

1・18、19 機動隊導入 (4-26)

11819 1月18日 朝7時前後、機動隊の大群が講堂めがけて押し寄せてきた。 それはまるで敵陣へ総攻撃をかける陸軍部隊もかくやと思わせる物々しさだった。
 ヘルメットにジュラルミンの盾、護送車を連ね、何千人という数で、龍岡門から、農学部正門から、池之端門から進入し、銀杏並木を、講堂周辺を、病院前を埋め尽くした。 総数8500名という。

 これらの事は、夜家に帰ってテレビによって知った事だ。 実際には私達はこの日、正門前に集結し、デモ行進をしていた。 私達の前に、正門は固く閉じられていた。自分たちの大学になぜ入れないんだ。 自分たちの大学の理念を守ろうとする人達になぜ、ガス銃を発射するんだ。 私達の体は怒りにふるえていた。 ワアーというどよめき。 デモ隊の一部が封鎖を破って構内に入ったらしい。 
  「封鎖貫徹!」 「闘争勝利!」 シュプレヒコールを繰り返し、機動隊と揉み合った後、「ガンバレ!」 と叫びながら正門から外に出たという。gakugai 
全共闘グラフィティ

 その後は、大学周辺のデモ規制は一段と厳しくなり、私達は大学のそばにも近づくことができなくなった。 私達はただ遠巻きにして 「闘争勝利!」 とシュプレヒコールを繰り返し、激しくジグザグデモを続けた。 私達は泣いていた。 催涙ガスのきつい臭いが目と鼻を襲う。 そのためもあったろう。 でも、私達は心の底から、やはり泣いていた。

 私は、機動隊の人に叫びたかった。
 「あなた達は自分たちのしている事が分かっているのですか。あなた達が今、守ろうとしているのは、古めかしいレンガの建物とその中に保存されている日本人の精神を締め付けてきた、ボロボロに錆びついた“権威”という鎖なのだ。そしてあなた達が銃を向けている学生達は、日本の未来を真剣に考え、新しい時代を切り開こうとしている全国の若者の熱い期待を背負って、そこに踏み止まっている、日本の良心なのだ」

yasudatoride 全共闘グラフィティ

 次の日、一体私はどこで、何をしていたんだろう。 今の私には全く記憶がない。
ただ、夜家でテレビを見ながら、涙が止めどもなく流れるのを、どうすることもできなかった。 催涙ガスは、講堂の学生に対してだけでなく、私達、全共闘の下で闘ってきた学生一人一人目がけて打ち込まれてきた。 心はズタズタに傷つき、血を吹き出していた。 夕闇迫る講堂屋上で、突然、学生達が肩を組み、インターを歌い出した。 私も心の中で一緒に歌っていた。 時計台放送が最後の放送を流した。
 「我々の戦いは勝利だった。全国の学生、市民、労働者のみなさん、我々の戦いは決して終わったのではなく、我々に代わって闘う同志の諸君が、再び解放講堂から時計台放送を行う日まで、この放送を中止します」
 この二日間に、東大構内で633名が逮捕された。 

 翌朝のテレビでは、バリケード解除の過程で、無惨に壊されたレンガの山や、自分の研究資料を放水によりグショグショにされた教官の“暴力学生”に対する恨み言が放送されていた。 この映像を見たとき、私の中で東大の最後の崩壊が起こった。
 私の心の中で “東大” は死んだ。

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2005/04/08

"紛争収拾"への動き(4-25)   

 1月10日、ラグビー場で民青主導による “全学集会” が開かれ “一般学生” と大学当局による “確認書” が取り交わされた。 それで何が決まったかは、出席した人自身にもどうでもいいことだったし、実際、在庫セールの様に項目だけが多かった。
 この “確認書” の獲得により “正当性” を得た民青は “一般学生” の支持を振りかざして、全共闘学生に公然と敵対してきた。 至る所で、民青と全共闘の衝突が起きた。 学生同士の衝突を防ぐという名目で、代行は全共闘つぶしに乗り出してきた。そのために東大闘争の象徴ともいうべき講堂封鎖解除が着々と準備されていった。

  確認書     kakuninsho 私達に勝ち目は無かった。 私達が1年余り闘う中で問い続けてきた東大の理念、大学の理念を もう一度皆に問いかけたかった。 東大闘争とは何だったのか。東大は本当にこのままでいいのか。

  1.151.15 他  
 機動隊の導入は、目前に迫っていた。 中文学生会の中からも何人かが講堂に残ると言った。 私はどうしようかと迷った。 実際に私が残っても、お荷物になるだけと思えたし、父母の事を考えると残るとは言えなかった。 講堂に残る人達に対し、私達は自分たちの気持ちを託した。 東大闘争とは何だったのか。

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2005/04/06

K総長代行の登場 (4-24)

 11月、O総長の辞任を受け、大学側は新執行部を選出し、法学部のK教授が総長代行となっていた。 12月始めに代行からの提案がなされた。 医学部処分の誤りを認め、機動隊導入を反省した内容だった。 もし、これが6月の段階で出されていたら東大闘争は終結していただろう。 しかし、その後の大学当局の対応の中から、私達は医学部独自の問題と思われていたことが、実は、東大全体の体質に根ざしたものであることを知り始めていた。 東大は“真理の追究、学問の府”ではなく、権威にしがみついた、学生の抑圧機関の姿を現してきていた。

