2017/07/22

暑いですね ‼

毎日の暑さ、もう口に出すのも飽きてしまい、諦観の域に達しています。

そして空梅雨。我が家の庭の植物たちの悲鳴が聞こえてきます。
そうかというと降る所には、ドバッと大雨。
もしかしてお天気の神様が認知症にでもなったのかと心配になります。


そんなわけではありませんが、しばらく”浩さんの物語り”を、お休みします。
浩さんが、公私ともに今とても忙しいためです。
また時間ができたら続けてくれるそうです。急ぐことでもないのでのんびり続けていければいいと思っています。

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2017/06/03

30  大学入試

瞬く間に、大学入試が近づいてきました。

母は、うちにある唯一の食卓を私に使わせるため、上に載っていたものを全部片づけて私のベッドの枕元に移動しました。

しかしその食卓の上は瞬く間に、本とテスト用紙で埋め尽くされました。

 

毎朝、目が覚めるとすぐに体を起こして机に向かい、無限に思える練習問題に取り組みます。それからそそくさと朝食を飲み込むと、重くて腰が曲がりそうに本が詰まったカバンを背負って、学校に向かいます。そうして教師たちの入れ替わり立ち代わりの“攻撃”に耐えるのです。

9時過ぎになると、疲れ果てた体を引きづって家に帰ります。家に帰ると家族にあいさつもそこそこに、枕もとの机に向かい各課の教師が出した宿題に向かいます。疲れ果て、体をベッドに横たえ布団に潜り込むと、数分のうちにぐっすりと深い眠りに落ちていました。

 

学校では音楽、体育など入試と関係ない科目は、全部なくなりました。

私たちはまるでロボットのように無表情に、体を緊張させて、歩き回る教師や、黒板、

教科書を目で追っていました。ただひたすら教科書に書かれた黒い文字を大脳に叩きこもうとしていたのです。

 

もともと同級生より2歳年下なうえ、入試の重圧がかかり、その年には“片頭痛”がしばしば起こりました。寝不足、過労あるいは気圧が変化したときなど、私は激しい頭痛に襲われました。まるで頭の中におもりがぶらさがっていて、私の神経のいくつかを規則的に叩いているみたいなのです。頭痛はだんだん下に下がってきて、目まで腫れてきました。

勉強がつらいだけでなく、食事さえ受け付けなくなりました。

私のカバンの中に、勉強机の上に、果ては筆箱の中まで必需品が増えたのです・・・・“鎮痛剤”

 

90年代の中国では大学の数と、進学を希望する生徒数が隔絶していました。毎年進学できるのは、希望者の一割に過ぎません。

入試に参加するためには、強い精神力に加え、死に物狂いで健康まで犠牲にする必要があったのです。

 

母は、それまでは毎回の模試の成績を気にしていたのですが、私の健康を気づかうようになりました。私の身体が、入試に耐えられるか心配になったのです。

 

そのため母は、経済力が許す範囲内ではありますが、栄養があるといわれるものを探してきて私に食べさせました。

その年は、肉や卵などはすでに食料切符が必要ではなくなっていました。しかし物価が高騰していて、欲しいものを好きなだけ食べれるという状況ではありませんでした。

そんな時、母は“毛卵”を発見したのです。

 

“毛卵”とは受精卵が孵化するのに失敗した“たまご”です。途中で廃棄されていたのですが、それを安価に販売する人がいました。

その栄養価は普通の卵の3倍あるのに、値段はなんと3分の1でした。そこで母はそれを大量に買ってきて、ゆで卵にして私に食べさせました。

 

殻をむくと、まだ形になっていないのはいいのですが、何となく雛の形状をなしているのもあり、口にするのがなんとも気が引けます。しかし大学入試のため栄養をつけねばなりません。それは当時、私が勉強以外に努力しなければならない唯一のことでした。

 

私は大学入試に備えて、実に多くの“毛卵”で栄養補給したことになります。

毛卵には発生の初期のもの、分化が進んだもの、ほとんどひよこに進化したものなど様々な段階のものがありました。味もそれにつれて微妙に変化しました。

数か月たった頃には、私は卵が孵化する過程を完全に掌握していました。

 

のちには多くの人に、この“毛卵”の栄養価とおいしさが知られるようになり価格も高騰しました。夜店の店頭では、醤油や花椒や八角などで味付けした“五味毛卵”が並びます。焼き鶏屋の店頭には、三個(?)の毛卵が独特のたれをつけられ串刺しになって焼かれています。いずれもとても美味しいものです。

 

“毛卵”は瞬く間に、日常生活のどこでも見られる、おいしい食べ物になり、私たちの生活を豊かにしてくれました。新しい“中国の都市の食べ物文化”の一つになったといえるかもしれません。

 

本題に戻ります。

数か月の入試の追い込み期が、瞬く間に過ぎていきました。恐怖の6月がついにやってきました。

 

その年の6月は特別暑かったように思います。

試験当日、学校の正面入り口では、まさに子供を戦場に送り出すような悲痛な面持ちで父親や母親が待機しています。

時間とともに試験場の前は人波で身動きが取れないほどになりました。

母は耳元で、じっくりと見直しなさい、うっかりミスはしないように等々、一生懸命話しているのですが、私は上の空でした。

周囲でも同じような会話がなされているのですが、ただうるさく感じられただけでした。

試験場の門が開かれ、私は人波に流されるまま中に入っていきました。

母は後方で手を懸命に振って叫んでいました。

“うっかりしないように!緊張しないでね・・・”

試験場に入るとなぜだかある種の脱力感に襲われました。

この二日間が過ぎれば私は自由になれるのだ!!

 

試験場は蒸し暑かったのですが、当時の東北地方ではエアコンも扇風機もありません。教室の中には何十人もの人がいて、監督の教師は規則正しくゆっくりと、歩きまわっています。私は空気がやけに重苦しく感じられました。

緊張、抑圧、長時間にわたった疲れ、・・・。

試験場にもかかわらず、私はいつの間にか眠り込んでいました・・・・。

 

試験は終わりました。

合格か、あるいは不合格か、人生の分岐点が遂にやってきます。

それまで、“宣告”を待つのです。

しかし、おかしなことに試験終了後、私自身はすっかりくつろいでいました。抑圧されていた6年間の受験生活がついに終わったのです。私は大手を振って遊びまわれるのです。結果がどうなったって知ったことではありません!

 

しかし母は緊張して、ご飯も喉を通らないほどでした。

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2017/05/28

29  山菜採り

あの頃、父は次々と事件を解決し功績を立てたため地位もそれにつれて上がり、すでに市の検察庁総務部長に昇進していました。父と同期の戦友たちも、同じ頃に除隊し、みんな検察庁の幹部や、裁判所の高官になっていました。

除隊後かなりの年月が経っていたのですが、みんな戦友と呼び合い、度々会ってとても親しかったようです。

彼らの子供も私と同年代で、大学受験に備えたり、すでに大学生になったばかりだったり、学力不足で進学を諦め、高卒で就職を考えたりしていました。

 

私が大学受験の前の年の春、父と何人かの戦友たちは家族を連れて山に行き山菜採りをすることにしました。“勉強疲れ”の子供たちに息抜きをさせたかったこと、新鮮な山菜に飢えていたこともあります。

 

数家族で一緒に山菜採りに行くことが決まると、母は大喜びで準備に取り掛かかりました。普段は自分の仕事と、家事をする以外にほかの娯楽はほとんどなかったのです。

母は早々と、新鮮なキュウリとねぎなどと、ひき肉と香辛料を味噌に混ぜて炒めた付け味噌を用意しました。美味しそうな匂いで食欲をそそる、ピクニックの必需品です。しかもみんなの分までたくさん作りました。

 

ついに待ちに待った、“山菜採り”の当日になりました。私はこの日一日、勉強から解放されるのです。

朝早く、父の職場の運転手さんが、アパートの階段を駆け上がってきて、車の準備ができたと知らせてくれました。

当時は、道という道は自転車とバスにあふれ、自動車を目にすることはめったにありませんでした。しかもそれに乗って山菜採りに行くなんて、みんなにうらやましがられる贅沢です!

私と母は、この日のために準備した沢山の食べ物の包みを持って、喜び勇んで階段を駆け下りていきました。

 

ところが、なんということでしょう!

アパートの前に待機していたのは・・・・一台の犯人護送車だったのです。

運転手さんは私たちの驚いた様子を見て、頭を掻きながら弁解しました。

“皆さんの人数が多すぎて、普通の自動車では乗せきれません。しょうがないので、犯人護送車を借りてきました。詰めれば、皆さんどうにか座れますよ!”

 

父は慣れた様子で、運転手の助手席に座りました。二人の戦友は、運転手の後方座席に座ります。残された子供と母親たちは、渋々後方の犯人席に座りました。

犯人護送部分は、大型自動車の後方部分の側面を、太い鋼鉄の棒で囲んであります。

左右両側には換気用の窓があり、窓を開けると、鉄格子の間から外が見れます。座席は、木製の長椅子で、狭い後方車両に“コ”の字型に置かれています。私たちはその狭い長椅子に座りました。その様子はまるで、犯人護送というより、鉄の檻に入れられたライオンみたいでした。

 

私たちが座り終わると、護送車は、発車しました。

その車の天井はとても低く、護送車の揺れに合わせて、私たち数人の子供たちは、ある時は一方に押し付けられ、ある時は跳ね上げられて頭を天井に打ちつけられました。

道路の状況が比較的良く、あまり揺れない時、私たちは頭を寄せ合い、窓から外を覗いてみると、道行く人が、私たちを指さしながらいぶかしげに見ています。若い少年少女が護送されているのを見て当分の間、尾ひれが付いてみんなの格好の話題になったと思います。

 

護送車は山道に入ると道はさらに凸凹になりました。固い板の椅子は、まるでトランポリンの床のようになります。お尻が板についたと思うやすぐ跳ね上げられ、頭はガンガン天井にたたきつけられます。そしてまた急降下。目からは火花が出て、頭はくらくらし、めまいがします。そうしてまた左右に激しく揺れます。初めのうちは、興奮して叫んでいましたが、だんだんとそれも静まりました。皆歯を食いしばり、じっと耐えています。私はできることならすぐに車から降りて、歩いて家に帰りたいと思いました。

これは私にとって初めてであり唯一の護送車の、しかも犯人の席に座った経験でした。

犯人になるということは、本当に苦しいものです!