 自分たちの権威を守るためなら何でもする。場合によっては外部勢力を導入してでも。 その上、K代行の提案は私達学生の心情を何ら理解していなかった。 医学部問題はさすがに過ちを認めたが、文学部処分問題は正当として、その後文学部で起きたH学部長との長期団交についての二次処分の可能性をにおわせていた。 これは文学部と他学部との分断を意図しているように見えた。

 また、早く授業再開をしなければ留年もやむを得ないと “一般学生” をあせらせていた。 これは “闘う学生” と “一般学生” の分断をねらっていた。
 これは経営者が労働者に対して画策するスト分断工作と余り変わらないように見えた。
K代行は、教育者としてではなく、経営者として学生の前に現れた。

 しかしK代行提案は、大学側の期待を裏切らなかった。 “一般学生” の中にはストを終結し、早くこんな大学とおさらばしたいという雰囲気も濃厚になってきた。  教養学部では、本郷のストのおつきあいに疲れ、“紛争の収拾” の流れに乗る動きも強まりだした。 12月25日、法学部の学生大会、続く26日、経済学部でスト解除が可決された。

 こんなやり切れなさが充満していた時期に、もっとやり切れない事件が起きた。
 12月10日前後、駒場教養学部に、セクト間の主導権争い “内ゲバ” が持ち込まれた。
双方かなりの負傷者が出たらしかった。 そしてその中にDさんも含まれていた。
 DさんはEクラスの後輩で那須合宿でも、真面目で、真剣に東大闘争について考えていた。 そのDさんが、激突のさなか、二階から足を踏み外し、下のコンクリートにたたきつけられ脊髄損傷したという。
 「もう一生、車イスだろう」
 Dさんを知る中文の人達が、顔を曇らせて話していた。 私は胸をえぐられる感じがした。 やり切れなかった。
 ああ、何で大学当局は、この間の一連の自分たちの非を認め、権威に基づかない、信頼と理性に基づいた大学の再生を宣言してくれないのだろう。

 この後に続く1ヶ月間、私達は “政治的” な世界に翻弄された。 大学入試をちらつかせながら “東大紛争” をつぶそうとする政府、何とか “紛争” を収拾して入試を行いたい大学当局。 “一般学生” の声を代弁することで、東大における影響力回復を図る代々木系勢力とその主動部隊民青。
 私達の戦いは、それら巨大勢力の前に踏みつぶされ、抹殺されようとしていた。

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2005/04/04

日大全共闘   ( 4-23 )

 全共闘グラフィティ
ri-da-  全共闘がこの闘争を勝ち抜くには、他大学との連携が必要になっていた。 
 11月22日、“東大闘争、日大闘争勝利総決起集会” が講堂前で開かれた。
私も中文学生会の人達と一緒に参加した。 
 文学部は、この闘争過程で、最初から医学部闘争支持を打ち出し、以後も一貫して無期限ストで闘ってきた。 そして今や文学部処分問題をめぐる長期団交で、マスコミの集中砲火を浴びていた。 そのため、こういう集会ではいつも前方中央部の席が与えられていた。 Y全共闘代表や I 全闘医代表の演説も良く聞くことができた。 

 後方至る所から “異議なし” の声が飛び、空気をふるわせて拍手がわき起こる。
 講堂前はビッシリと学生によって埋め尽くされ、正門に続く銀杏並木も人波で埋まっていた。 午後二時頃、到着予定だった日大全共闘は機動隊の規制下、到着が大幅に遅れていた。

 集会が始まった頃、銀杏並木は晩秋の日差しを浴びて黄葉が輝いていた。 しかし三時を過ぎると、日差しはすっかり建物に遮られ、肌寒くなってきた。 一週間程前まで、木全体が黄金色に輝いていたが、ここ数日の風でかなりの葉が地面に降り積もっていた。 まるで遠来の大切な友人を迎えるために、正門から時計台前まで、黄色い絨毯を敷きつめたように見えた。 この日も風が吹くたびに、落葉がヒラヒラと、黄色い蝶のように学生達の頭上に舞い降りてきた。

 やきもきしていた私達の背後から、ワーというどよめきの声がわき起こり、それはあたりを揺るがす拍手に変わった。 日大全共闘が正門から入ってきた。 彼等のために銀杏並木の中央に通路が開かれ、銀色のヘルメットの日大全共闘が力強く講堂めがけて進んできた。 私はこの時ほど “連帯” という言葉の重みを感じたことはなかった。 私達学生が連帯して戦えば、どんな不当な暴力にも勝てると思った。
 私達は全員で肩を組み、“インターナショナル” と “ワルシャワ労働歌” を歌った。
 この二つの歌は、私達の “唯一” の共闘会議の歌となっていた。 

      『 全共闘グラフィティ  増補 』 高沢皓司  新泉社                               以後、全共闘グラフィティ と略 

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