 

とうとう、目的地の山の中腹に着き自動車が停車しました。私たちは皆、土気色の顔をして後ろ座席から、ふらふらと今にも死にそうな感じで降りました。

 

その日の天気はもうしぶんなく、日の光は暖かくさんさんと降り注ぎ、外の空気はことのほか新鮮でした。この数年、学校と本の中にうずもれて生活していたので、自然の中での生活がどんなものかすっかり忘れていました。今日はまた護送車に乗って、過酷な“ドライブ”を経験した後、突然自然の中に戻され、自由に呼吸でき、自由に考えられるのです。まるで刑期を終え釈放されたような、なんとも言えない解放感に満たされました。

 

母親たちは家から持ってきた古い布を広げると、自分たちで作った自慢料理を並べます。父親たちは我先に道具を持ち、山に入る準備をしました。

ここは未開発の山、いうなれば原始状態に近い山でした。そのため父親たちは、子供たちには山に入ることを禁止して、開けた南面の斜面でだけ行動するように言いました。

母親たちは長年の経験から、山の斜面を下った渓流沿いには、“川セリ”があると判断し、大急ぎで大きな袋を手にすると先を争って川べりに降りていきました。

“川セリ”の見た目や味は、セリにとても似ているのですが、味はもっと濃厚で、自然の香りがし、“野セリ”とも呼ばれます。餃子に入れると例えようのない美味しさです。

 

私達子供たちは、自分の山菜に対する知識を出し合って、なだらかな斜面で宝物探しです。

子供たちの中で、農村生活を経験したことがあるのは、私だけでした。そのため年齢の大小を問わず、みんな私に従いました。その日は、私の虚栄心が少なからず満足させられました。

山にはワラビ、ゼンマイ、ノビルなどの山菜がびっくりするくらい沢山ありました。どうやら父親たちはこの日に備えて下見をしていたようです。

 

数時間のうちに母親たちは、いくつもの大きな袋にいっぱいの山菜を収穫して帰ってきました。多くは私が見たこともないような珍しいものでした。それらの名前は、みな忘れてしまいましたが、家に帰ってから、母がそれらを使って作ってくれた餃子の美味しかったことは、今でも覚えています。

 

一方の父親たちは山奥に分け入ったきり、長い間戻ってきません。

昼ごはん時になって、みんなで輪を作って食べ始めたころ、やっと手ぶらで戻ってきました。

実は、父親たちは野ウサギ狩りに行っていたのです。しかし腕前が今一つで、ウサギどころか、キジの羽一本持って帰れませんでした。

しかし父親たちはビールを飲み、母親たちが摘んできた山菜にみそをつけて頬張りながら、お互いに持ち上げて、軍隊にいたころの自慢話を始めます。どうやってたった一人でイノシシを捕まえたか、どのようにして野ウサギを手でとらえたかなどなど・・・。

 

“今はもう思うようにいかないなあ。もう40を過ぎてしまったからなあ。体力がすっかり衰えた・・・。”

母親たちは、なんら同情のかけらも見せません。

“狐やタヌキに連れ去られ食べられなかっただけでも運がよかったよ。まったくほらばかり吹いて!!”

 

昼ご飯を食べ終わると、山菜採りをする人はまた出かけました。

父親たちは一旦、お酒を飲み始めるともう止まりません。お互いに軍隊にいた頃の手柄話に興じています。

 

私は傍らに寝そべって、何も考えなくていいこの時の流れを享受していました。

心地よい風が木々の間を吹き抜け、渓流がサラサラと流れ・・・。

いつしか深い眠りに引き込まれていました。

 

 訂正   " 中学校生活"の表題について

中国では、日本の中学、高校を含めて中学と呼ぶそうです。厳密には、日本の中学は初級中学、日本の高校は高級中学と区別するようですが、浩さんの時代には初級中学でやめる人も多かったようなので、25,26,27の表題、”中学校生活”は”中高一貫校”とした方が"エリート感"が出るような気がするので変更します。

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2017/05/13

28  勉強漬けの日々

移行期の数年を経て、この学校は真の“女の園”になりました。

“女の園”といっても甘やかされて、大事に育てられる訳ではありません。目的とする大学に合格するため、皆必死で勉強に集中しました。

 

学校の毎日は、朝六時半に始まり、夜九時に終了します。

早朝六時半までには、生徒は学校に着き、各自の座席に座ります。

教師は、前日の帰宅前に、翌日の自習時間の課題を、黒板いっぱいに書き込んでいます。

これらの課題を、自習時間の50分内にやっておかなければなりません。正式な授業開始までに、これらの問題を解くだけでなく、間違った問題の見直しまでしなければならないのです。

もし課題が完成できなければ、休み時間や昼休みの時間も使って、完璧に仕上げなければなりません。

そのため、私のように問題を解くのがのろい生徒は、決まった時間内に課題を完成させるために、学校に来る時間をさらに早めなければなりませんでした。

 

大体、私は六時十分前後に自分の座席に座って、問題に取り組み始めました。

家から学校まで、15分ぐらいでした。夏の早朝は、空気はすがすがしく静かで気分も爽快です。

しかし冬、しかも夜通し大雪が降った朝、まだ雪かきもされてない道は、歩くたびに膝まで雪にどっぷりつかりそれは大変でした。

朝5時半といえば、外は真っ暗です。胡同には街灯もなく、たまに朝ご飯の用意をしている民家の明かりが、かすかに道を照らして、真っ暗闇の胡同に人の気配を感じさせてくれました。胡同を出ると、点々とある街灯に沿って、よく知っている道を這うように進みます。

 

頭のてっぺんから噴き出した汗は、毛糸の帽子から染み出し、白い湯気となって立ち上ります。口からは、息が白い塊となって吐き出されます。髪の毛と帽子の庇はくっついて、厚く凍り付きます。睫毛からは、小さなつららが垂れ下がり、だんだん長く重たくなって、しまいには目が開かなくなってしまいます

夜明け前の気温は、一日の中でも最もつめたいものでした(最も寒い時は零下43度前後)。それでも学校に着いた頃には、体中から汗が吹き出し、全然寒いと感じませんでした。

 

教室はすでに暖房が効いていて、とても温かで、身体中の雪がとけてぽたぽたと溶け落ちてきます。それから靴の中、ズボン、帽子、手袋がみな湿ってきます。みんな我先にそれら湿った帽子や手袋をヒーターのうえに並べて乾燥させます。湿った靴は氷のように冷たくなっていて、すぐに脱いで足元に置いて乾かします。

こんな時、私たちは、男子がいなくて何のためらいもなくこれらのことができて、ほんとによかったと思いました。

 

続いて、授業が怒涛のように押し寄せてきます。

国語の教師は、口角泡を飛ばし喋りまくり、授業の終わりにはこう付け加えます。

“休み時間の10分を無駄にしないように。今日学習した漢詩を暗記しておくこと!昼休みに調べに来ますからね。”

 

数学の教師は、大きな三角定規を抱えてやってきて、授業の終わりに言います。

“今の練習問題が全部正解だった人は、授業を終わっていいですが、間違いがあった人は誤りを訂正してから、休憩しなさい!”

教師は椅子を教室の出入り口に置いて、出してくれません。私たちは順番に、ノートを見せて間違いが無くなって、やっと教師の横をすり抜けて教室を出て、運動場で思いっきり深呼吸できるのでした。

 

最悪なのは英語の教師でした。彼女は昼休みの時間に、私たちのクラスと、隣のクラスにやってくると英語の教科書を暗記させます。もし教科書を暗記せずに、逃げ出して遊ぼうとしたら、捕まってさらに厳しい課題が課せられます。

こうして、授業時間の間の10分の休憩も昼休みも、順番に各教科の教師によって奪われてしまいました。

 

午後六時、私たちはまた1時間の休憩時間を迎えます。

これは夜の自習前の、真の自由な休憩時間でした。私たちは校門から出て、近所の出店でパンや弁当を買います。校門の周りにはたくさんの出店があり、いろいろな食べ物屋以外にも、“プロマイド”屋さんもありました。この出店は一番人気で、いつも人垣ができていました。買ってきたプロマイドは、無味乾燥な教科書の裏表紙に張り付けたり、仲良しの友人と交換したりしました。

 

7時から9時は、夜の自習時間です。

多くの教師は6時には帰宅するので、この時間帯は、当番教師が監督します。

当番教師は教室の一番前で、その日の練習問題の採点をしたり、他の雑務をしています。

私たちは、もう帰ってしまった教師が残していった、課題に取り組みます。

教室には教科書をめくる音と、鉛筆がノートの上を走る音以外には、何も聞こえず、シーンとして緊張した雰囲気が張り詰めています。

 

9時、私たちはやっと解放されます。

一日で最も解放感に満たされる時、それが9時の終了の鐘の音が響き渡る時でした!

 

私たちは帰り支度をし、帰り道が同じ何人かの友達と連れ立って校門を出ます。

校門には一人の教師が見張っていて、私たちが安全に下校できるか見守っています。

校門の車道を隔てた向こう側には、小さな公園がありました。毎晩、公園前の花壇には若者が一列に並んでいます。彼らはこの、女だけの学校を見に来ているのです。

気に入った可愛いい女の子を見つけると、口笛を吹いたり、はやし立てたり、奇声を発したりして女の子の気を引こうとします。

 

女の子たちは“名門女子校”の矜持があり、そんな誘いには一顧だにせず、ツンとして通り過ぎます。こうして表面的には、まったく無視の態度でしたが、心中は穏やかざる物がありました。

 

友達と別れた後は、また長く真っ暗な胡同をとおって家に帰ります。家に着くと、すぐに

家の唯一の電気スタンドの前で、その日の練習問題を見直し、なかなか覚えられない英語の単語の暗記をします。

 

あれからずいぶん歳月が経過しました。

当時の思い出ですぐ目の前に浮かんでくるのは、分厚い教科書と試験用紙の山だけです。

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2017/04/29

27  中高一貫校  続々

 

この女子中学校は歴史が長く、もともとは1930年代に、上流階級の子弟のために作られました。その後文化大革命を経て、“男女平等”の掛け声のもと男女共学の普通校に改編されたということです。

その後この学校は、再び“女子校”の存在意義を見出し、従来の女子だけの学校に改編されたそうです。私が転入した学年は復活二年目の学年にあたりました。

 

この女子中学が生徒募集に際しては、難しい筆記試験が課されるだけでなく、厳しい面接試験がありました。また学力優秀者が優先的に選ばれるのは当然ですが、美術やスポーツで特技が認められれば、特別枠で入学が許されました。そのため最終的合格者は、成績だけでなく、様々な才能にあふれた生徒が集まっていました。

こうした学校に、私は中途入学することになったのです。

 

当時は、“改革開放”政策が施行されたばかりでしたが、恋愛小説や格闘ものが破竹の勢いで市場を席巻していました。私たちの余暇の時間も、魯迅の難解な、面白みのない小説から解放されました。私たち乙女心は、小説の形で世の中に大声で公開され、世間に少しづつ受け入れられていました。

 

少女達は、恋愛小説を読めることが、自慢であり憧れでもありました。勉強に疲れたとき、白馬に乗った王子様が現れ、うっとりと見つめあう場面を夢見るのでした。

しかし現実は、私たちはまだおさなく、周囲には一人の男性もいないのです。白馬に乗った王子様どころか、男の人の声さえめったに聞こえてきません。

この教室には何か足りないのでは?

 

私は、年齢が小さかったせいもあり、思春期が比較的遅かったのかもしれません。そのためかって“出来損ない”と私を馬鹿にしていた教師たちを何とか見返してやりたいと毎日勉強に没頭していました。

そんな私の周囲では、女の子たちは、カバンの中に恋愛小説を忍ばせ、時々集まっては、男の子談義に花を咲かせていました。

 

私たちの学年の教師は、物理と化学以外は女性教師でした。半年後には、その物理の教師もなんだかわからないうちに女性教師に代わりました。

女性教師のヒステリックな甲高い声にうんざりしているとき、低い穏やかな男性教師の声は、私たちになんとない安らぎを与えてくれました。そのため男性教師は歓迎され、その授業を心待ちにする生徒もいました。

中には、男性教師の当日の下着が半袖か、長そでかとか、ワイシャツに洗い残しのシミがあるとか、どうでもいいことで真剣に議論している生徒もいます。

あれやこれやで、女子校の男性教師が感じるストレスはかなりのものがあったと思います。

 

当時は、生徒が授業中こっそり小説などを読まないように、私たちは両手を、後ろに組み、教科書のページをめくる時や、筆記するときだけ手を前に出すのを許されていました。

 

ある時、一人の級友が新しいハンカチを買いました。それには彼女の大好きな映画スターの顔が印刷されていました。

化学の時間、彼女はそのハンカチを取り出し、膝の上に広げ授業を聞きつつ、そのハンカチを畳んだり広げたりして時々、そのスターの顔を周囲に見せびらかします。

皆は背筋をピンとして、両手を後ろに回しているので、彼女の動きは際立って目につきました。

 

教師は近づいてきて尋ねます。

“何をしているんだ?見せてごらん!”

彼女はあわててハンカチを机の引き出しに押し込み、すまして答えました。

“何もしていません。何か見つかったら先生に上げます。”

私たちは興味津々で成り行きを見つめました。

 

こんな時、女性教師だったら間違いなく、女生徒を押しのけて、机の中を覗き込んだり、時には身体検査までして探し出すでしょう。しかし男性教師がそんなことできるわけがありません。

私たちは今まで私たちに怒ったことなどなかったこの男性教師が、この度胸のある、いたずら好きな女生徒にどう対応するのか興味津津で見ていました。

 

教師は一歩生徒に近寄ると、低く威厳を込めて語りかけました。

“僕は君が授業を聞いていないのがわかっていた。君が今隠しているものを出しなさい。そうすればこれからは授業に集中できる。分かったね!”

 

その生徒は、自分の身体を机にかぶせ、まるで挑発するような目つきで教師を見上げました。

“私は本当に何もしていませんでした。一生懸命授業を聞いていました。先生、早く授業を続けてください!”

 

教室は笑いに包まれました。いつも女子生徒の扱いに手こずっていた、この教師が、どうやってこの難局を取り仕切るのか高みの見物です。

 

教師は、生徒たちの物見高い笑い声の中、怒りで顔はみるみる赤くなりました。

彼は、勢いよく後ろの机を引きずり出して、その生徒の襟首をつかむと、彼女を後ろに引っ張りました。そうして彼女の机の引き出しから、例のハンカチを引っ張り出しました。

 

“わおー”という叫びが、教室のいたるところから沸き起こりました。

女生徒の顔は見る間に真っ赤になりました。一人っ子で大事に育てられ、生活の中で父親以外の男性から叱られた経験の全くなかった彼女でした。

 

それからしばらくして、その化学の教師は、女性教師に代わりました。その男性教師は、よその学校に移ったとのことでした。

その後まもなく、学校のトイレは大規模改修が行われ、男子便所は縮小されました。そうして放課後、学校の近くにたむろする男子学生の声以外には、私達にとって男の人の声といえば父親の声だけになりました。

 

当時、故郷の唯一の女子校は、思春期の難しい年ごろの少女達の扱いに戸惑っていたのでしょう。

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2017/03/21

26 中高一貫校 続

私は内心大喜びで、この落ち着いた品のある名門校に登校し始めました。ここでしっかり勉強しようと心に誓ったのでした。

しかし一日目の授業で、完全につまずきました。先生が言っていることが全く理解できなかったのです。

 

この学校は、進学率が高く教育内容が優れていることで有名でした。教育内容は以前の中学に比べて2か月ぐらい先に進んでいるのです。そのため、数学に出てくる分子、分母,約分などの用語が私にとっては、外国語のように感じられました。さらに英語の文法など全くわかりませんでした。

 

教師は私が、何もかもさっぱりできないので、失望の色を露骨に示しました。

コネで入ってきた生徒の成績がこのようにひどいのでは、クラス全体の成績にかかわります。教師は、彼女の失望を少しも隠すことなく、最初の授業の後、私に告げました。

“あなたは、この名門校にふさわしくないから、元の学校に戻った方がいいわよ”

 

今までは、クラスの中では2歳下なのだからと、先生や同級生に甘えてきて、またそれが許されてきていたので、私は、またコノ手を使いました。

“ごめんなさい先生。でも私はまだ11歳になっていないんです!”

“年が小さいのは、あなた自身の問題でしょう。私はあなたの学力を問題にしているのです。あなたの成績はクラス全体の足を引っ張るのです。だから私たちは、あなたを受け入れることができないのです。”

“でも、授業の内容が、私にはまだ習っていないことなのです!”

“それはあなた個人の問題でしょう!もし授業の内容が理解できないなら、当然、学習成績もいいわけないわね。もう帰っていいわよ。明日からくる必要もないのよ!”

教師は冷たく言い放ちました。

 

私は恥ずかしくて、穴があったら入りたい気分でした。家に帰っても母になんと言ったらいいのでしょう。

家に着くと母が学校の様子を聞いてきました。私は、校舎がきれいで気に入ったと言うしかありませんでした。

 

二日目、昨日と同じように鞄を背負って登校しました。

教師は私を見ると、眉間にしわを寄せて、傍らの教師と一言二言言葉を交わすと去っていきました。

 

この日の授業も、外国語の授業を聞いているみたいで、何も聞き取れませんでした。

私は一番前の席だったので、いやでも目立ってしまいます。

私には、一人一人の教師の、私を見る視線が刺さるようでした。なぜ教師の話さへ理解できないのにこの名門校にやってきたのと非難しているように感じられました。

 

英語、代数、幾何、物理・・・みんなびっくりするような速度で進んでいきます。

私の理解できない教科書のページだけがどんどんと厚くなっていき、その圧力で私は息が詰まりそうでした。

 

数日後の放課後、職員室の前に、全身怒り狂った教師の前で父と母が申し訳なさそうな笑いを浮かべて立っていました。制服に身を包んだ、いつもは堂々とした父がいやに腰を低くして、母の後ろに控えています。

しばらくすると、母の二番目のおじさんも上の階から降りてきました。教師の剣幕に圧倒されてすぐに腰をかがめて謝っています。私は緊張で心臓がキリキリしました。

 

家に帰ると、修羅場が待ち構えていると覚悟していました。しかし父も母も普段どうりで、のんびりと世間話をしながら、夕飯の用意をしています。

 

夕飯が終わると、母はさりげなく話してくれました。

“おじさんのメンツを立てて、先生はあなたをクラスに残してくれることになったの。でもそれは3か月の期限つきなのよ。もし3か月後の期末試験で、あなたの成績がクラスの真ん中以下だったら、私たちはこの学校にどうもふさわしくないみたいだから、その時はまた転校しましょう!”

 

“はい!”私は分かったような、分からないような曖昧な返事をしました。

 

母は文化大革命の時期としては、最高学歴といえる高校卒業生でした。母は、当分洋裁の副業をやめて毎日わたしの数学、物理、化学等々の科目を補習してくれました。

しかし中学レベルの知識は、母もかなり忘れていたようです。一題の数学の問題を解くために、私と母はスタンドの下で、頭を寄せ合って、一緒に考え、一緒に議論しあいました。

母の協力のおかげで、無味乾燥な科目が、生き生きと面白く感じられるようになりました。

 

英語に関しては、母は実際のところ力不足を感じたようです。

当時は“学習塾”もありませんでした。母は職場の若い技術者(大卒)に私の勉強を見てもらうことにしました。そこで毎週日曜日、母は私を自転車の荷台に乗せて30分余りある母の職場に通いました。

そういう事情で、私はだだっ広い工場の中の、狭い母の作業室の中で、若い女性技術者から英語を学びました。

私は単語と英語の本文を小さなノートに写して常時持ち歩き、登校途中も歩きながら、単語と本文を暗唱しました。

こうして、過酷ともいえる学習を耐えて、運命の期末考査を迎えました。

 

教師達の予想を覆して、わずか3か月の猶予期間にもかかわらず、私はクラス50人中、23番の成績を勝ち取りました。

 

こうして約束どおり、教師は私をクラスに残すことに渋々同意しました。これ以後嫌がらせも随分少なくなりました。

 

こんな経緯で、私は東北地域の唯一の女子中高一貫教育の名門校に正式に入学しました。

これは家族全員にとっても非常に喜ばしい出来事でした。

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2017/03/11

25   中高一貫校

町の家に帰ると、残りの半年の小学校生活を終え、私は中学生になりました。

 

その学校は、地区の普通学校でした。校舎は製材所と製紙工場に挟まれていて、生徒の大部分はこの二つの工場で働く工員さんの子供です。言い換えれば、あまり教育環境に恵まれていない子供たちでした。

 

校舎はレンガを積み重ねて作られた平屋で、教室の窓は穴だらけでした。それは元気な男子生徒が、サッカーしていて明けてしまったものです。冬ともなれば、昼間でも外の温度は零下30度に下がります。穴だらけの窓は、冬の到来を控えて、先生たちが大きなビニールを張ってふさいでくれているのですが、肌を刺すような冷風が情け容赦なく窓の隙間から吹き込んできて、私たちは寒さに凍えて体中震えが止まりません。

 

教室の前方の真ん中に、大きなストーブがありました。教室に来た先生の最初の仕事は、

まずこのストーブに火をおこし教室を温めることです。そのあとの先生も授業を続ける一方で、絶え間なく石炭を足し続け、最後の授業まで、火が途切れないように気を配ります。

 

ストーブの後ろには、うすい鉄製の筒が、ずっと教室を貫いて後ろの壁から煙突につながっていました。当時使用していた石炭の質が極めて悪かったので,黒いモクモクした煙が吐き出されます。鉄製の筒は使い古されて錆びだらけで、ところどころにできた穴から、その煙が筋のように教室の中に立ち上ります。ひどい時には、黒板に書かれた文字も見えなくなります。時には、先生は授業を切り上げ、窓を開け放して教室の換気をせざるを得なくなりました。

 

授業ができなくなると、元気な男子生徒はみんな外に遊びにいきます。

雪合戦、雪だるま作り、雪の上でのサッカー・・・。全身汗と溶けた雪でぐしょぐしょになります。

 

もっと後になると、男子生徒のいたずらはエスカレートしました。

ある時、彼らは放課後、教室に忍び込み、煙を通す管にレンガを詰めて煙の通路をふさいでしまいました。

事情を知らない先生は、早朝教室に来ると、いつものようにストーブに火をおこし教室を暖かくしようとします。しかし濃い煙は煙突から出ていかず、一気にストーブの口からあふれてきました。たちまち教室の中は、手を伸ばすと指先が見えないほどで、呼吸さえ困難になりました。

仕方なく、先生は授業停止を宣言せざるを得ませんでした。

その時は、事故の原因を調べたり、煙突を修理したりで生徒は、二日間の休暇を手に入れたのです。

 

このようにして、私たちの冬の授業は、いたずら盛りの生徒たちと先生の間に繰り広げられた“戦争”の中、とぎれとぎれに続けられました。

 

半年後、中間テストの結果が発表されました。

私の成績はクラスの中では“優等生”でしたが、その内実は、得意な国語が65点。クラスの英語の平均点に至っては、30点そこそこというひどいものでした。

 

母は、この学校の教育レベルが不安になり、私を転校させることにしました。

 

 

我が家の近くに歴史のある“女子中学”という名門校がありました。

この学校は当時東北地方では唯一の中高一貫の女子校で、大学進学率も全市のトップクラスでした。

 

母の2番目のおじさんが、この学校で数学の先生をしていた縁もあり、とても大変だったようですが、何とか私はこの学校に転校することができました。

 

この学校は当時としては珍しいビル建築で、暖房設備は室外に設置されていて、教室ごとにパネルヒーターがあり、暖かいうえに煙のすすがないのです!

煤煙に悩まされない冬はなんと清々しいのでしょう。

 

校舎は英国風のクラシックなもので、教室の外壁には重厚なタイルがはめ込まれていて、日の光に輝いてまぶしいくらいです。校舎の床は、滑らかなコンクリートでところどころには大理石が敷き詰められていました。天井に取り付けられた照明は昼間もずっと点灯されていて、その穏やかな明かりが大理石に反射して、なんとも言えない上品で穏やかな雰囲気を醸し出していました。

 

学校には制服がありました。セーラー服で、上着は藍色、スカートは濃紺でした。

豪華な校舎の造りの割には、教室はすっきりしていて、女子生徒はお上品・・・。最初のうち、私は緊張して息をするのもはばかられる感じでした。

私は中途転入の生徒だったので、先生は倉庫から一人用の机を探してきて、一番前に置き、私の席にしました。

 

この学校の窓はどこも割れていません。しかも二重になっていて保温効果抜群なのです。

私は内心大満足でした。こんないい環境の中で一生懸命勉強したいと心から思いました。

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2017/02/27

24  妹の災難

私はこうして再度、よく知っているというか、何となくよそよそしかった町の家に帰ることになりました。この2年の間に家にはいろいろ変化がありました。

 

その一 母は私の部屋を用意してくれました。もともとの居間を改築して軍用のシングルベッドと、簡単な勉強机を置いてくれたのです。以前はオンドルの上に4人が雑魚寝していたのに私に個室が与えられたのです。

 

その二 母が足踏み式ミシンを買いました。母は友達に安い布をあっせんしてもらい、友達や彼女の弟や妹に衣服を作ってあげました。みんなが自分の作った衣服を着ているのを見るのが何よりうれしかったみたいです。

 

その三 妹が小学校に入学しました。本来なら、妹は1年前に入学しているべきでした。それがある事情で1年延期せざるを得ませんでした。その事情とは・・・

 

母の洋裁の腕はかなりのもので、そのデザインの斬新さもあって友達仲間でも評判になり、注文はどんどん増えました。もちろん自分の弟妹の分もおろそかにできません。そこで毎朝、日が上る前から起きだしミシンに向かい、仕事から帰ってもミシンに向かい、疲れ果てていました。

 

ある日のこと、夕食後、母はいつものようにミシンに向かっていました。父は接待があり外でお酒を飲んでいました。

妹は一人で遊んでいました。おもちゃが家具の下にはいってしまい、それを取ろうとした時、母が家具の下に置いておいたネズミ捕りの薬を見つけたのです。

当時、ネズミの被害が蔓延し、政府はネズミ退治のために、各家に大量のネズミ捕りの薬を配布していました。その上ネズミを誘引するため、強力なにおいを添加していたのです。

 

妹はその薬のにおいを美味しそうに感じてしまったのでしょう。もしかしたら妹はおやつに飢えていたのかもしれません。その薬を全部食べてしまったのです。

一時間もしないうちに、お腹に激痛が走りました。

母は妹がネズミ捕りの薬を食べたとわかるとパニックになり、すぐに病院に連れて行きました。

タクシーもなく、電話もなく、すぐそばに手伝ってくれる人もなく、一人で妹を自転車の荷台に乗せて病院に押していきました。

 

病院に着いたとき、妹はすでに吐血と血便状態だったそうです。

夜通し胃を洗浄し、リンゲルを与えるなどの救急処置のおかげで状態は落ち着きました。しかし気が付いた時間が遅かったので毒薬がすでに血液に入ってしまっているとのことで“この子は多くてあと三日の命でしょう。覚悟していてください”

 

三日過ぎました。

“おなかすいたよ。なにかちょうだい!”と時々いうのですが、妹に目立った異常は見られませんでした。

それでも医者の診断後の意見は

“長くてもあと7日しか残されていません。ちゃんと付き添ってあげなさい。かわいそうに・・・”

しかし妹は奇跡的に回復しました。半月後には退院し、一月後には以前のように色白でふっくらした可愛らしい妹になっていました。

しかし退院後かなりの期間、記憶力や思考力が低下し、簡単な漢字でさえ何度教えても覚えられないし、まして数の計算など全くダメだったそうです。

 

退院すると、小学校入学の時期が迫っていました。しかし妹の当時の状況からすると入学はとても無理だろうと、母は一年遅らすことにしたそうです。

 

こんな事情で、妹は八歳で小学校に入学しました。

同級生より一歳大きかったせいもあり、背が並外れて高くなっていました。その上 

生来の食いしん坊で丸々太り、毒の後遺症による脳のダメージ。そんなこんなで、ノッポ、デブ、ウスノロ等々たびたび言われ、ずいぶんいじめを受けたみたいです。

 

 

その四 家に白黒テレビがやってきました。

胡同全体でもテレビがあるうちは二、三軒しかありません。そのため夕方7時になると近所の子供たちは各自腰掛をもって家に集まりテレビを見ました。

当時放映された最初の日本のテレビドラマは“おしん”でした。

その後に続いた、山口百恵の“赤いシリーズ”は全中国人の涙を誘ったものです。

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2017/02/25

23 農村の学校で

今まで読んでくださって、もし私が農村で遊んでばかりいたと思われたら、それは大間違いです。

 

私はクラスで“町の人”という呼び名をもらったのですが、先生まで何か祝日があると、

“あなた達、町の人はこの祝日はどのように過ごすの?”と尋ねます。

文化祭などでは、

“この催しを企画してみて!私たちの村の子供は、このような歌や踊りをちゃんと習ったことが無いのよ。”

 

もともとみんなより2歳年下で、時々みんなの会話が理解できなくていじけていたのですが、先生がこのように私を持ち上げてくれたので、頑張らざるを得ませんでした。

 

学習面でも、私は落ちこぼれることはできませんでした。もちろん毎日放課後、まず友達と山に行って木の実を取り、山菜を摘みます。しかしあたりが暗くなると、家に帰りオンドルの上に寝そべって宿題をしたり、母が町から持ってきた、“物語集”や“作文選”などの本を読みます。(この2年間、小説は読みませんでした。農村で小説を手に入れるのは無理でした。)

 

そんなこんなで、農村の学校での最後の試験で、私の成績は全体で5番、女子ではトップでした。

 

もうすぐ中学入学が迫っていました。母は私の体がすっかり回復したようだったし、叔母さんにこれ以上の迷惑はかけたくなかったし、町の学校のレベルが農村の学校より上だと考えたこともあって、私はまた家に戻ることになりました。

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2017/01/30

“肥水不流外人田”

 

この言葉は、一時代前の中国の農民の正直な本音だったと思います。人糞が生産量を左右するのですからまさに死活問題だったと思います。

 

 

 

しかし現代、一国のトップがこれを公言し、国の方針としたらどうでしょう。もちろん肥水は金、田は国と置き換えての話ですが・・・・。

 

 

 

しかもグローバリズム(勝者総取り方式)を先日まで推進してきた国のトップです!

 

彼がもし偉大な指導者になるつもりなら、自国の数パーセントの超富裕層のお金を、半分でも、食料切符で生をつないでいる貧困層に還元する仕組みを考えたらいいのではないでしょうか。

 

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